2005年05月04日(水)
憲法「改正」反対の共同について
●本日(昨日)は、憲法問題での各種集会が全国で開催された。新聞報道では、「改憲派」と「護憲派」が「公平・対等」に扱われていたが、護憲派の集会や行動が圧倒的に多かったことを確認をしておきたい。
私は憲法の専門家でもなく、憲法論について口幅ったいことを言うことは自重したいが、これだけ改憲論が盛んになると、一国民として必要なことは述べるべきだという思いを強くしている。
●そこで、今回は憲法「改正」に反対する一点での共同ということについて、考えてみたい。「一点での共同」というのは、意外に奥の深い内容があり、また、成功しそうで成功した試しの少ない事象でもある。
①具体的に考えてみて、どういうレベルの共同なのかということからして難しい。憲法改正を発議するには、周知のように憲法96条で、各議院の総議員の3分の2以上の賛成が必要となる。
では、政党レベルで「改憲反対の一点」での共同があり得るとすれば、改憲以外の政策的・綱領的な差異を横に置いて、「改憲反対」の統一候補を擁立するようなことも含まれるのか。選挙は改憲だけではなく、様々な問題を総合的に取り組むべきものなので、「統一候補」といったその他の課題を無視した数あわせは行うべきではないと考えるのか。
改憲勢力が各議院の3分の2に満たなければ、改憲そのものが不可能なので、その限りで「終わり」になる。
改憲反対の一点での共同には、こういった政党間の共同は含まれないのだろうか。一般の国民レベルの「運動」のあり方を示すものに留まるのだろうか。ここは、「護憲」を掲げる政党、議員によくよく考えて欲しい問題である。
②改憲の発議を行うだけの勢力が国会にあっても、改憲には国民投票が必要である。憲法96条に「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」と規定されている。
この国民投票については、国民投票法の制定が必要であるが、この法律の制定そのものを「改憲の準備」として、葬り去る運動を展開するのかどうか。内容によっては(9条とか各条ごとに賛否をとるのかどうか、過半数の定義、投票に向けての政治活動のあり方など)受けて立つのか。また、国民投票に関する態度は、改憲反対であっても、必ずしも一致しない場合もあるので、はじめから、「一点での共同」の対象にしないのか。大きく三つの対応が考えられる。現実の問題としては、国民投票法が出来なければ、それで「終わり」なので、この運動に関する「共同」のあり方は、非常に重要である。
③今回の改憲の動きの中心は、憲法9条問題であろうが、それだけではなく、「前文」などを書き換えることになれば、それこそ「国のあり方全体」(これは、本来の「憲法」の意義そのものであるが)を変えることになる。こういう立場から見ると、「改憲反対の一点での共同」とは、憲法に手を触れさせないことを意味するが、「憲法9条改正反対」だけで共同することでは、運動の目的を達成することは不可能とみるのか。環境問題とかプライバシー・情報公開、地方自治などの個別の「改善」に巻き込まれることを避けるために、9条だけを問題にする立場は否定するのか。
9条改正に関する世論は、まだ改正反対が多数派のようであるが、その他の条項については改正すべし、改憲そのものも容認派が多いというのが「世論調査」に共通した傾向である。改憲そのものについて頭から拒否する世論は、マスコミの報道姿勢を横に置いても、少なくなっているのは事実だろう。
④運動のエネルギーの供給源を何処にみるのか。有権者の過半数あるいは、半数近くは「9条改正に反対」である。政党として「護憲」「改憲反対」を掲げる共産党と社民党(民主党や自民党の中にも「護憲派」はいる)の選挙時の得票は合計で約700万票である。6000万人が投票するとして、9条改正に反対の人の多くは、自民党や民主党に投票をしている計算になる。
こういった人々の力を借りなければ、運動の成功はおぼつかないことは明確である。そして、それに成功すれば、更に大きな運動への「手がかり」が出来て行くし、二度と改憲策動ができない状況にもなるだろう。
その時に、改憲反対の政党が国会で過半数をとっているという状況も現実的には考えにくい。しかし、改憲反対の世論の高揚によって、3分の1以上を占める位の運動がなければ、「一点での共同」のイメージも貧困なものになる。あるいは、政党の動向には「反映」しないような「一点の共同」の成功がありうるのだろうか。
⑤憲法そのものへの「姿勢」「見方」の相違、例えば、現在の自衛隊を違憲とみなすのか、合憲とみて「海外派兵反対」「専守防衛」に徹する立場をとるのか、などは運動の障害にはならない保障はあるのか。
これまで、学説レベルでも、「自衛権」という概念の意味、また憲法は「自衛権」そのものを放棄しているのかといった議論が行われてきた。政党レベルでも「非武装中立」「武装中立」「違憲合法論」「自衛隊活用論」などが展開されてきた。こういった既存の議論をすべて「チャラ」にして、「改憲反対の一点」での共同が現実味があるのかどうか。
⑥最後になるが「改憲反対の一点での共同」の組織形態である。それぞれの政党や団体、個人は、みな憲法に対するスタンスが異なっており、いろいろな運動が行われている。それを「一点」で切り取って、統一的な組織を形成するのかどうか。その場合、運動のあり方について、戦術的な調整を行うことになるのかどうか。そして、政党、諸団体、個人の統一戦線的な組織をめざすのかどうか。
一般的には、改憲策動を粉砕した時点で「解散」になるのだろうが、どの程度のスパン、期間を想定した運動を展開するのか。
「9条の会」などとの連携はどのように行うのか、など、色々と議論をすべきことがある。
●色々と「疑問」なり「問題」なりを考えてきたが、私自身は上記のような問題は解決できると思っている。敢えて「疑問形」で書いたのは、護憲を任じる人たちひとりひとりが、こういった問題に向き合って、自分の頭で考える必要があると思っているからである。
今の青年の年代の人は、安保闘争であるとか、場合によっては消費税導入反対闘争などの大きな運動の経験がないハズである。我々(と言っても私は団塊の世代であるが)も、最近は「負け慣れて」きて、怒りや焦りはあるが、「これで勝てる」というような発想がなかなか困難になっていることは事実であろう。平和運動や護憲運動も、高齢化して、若者に同じ価値観を強制するような雰囲気があることも否定できない気がする。
●労働運動の果たす役割は大きいと思うのだが、実際の平和運動や護憲運動、特に学習などは市民団体の方が活発な状況になっていると思われる。選挙などがあると、それぞれの団体の日常活動を放置して、選挙活動・政治活動に邁進するという「作風」も昔のままである。政治活動を含めて、活動の総量が増大するのであれば、これもまた一つの方法かもしれないが、実際には、組合員が政治的な運動をすることは少ないだろう。
日常活動の中に(ここでは、小泉構造改革と強硬にたたかうことを念頭においているーこの大国化と新自由主義政策に反対する運動がなければ、改憲反対といっても多分空しい内容になるだろう)、改憲反対の運動や共同をうまくビルトインしなければ、結局一部の「活動家」が、熱心に走り回って、組合の構成員は「放置プレイ」になる。ここは、総学習の運動が重要になるだろう。有名な人を呼んで人を集めようとか、テクニックに走る必要はないと思う。
労働運動やそれぞれの団体の運動の「再生」や「発展」にむけて、絶好の機会として位置づけるくらいの「度量」が要求されると思う。
以上、この拙文を読む人にとっては、多分、釈迦に説法であろうが、私自身の覚え書きとして、本日考えたことを記した。憲法そのものについての考えや、本日の疑問への自答はすでにあるのだが、また別の機会にしたい。

