研究と報告

記事詳細

2013.09.25

研究と報告104 オホーツク地域経済再生への取り組み

小松善雄  元東京農業大学教授

「オホーツク地域経済再生への取り組み」
小松善雄(元東京農業大学教授)

新自由主義地域振興政策の30年
 21世紀に入った現在、地域経済の疲弊、地域社会の崩壊の動きにはなお歯止めがかかっていない。これには然るべき所以がある。
 現在の地方の解体的状況の直接の原因は、本格的新自由主義政権の中曽根内閣の臨調・行革、国鉄の分割・民営化と双をなしてすすめられた東京を世界の金融都市とする東京一極再集中政策にある。これにより高度成長による過密・過疎、公害・環境問題の爆発の反省から唱えられた“地方の時代”への対応として進められようとしていた地方定住圏構想は反故にされ、前川レポートも地価高騰を引き金とする株価高騰を招き、80年代バブルが横行する。
 91年バブルがはじけ、平成不況が始まるが、90年代前半はいまだバブルの余韻があったものの、96年の橋本内閣の消費税引き上げによる不況とひきつづく97-98年の拓銀・山一の倒産による金融システム不安は一気に地方経済を冷え込ませ、地方衰退の地すべりが始まり、地方財政の赤字が恒常化する。
 さらにこれに追い打ちをかけたのが、小泉内閣の構造改革で郵政民営化、地方交付税見直しなど、地方財政の三位一体改革の締め付けによって町村合併を邁進させる。それでも夕張市の財政破綻にいきつく。
 ここでさらに言えば、地方の衰退には、85年のプラザ合意以降のドル安・円高誘導により大企業・多国籍企業の海外直接投資が中国等、東南アジアに向けられ、国内産業の空洞化が進められたことも大いにあずかっている。
 さて、中曽根内閣の新自由主義路線は、適者生存-ウイナー・テイク・オールという社会ダーウィニズムにたつ政策思想であったから、社会的弱者切り捨ては同時に地方切り捨てにつながっている。そのことは、五全総(第五次全国総合開発計画)の廃止とともに国土の均衡的発展によるナショナル・ミニマムの達成という戦後の地域開発の基本理念が放棄されたことに現れている。
 しかし、地方のさらなる衰退は放ってはおけず、2004年にこの指止まれ方式により、地方の自立支援を謳う地方再生法が成立する。さらに2007年、地方分権改革推進法の成立を受けて地域活性化統合本部が発足する。
 それでは新自由主義下の地域振興政策のもとで網走市の地域再生の取り組みは、いかに位置づけられるであろうか。
 網走市は人口約4万人、農業・水産業・観光業を基幹産業とする都市である。農業では日本で最も高い水準の大規模機械化農業で有名な南網走農協の営農集団を擁し、漁業では世界三大漁場の一つオホーツク海を日本で最も厳格な資源管理型漁業によって利用している。
だが、農業・漁業とも産品の一次加工に留まり、付加価値率は北海道平均を下回っていて極めて低い(表1)。網走市もご多聞にもれず、かつて企業誘致にむけて工業用団地(能取団地)を造成したが、企業進出はならず、起債の元利支払いの累積で苦しむという外来型開発の失敗の経験を有している。とはいえ、なお内発的発展の方途も見出されているという状態にある。
このような状況にあるなか、2010年東京農業大学と網走市は文部科学省科学技術振興調整費「地域再生人材創出拠点の形成」事業の採択を受け、『オホーツクものづくり・ビジネス地域創成塾』を立ち上げる。
それではなぜこの事業に採択されたのか。この事業はどのようにすすめられているのか、この点をみておこう。

オホーツク地域経済・社会再生への基盤づくり
1)オホーツク・大学間交流協議会
まず前者であるが、ここに至るには若干の経緯がある。その発端は2008年、法政大学で地域活性学会が創立された際、NHK「プロフェッショナル-仕事の流儀」でスーパー公務員と紹介され、小樽市役所から地域活性化統合本部に出向されていた木村俊昭氏(現東京農業大学教授)との出会いである。木村氏の勧めでまず大学の講義に「地域活性化システム論」を設置するなか、「地域再生人材創出拠点の形成」事業への申請をも進めた。もっとも木村氏によると、その採択には二つの必須要件があるという。
その一つは、当該自治体がこの事業へ積極的姿勢をもっていること、その二は地元の何らかの研究施設-大学がもっとも適当-の地元産業との結びつきとその貢献度で、とくに後者がもっとも重視されるという。それならば東京農業大学生物産業学部は十分その要件を充たしていると考えられた。というのは、その実績が積み重ねられていたからである。
 それではどんなことが試行されてきたか。
 その一は20年余に及ぶオホーツク・大学間交流協議会のセミナー事業である。これは、東京農業大学生物産業学部が開学された1989年、大学と大学、大学と地域の壁を取り払い(ボーダーレス)、大学の知と地域の知を結びつける(共創=共同創造)を合い言葉に、わたし小松善雄、田中俊次、黒瀧秀久の三名が呼びかけて、オホーツク所在の5大学-北見工業大学(世話人:小林正義)、北海学園北見大学(世話人:菊地均)・同短期大学(世話人:大前博亮)、道都大学(世話人:小川昭一郎)と結んでつくったもので(注1)、主に事業は当初、年一回の地域公開交流セミナーを開催することであった。しかし、これにはポスター、開催要綱プログラム、謝礼・交通費等々、所要経費がかかる。交通費一つとってもオホーツク地域は岐阜県と同じくらいの面積があり、しかも国鉄分割民営化で紋別-網走間の鉄軌が廃止されたので、バス代にしろ、自家所有の車のガソリン代にしろばかにならない。
 そこで北海道庁出先の網走支庁(現:オホーツク総合振興局)地域振興課を訪ねたところ、当時の鈴木課長が「これは面白い。常日頃、支庁からイベントをお願いすることはあるが、民間から持ち込まれるのは稀だ。それに北海道でこうしたことをやりたいというのはこれまで聞いたことがない」と理解を示してくれて、快く補助金支給の手続きをとってくれた。とはいえ、補助金支給についても周知のように通常5割補助であるから、残りの5割は自前で用意しなければならない。しかし協議会といっても有志の会であるから、それほどお金を集められない。ではどうするか。そこで思い立ったのは、地元企業50社くらいの広告を掲載して協力金を仰ぐことであった。
 このアイデアは窮余の一策であったが、これがセミナーの充実には大いに役立った。というのは、協力企業の社長・専務はせっかくの機会だからと社員をセミナーに派遣してくれたし、分科会のパネラーや司会までやってくれたからである。そこで私たちもセミナー修了後、2~3ヶ月のうちにセミナーの報告書をまとめ、協力企業に配布したところ、会社の朝礼の際の例え話に引いてくれたり、社員研修に使ってくれるところがあったのである。
 このセミナーの継承はまた慮外のラッキーをもたらした。というのも生物産業学部が大学院修士課程を設ける際にも博士課程を設ける際にも当時の遠山敦子文科相から、全国にもほとんど例がなく、北海道の私立大学でも異例に早く認可を受けるという余徳をもたらしたからである。そして学部生をへて大学院の修士・博士に在籍している生え抜きの若い層が強力なパワーになっていく。
 補助金をもらってもセミナーの準備・開催過程はあくまで民の自律・主導でもっておこなった。支庁の鈴木氏ら歴代の課長は先生方を信頼していますからと言って“金を出しても口は出さない”という襟度を守ってくれ、チェックはセミナーにかかわる領収書が耳を揃えていて、落ち度がないかということだけであった。行政と付き合うとき、一分の漏れもない領収書台帳をつくっておくことがいかに大切か教えてもらった感がある。
 そこでセミナーの準備・開催過程であるが、5月早め頃、前記の5大学の世話人が集まって(当初世話人会、のち幹事会)、その時点でオホーツク地域でもっとも求められているものは何かを、言わば共通テーマを終日議論し、次回にスローガンにまとめる。併行してどんな分科会テーマをいくつ設定するかを明らかにし、誰がパネラー、コーディネーターをやってくれるかを決め、世話人、パネラー、コーディネーターの両者からなる拡大幹事会で共通スローガンと分科会の持ち方を決める。そして第1日目は共通テーマについての基調講演と特別セッション、第2日目は分科会と2日間に分けて実行していった。そして異業種交流の顔合わせということもかねて大体、第1日目に懇親会を行う段取りであった。
 開催地は初回が網走(オホーツクキャンパス)、次回が北見(北見工業大学キャンパス)、3回目が紋別(道都大学キャンパス)と主催校が回り持ちでやるのであるが、世界遺産登録を考えていた午来昌前町長からのお願いもあり、大学のない斜里町で開催したこともある。開催地の役場の首長を訪問し、協賛になってもらうので実行委員会に入ることになる。そこで首長も指示を受けた企画課や経済課などの担当者も入るので、特別セッションや分科会の持ち方にも要望・意見が出る。それらは大体、組み入れられ、地元色のあるものが行われることになった。
 毎年の参加者は大学生も含めて、最低でも300~400人規模であったから、この20年に知人・友人の輪・人的ネットワークをつくった人びとは千名の単位にのぼる。この催しは、オホーツク地域のマチおこし、マチづくりの土壌をつくり出したと言えるものであるが、何よりの財産はその地、その地のキーパーソンに出会えたので、アテにできる人間関係、困ったときの助っ人になってくれる人間関係を築けたことである。

2)オホーツク地域自治研究所
 それではつぎにオホーツク地域自治研究所の創立とその活動について述べておこう。
 オホーツク地域自治研究所の創立の機縁は、宮本憲一氏が自治体問題研究所の理事長を引き受けられ、池上洋通氏が常務理事を勤められていた90年代にさかのぼる。この時期、北見市に雇用されていた栄養士、保母たちが三度にわたり池上氏を講演会を招いた時、二度目の講演会の夕食会で池上氏がこの地にも自治体問題研究所のような組織が必要なのではないかという問題提起をしたのを受け、彼女らが当時、訓子府町役場の助役を勤めていた菊池一春氏に池上さんからこういうことを言われたが、どうしたらよいかと相談を持ちかけたことから始まる。社会教育畑出身の菊池氏は、かねてから池上氏とは辱知の間柄なのでその真意と組織の仕方を問いかけたところ、組織化に当たっては大学教員を巻き込むことが大切だというので、当時、訓子府の農業振興計画のアドバイザーをやっていた東京農業大学生物産業学部産業経営学科の教員になっていた長澤真史氏に声をかけたので、生物産業学部の有志教員が協力することになったのである。
 菊池氏とは大学間交流協議会で会ったこともあり、菊池氏が言ってきている以上、協力しないわけにはいかないということで準備会に入ることになった。しかし、準備会といっても池上さんを呼んだ栄養士、保母さんと菊池氏、二三の東京農大の教員の集まりでは何年たっても組織ができるかおぼつかない。そこで組織理念と組織のつくり方が見えてきた段階で、大学間交流協議会で知り合った地域、地域のキーパーソンに声を掛けることにして、協議会での話し合いを進め、いくつかのことをはっきりさせていった。
 その一は、地方自治という言い方は中央・地方という二項対立におちいりやすいし、どこに住んでいてもわれらが主人公であるという意気を明らかにするため、他の組織とはちがい、地域自治研究所とする。その二は衛都連型の団体加盟ではなく、原則として個人加盟の組織にする。その三は北見市には自由民権運動の闘士が逃れ住んだという地方史としてユニークな伝統があり、こうした流れを大事にする、というものである。
 結果は、36人が呼びかけに賛同してくれた(36人衆)。そこでその呼びかけ人会に準備会も入り、イニシアチャーグループとして機能することになった。呼びかけ人会で申し合わせたことは、(一)会員が100名に達した時点で第1回総会を開く。36人衆が知り合いの2人3人を説得すれば100人はむずかしくない。(二)この会で総会に提出する規約を画定するの2点である。
 後者の規約づくりから述べると、36人衆は地元ではそれぞれ何らかの組織の長をやっていて組織運営の苦労や知っている活動家が多いので逐条審議では活発な意見が噴出、現在の規約は短いものだとはいえ、その結晶である。
 前者に帰ると、何せオホーツクでは初めてのことなので、主旨を理解してもらうため、オルグ対象の人に判ってもらえる呼びかけ人アピールをまとめ、それを持って当たってみたところ、半年ほどで100名を超え、120名ほどの規模になった。
 そのさい、小樽運河再生運動にたずさわった有機農業の食材一筋のビジネスを展開している川崎克さん、本の目利きがすぐれ、ローカル出版物を大事にし、道東でもっとも良心的な書店経営をやっていると評されている福村書店社長の下斗米ミチさんが会員獲得に大車輪の働きをみせてくれたことを記しておきたい。とくに下斗米さんは女性会員を増やしてくれ、女性の発言権が大きい研究所にしてくれた功は大きい(注2)。
 こうして第一回の総会を迎えて私が理事長、菊池さんが常務理事に選出されたが、この二人だけでは実情、実務に通じない恐れがあるとして、とくに事務局長に大江良一さんが選出され就任した。この総会で見落とせないのが、次の2点である。その一つは、36人衆の一人から副会長を4名体制にしたらという提案があったことである。理由は、各地域各分野で周りから“この人なら”という信頼の篤い人がいるが、そういう人を放っておく手はない。そういう人の知恵を借りるべきだということで了承され、4名が選出された。
 その二は、開場で入会後の希望活動分野アンケートを行い、それを集約して部会=研究会を発足させるとしたことである。これは会員が幽霊会員にならないよう必ず研究会一つ(一つ以上でもよい)に所属させることにしたので、そのことを想定して幹事が選出された。そして総会後、初めての理事会で現在の「まちづくり・行財政研究会」、「教育文化・福祉研究会」、「地域産業・経済研究会」、「自然・環境研究会」が発足をみた。
この研究会活動でユニークだと思うのは、研究会が独自の刊行物を出していることである。どうしてそういうことができたかというと、地域自治研は緊急のもののほか、定例行事として「オホーツク地域創造フォーラム」(だいたい秋)をやっているが、その開催主宰者が研究会に割り当てられていることがある。このフォーラムは一般市民向けの公開フォーラムで参加者無料(資料代はとる)で60~100名規模の人が参集する。市民に向けての顔見せ興業だから頑張らなくてはということで、日頃の学習・研究実績をこれに向けて結集する。そこで例えば2005-2006年にふるさと銀河線存続再生運動が起こったさい、まちづくり・行財政研究会が『過疎地の「交通権」は誰が守るのか-ふるさと銀河線の問題を中心に-』という共通テーマでフォーラムを主宰し、「全国の鉄道存続と銀河線廃止の特徴」と題して基調講演をNPO法人全国鉄道利用者会議理事長の清水孝彰氏に、「再生ネットワークの活動について」と題してふるさと銀河線再生ネットワーク代表の下斗米ミチ氏に行ってもらったあと、パネルディスカッションでは「過疎・高齢社会の交通政策」をふるさと銀河線再生ネットワーク事務局長の中川功氏、「鉄路を活かした観光事業と陸別町の活性化について」を陸別町商工会事務局長の平等志成氏、「えちぜん鉄道と岐阜市内線の復活」をNPOふくい路面電車とまちづくりの会(ROBA)事務局長の清水省吾氏がそれぞれ報告している。これらを受けて討論が行われたのであるが、その内容が資料集を付してB5判のブックレットにまとめてられている。
 ブックレットといってもペラペラの薄いものではなく、100ページ近くの立派な報告書であり、文献的性格も高い。これが500円で売られているのである。
 このようなブックレットは、教育文化・福祉研究会では『ひとりじゃ子育てできっこない-社会が子どもを育てる覚悟を-』、地域産業・経済研究会では『オホーツク 食と農の再生を求めて』、自然・環境研究会では『常呂川流域からオホーツクの環境問題を考える』をまとめている。
 これらのブックレットは、地域の書店で扱ってもらったり、翌年の地域創造フォーラムで自治体問題研研究社の書籍販売コーナーで一緒に売ったり、関係方面で購入を進めたりして売り捌いている。
 地域自治研究所の財政は会費-年会費によってなりたっている。しかし会費だけでは理事会会場費は出せるにしても、地域創造フォーラムで東京などから講師を招いたさいの航空運賃・宿泊代・講師謝礼金などを捻出するのはなかなか大変である。そこで研究会の出版物の販売収入をこれに当てている。これで財政的・経済的に自立をめざしている。
 北海道は黒田清隆の開拓使以来の上からの殖民によって形づくられてきたところから、官依存体質が強く、ここオホーツクでも財政的・経済的に自立しているNGO・NPOは少ない。その少ないNGO・NPOもサークル規模のものである。100名で財政的・経済的に自立しているNGO・NPOとしてはオホーツク地域自治研究所は最大のものであり、この地域における存在感は大きい。しかも、その活動内容はブックレットで伺えるように、当地の地域経済・社会の再生の持続的な取り組みであり、貴重な存在であると言える。

オホーツクものづくり・ビジネス地域創成塾
 たしかにオホーツク・大学間交流協議会、オホーツク地域自治研究所の取り組みは、地域経済・社会再生にヒトとヒトとのつながり、絆をつくり出してきた点では、一定の評価をしうるとしても、地域経済再生の本命であるべき地域生産物の産出というものづくりに直接関与するものではない。この機会を与えてくれたのが『オホーツクものづくり・ビジネス地域創成塾』の取り組みである。
 そして東京農業大学生物産業学部はこの取り組みを行いうる諸条件を1989年の生物生産学科・食品科学科・産業経営学科の三学科体制をとって開学以来つくってきたといえる。
 もともと東京農業大学と網走は戦前の樺太農場の撤退後、網走市音根内に寒冷地農場がつくられていたことでつながりがあったが、生物産業学部ができるにいたったのは、田中角栄の日本列島改造論の破綻、200カイリ時代の到来、1973年オイル・ショック後の低成長時代への突入による地方基幹産業の退潮のはじまりと軌を一にする。
 こうして農協・漁協のみならず、市民を挙げての誘致運動のすえ、公私協力方式でつくられたので当初より地元ととけこむことが志されている(注3)。
 産業経営学科についていえば、初代学科長齋藤仁先生の提案により、平成元年の赴任の年に文科省に「網走地域の社会経済構造に関する総合的研究」というテーマで科研費を要請し、受理され、一年余をかけて報告書を提出した。これは全国諸々から集まった学科教員がこの地域についての共通認識をもつのにあずかった。その後、学科教員は齋藤先生がエコーセンター建設委員会の座長をつとめたほか、他の教員も網走市の総合計画審議会、都市計画審議会、商調協の会長、副会長、委員などをつとめるほか、周辺町村の農業振興計画のアドバイザーになったりして次第に地域住民ともノミニケーションを交わす仲となった。さらに田中俊次氏は網走から斜里に居を移し、知床世界遺産に関わってエコ・ツーリズムを研究し、その具体化をはかっていく。黒瀧秀久氏が“緑のエコラベル”と言われる森林認証制度の導入・普及に努力し、網走東部流域森林・林業活性化協議会、網走西部流域森林・林業活性化協議会を立ち上げ、とくに紋別地区を日本で最大の認証地域に育て上げていったことも特筆されてよい。
 生物生産学科では横濵道成、増子孝義の二先生が、現在では北海道に最大の食害をもたらすまでに繁殖したエゾシカの生態を研究したうえに、食材としてのエゾシカ利用:レシピの開発を行っている。
 また、食品科学科では永島俊夫氏が発泡酒の盛行にあわせて“網走ビール”を開発、青の「流氷」、赤の「ハマナス」、緑の「知床」、紫の「じゃがいも」のオホーツクの四季の4点セットは、高島屋のお中元セットでナンバーワンに輝いたこともある。さらに渡部俊弘氏は網走でのオーストラリアの国鳥エミューの飼育を提案し、農家の協力をえてエミュー牧場をつくり、エミューオイルなどの製品を販売するアンテナショップ“笑友”(エミュー)を開いている。
 この試みは2008年7月に「地方の元気再生事業」にも認定され、内閣府地域活性化推進担当室の官僚はじめ中央の役人にこの地域を知っていただくよい機会になったのである。とくに当時内閣官房に出向していた木村俊昭氏がこの事業で東京農業大学オホーツクキャンパスの存在を知り、翌2009年度から内閣官房・内閣府が支援する「地域活性化システム論」を大学の講義として開始し、「地域再生人材創出拠点の形成」事業に採択されたことにより、大学が地域再生の拠点として存在感を示すようになったのである。
 なお、組織体制としてはよくありがちなように開学時、全教員加入で生物資源開発研究所がつくられたが、個人研究の延長、事務機能の一部として組織されたので機能せず、学部の横断的な研究体制と文理融合教育の推進により地域連携を強化するための、プロジェクト研究と実務の両面をこなせる組織としてオホーツク実学センターがつくられ、黒瀧氏がセンター長として衝に当たることになった。そしてこの実学センターが「地域再生人材創出拠点の形成」事業『オホーツクものづくり・ビジネス地域創成塾』の実質的な運営主体になったのである。
 こうした前史をへたうえ、冒頭に述べたように「地域再生人材創出拠点の形成」事業の採択に至ったわけであるが、これにともない、網走市企画総務部、オホーツク総合振興局地域政策部、網走商工会議所、網走青年会議所、網走信用金庫、網走市観光協会、網走消費者協会、オホーツク網走農業協同組合、網走漁業協同組合、西網走漁業協同組合などによって構成される運営委員会がつくられ、生物産業学部長の横濵氏が塾長、実学センター長の黒瀧氏が塾頭にすわることになった。
 さて、採択後、ただちに直面したのはカリキュラムの作成である。幸いなことにオホーツク・大学間交流協議会でともに汗をかいた北見工大が2006年にこの「地域再生人材創出拠点の形成」に採択されていたので、北見工業大学社会連携推進センターから資料提供を受けることができた。また、2007年にこの事業に採択されていた帯広畜産大学地域連携推進センターの関川三男先生ともコンタクトがとれ、ここからも資料提供を受けることができた。北見工大のプログラムが主として建設業の業態転換をテーマとしたのに対し、帯広畜産大学のプログラムは新商品・新技術開発をテーマにしていたので、農大が求めていた方向と合致していたので三度にわたり、帯広畜産大学を訪ね、帯広信金との連携で学ぶところが多かった。
 さてプログラムの原案は、カリキュラム作成チーム座長美土路知之氏のもとで研究員の菅原優氏を中心に田村正文氏、小田毅氏らがつくったものである。カリキュラムは一年目は基礎と応用とも座学が多いものの、二年目は商品展開力を持つ人材の育成(統合科目)に見られるように実習中心に変わる(表2 カリキュラム内容一覧)。
 それでは受講生はどのようにして自らの商品開発などに踏み出していくのだろうか。
 まず一年目の10月頃より各自がシーズを見出すための実学センターの研究員が常時マン・ツー・マンで相談にのり、1年目の終わり3月頃までに一応のシーズをはっきりさせる。そして2年目に入り早い人は6月くらいから企画書をまとめ、夏期に試作品づくりに入る。そして企画書の段階、試作品づくりの段階の双方で、「事業化・商品化推進タスクフォース」の講師からアドバイスを受けリファレインされたものにしていく(注4)。
 しかし、これだけではなかなか商品力のある製品はつくれない。そこで力を発揮したのは黒瀧塾頭の発議でできた“塾生会”である。つまり塾生同志が自発的に自分のも含め、それぞれ批評し合って改善に次ぐ改善をおこなうしくみで、塾生自身がそれぞれ独自の体験にもとづく柔軟な発想の持ち主の集まりなので、シナジー(相乗)効果が大きいのである。
 それとともに有益だったのは、北見工大、帯広畜産大、農大の塾生が中心になって合宿込みでおこなわれた道東3大学合同特別セミナーである。北見工大、帯広畜産大は先駆けで塾生のうちには製品開発で苦労したものもいるので、“最後はこうするんだ”という最終製品のイメージ形成に役立ったのである。
この開発プログラムには1年目の中間発表会と2年目の最終成果発表会があり、いずれも研究員が発表者のスライドの作成を含めプレゼンテーションの指導をおこなうので、最終成果発表会のときの塾生の発表ぶりは堂に入ってものになっている。
それではその成果はどうであったろうか。
「第1期修了生の取り組み状況」がそれを示すが、ここには新商品:新技術の開発とシステムづくり・しくみづくりの二つのテーマがある。そのうち新商品・新技術のとりくみではすでに事業・企業として成立している場合のそれとこれから事業・企業を立ち上げようとしている場合のそれとに別れる。前者は喜多由美さん、倉若緒さん、柳谷亜紀子さん、渡邊典子さんらで、既に事業展開に入っている。問題は後者の場合である。というのは、川崎市のかながわサイエンス・パーク(KSP)などに見られるように、大都市部ではインキュベータ(保育器)機能が整っているものの、地方にこそインキュベータ施設が必要であるのに行政にしろ民間にしろ、そうした経験とノウハウがきわめて乏しいのが現実だからである。
製品開発過程の具体化位相には(1)「製品およびプロジェクトの決定」、(2)「製品構成(構造)技術の開発」、(3)「プロトタイプの試作およびテスト」、(4)「パイロットプラントでの製造準備」の4局面があるともいわれているが(U・コッペルマン著、岩下正弘監訳、片岡實・中村友保訳『製品化の理論と実際-新製品開発から市場導入まで-』東洋経済新報社、1984年)、このうちの(4)パイロットプラントでの製造準備で行き悩んでいる。
この問題にぶつかって苦労しているのが、創成塾のタスクフォース委員をやられている道山マミさんの場合である。道山さんは生物産業学部第1期生で卒業後、東京で会社勤めをしていたが、“第二の故郷”網走の発展になるならと東京農大バイオインダストリー・ショップ“笑友”(エミュー)に転職、自ら地域プラントになるものを模索中、山わさび生産農家と出会い、「ガツンと辛い山わさびの粕漬け」を「T-1グランプリ」決勝大会法人の部に出展したところ、最高賞のグランプリを受賞し、漬物日本一の座をしとめ、全国から引き合いが相次いでいるものの、製造は学生時代からの恩人である藤石哲也さんの工場を借り、工場として利用させてもらっていて、いまだ自前の生産施設を備え付けるまでには至っていない。

オホーツク地域経済再生への取り組みの示すもの
 2013年6月11日付けの『日本経済新聞』の「大機小機」欄に「地方経済の魅力」と題した「甲虫」ネームのコラムが載った。いわく東南アジアの人々にとって夏でも涼しい北海道は魅力的な場所だが「日本経済の中でも特に停滞が続いてきた地域」で「札幌を除けば、主要都市の高齢化が人口減も顕著である」。では、どうしたらよいか。「地方経済も、思い切った規制緩和や構造改革を実行し、その魅力や潜在力を存分に活かすためのチャレンジが求められている」。
 ここ数十年来の決まり文句になっている「規制緩和」・「構造改革」という相変わらずの新自由主義的地域振興政策の推奨である。
 甲虫氏には、氏のいう「規制緩和」等々こそが大都市と地方との格差、地方の疲弊をもたらした元凶であるという認識は垣間見られない。
 しかし、オホーツク・大学間交流協議会、「オホーツクものづくり・ビジネス地域創成塾」の取り組みから見えてくるのは、この陳腐な呪文のくり返しではない。
 転換されるべき当のものの第一は、マクロ的にいえば、この新自由主義的地域振興政策の廃棄により、日本のどこに住んでいても所得・教育・文化のナショナル・ミニマムを教授できるため、国土の均衡的発展という基本理念を復活・復興させることである。
 たしかにこの間にも徳島県上勝町の“葉っぱ”ビジネスや島根県海士町の産地直送ビジネスなど、点の地域再生はみられる。しかし、これらの点から面への広がりは未だである。
 では、点から面への展開に求められるものは何か。
 東日本大震災以来、日本が「大地動乱の時代」(石橋克彦)に入っていることが明らかである以上、東京一極集中、札幌一極集中など大都市部への過度集積はリスク・マネージメントの見地からも不合理・非合理である。国土の均衡ある発展の理念の復活・復興なくしては21世紀は危ういのである。都市=過密と農村=過疎を解消するためには、産業の地方分散と地域産業の再興と新興の二つの政策がある。産業の地方分散、とくに大企業本社の分散は、旧西ドイツが数十年をかけて進めたもので日本ではやられてこなかったばかりか、90年代以降の海外直接投資=産業の海外移転により、この外来的開発は望むべくもない。となると、国土の均衡的発展という国土政策の理念に貫かれた長期の経済社会計画にもとづく地域の再興と新興という内発的発展の路線しかない。
 それではこうした理念によってえられた内発的発展には、セミ・マクロ的にいって何が必要か、それにはあくまで民主導で「官」をも巻き込んだ“風の人”(外来者)と“土の人”(地元居住者)とのコラボレーション(協働)がまずなければならない。私たちの経験でも、“風の人”(外来者)が“土の人”(地元居住者)と付き合いの関係ができるには、大体“風を知っている土の人”-大学時代、東京などに出て、地元に帰ってきた人(いわゆるIターン、Uターン)が“風の人”と地元から離れたことのないもともとの“土の人”との仲立ち・かすがいになってくれている。地方では最低でも5年、10年たたないと“風の人”は“土の人”に認めてもらえない。しかし、“風の人”、“土の人”、“風を知ってい
る土の人”の三者は異質多様なものをもっているだけに新しい創発性が生まれる。このように内発的発展といっても内にこもるものではなく、外からの刺激を受け入れて現在に豊かになっていくのがベストである。そしてこの三者関係がすべてのことの展開基盤になる。
 第三は、地方にも「チャレンジ」はあるのであるが、現在のしくみではそれが伸ばせず立ち枯れることが多いことである。それには権限だけでなく財源も地方政府が必要である。いまの政治状況ではただちにそこまでいけないにしても、最低でもミクロ的にいっても東大阪市の“クリエーション・コア”-一カ所でかつワン・ストップで土地の面倒をみ、工場のつくり方を教え、資金手当の便宜をはかり、品質管理のノウハウを備え、マーケティングの相談にのれる、その道のエキスパートを備えた施設が必要である。現在、政府・自民・公明は、高速道路の整備など、利権と政治献金がらみの“国土強靱化法案”の国会提出を行おうとしているが、本当の国土強靱化とは、地方産業・地域産業の強靱化であるべきで、そのためにまず、新しい起業のスタート・アップ・すべり出しの体制的支援が必要である。
 そして地方ではさし当たり食品加工業が基軸となるであろうから、起業家主体としても磯部晶策氏のいう「良い食品」の四つの条件=原則-(1)安心して食べられること、(2)ごまかしがないこと、(3)平均したおいしさがあること、(4)普通の消費者が買いやすい価格であること、とりわけ四つの条件=原則がそこに帰着する第二の「ごまかしのないこと」(『食品づくりのへの直言』風媒社、1989年)を体認することが必須である。
 これだけ地方が疲弊している以上、地方税の税源涵養の立場からしてみても、地方公務員にしても法律・法令をよく知っているだけでなく、企画・立案・プランニングに長けているだけでなく、企業起こし・企業づくりの実務・実行のさいに実際に役に立つ人になりうる理論的・実務的能力がありうべき公務の目線として求められているのではないであろうか。

(注1)オホーツク・大学間交流協議会が短期間のうちに結成されることになったのは、網走市長安藤哲郎氏と二人三脚で生物産業学部の開設をすすめられた東京農業大学学長であった松田藤四郎氏(紋別北高出身、のち理事長)の力添えによるところが大きい。松田学長は大学間交流協議会結成の呼びかけ文にも賛同の許諾を与えただけでなく、第一回の網走キャンパスでの開催に際し、学長予算からの特別支出枠を設けていただいた。これに他大学の学長、総長もならい、全学規模の開催ができることになったのである。
(注2)下斗米ミチ氏はその後、北海道中小企業家同友会オホーツク支部本部長を歴任、著書に『母さんの風呂敷包み-北の町に本を届けつづけた女社長のふんばり人生』(扶桑社、1989年)がある。
中小企業家同友会全国協議会(中同協)は、現在、中小企業憲章の国会決議、中小企業振興条例の制定などに取り組んでいる。中小企業家同友会は「国民や地域とともに歩む中小企業」を理念の一つとしているだけに地域産業政策の策定・実行に際しては同友会との支援・協力関係の構築は力強い一助になろう。
(注3)公使協力方式とは、公=行政単位でもなく私=私立大学単位でもないので公=行政と私=大学の協力による大学設立の方式であるが、網走の場合、約46億円の総建設費のうち、市民からの拠金が約11億ある。「公」と「私」といっても「共」が入っている。4万都市で11億であるから市民の熱意のほどがうかがわれる。他に石巻専修大学がある。
(注4)ものづくり創成塾は定員15名であるが、初回の応募人数は44名で2.9倍の倍率になった。塾生には東京からの移住者、札幌からの通いの人もいるが、網走市を中心にオホーツク全域という地域構成で、職業構成では国家公務員、地方公務員、農協・漁協職員、地場企業経営者、農業経営者、退職者などとなっている。講義でも実験でも大学生以上に質問が多く、学びに貪欲であるのが特徴的である。

食料品製造業付加価値推移

 

食料品付加価値推移グラフ

 東京農大カリキュラム体系化

 

 

 東京農大カリキュラム01

東京農大カリキュラム02東京農大カリキュラム03