2005年07月04日(月)
自民党「新憲法起草委員会」と「改憲」
●「新憲法起草委員会は27日、諮問会議を開き、地方自治、最高法規と改正、前文の3テーマについて民間委員から意見を聞き、『起草小委員会要綱』についての諮問を終えた。
民間委員からは、地方自治について『基地問題や原発などで、地域エゴが出る場合がある。安全保障や公共の福祉では、国の政策が優先することを入れてほしい』などの意見が出された。また、憲法の改正については『国民投票で過半数の賛成を得るなら、発議は現行の国会議員の3分の2から半数でよいのでは』との意見が多く出された。前文に関しては、『簡単で平素な文章でよい』『新しい憲法だということがわかる内容に』などを求める声があった。
起草委員会は今後、諮問会議で出された意見を参考に、『起草委員会要綱』の作成に取りかかり、7月7日に開かれる起草小委員長会議に示す予定。また、7月から10月にかけて全国10カ所で「国民の声を聞く集い」と題したタウンミーティングを行い、条文化の作業を進めていく方針だ。」
これは、自民党の「デイリー自民党」(ニュース)6月27日付けの記事である。今回は、自民党の「新憲法起草」という「考え方」について述べてみたい。
周知のように、日本国憲法は第96条に〔憲法改正の手続〕の規定がある。即ち、「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。(2)憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」ということである。
●ここで重要なことは、憲法には「改正」の手続きはあるが、憲法廃棄の手続きはないことである。つまり「新憲法」(当然、「旧憲法」は廃棄される)制定手続きは、憲法上の規定がなく、自民党の「新憲法制定」は疑いもなく「違憲」なのである。
言葉の「あや」のように受け取る方もおられるかも知れないが、実は、これは憲法というものを考える際に、重要な問題なのである。上記96条の(2)を再読して頂きたい。ここでは、憲法「改正」が承認された際に、「この憲法と一体を成すものとして」直ちに天皇がこれを公布するとなっている。
つまり、改正された憲法の条項は、「文字通り」現在の憲法と一体を成すものとなるのであるから、内容的に「齟齬」を来す「改正」は、この96条の規定に抵触する「違憲」行為だということである。
憲法に改正の規定があることから、「気楽」に改正できると思っている向きもあるだろうが、そうではない。憲法の「精神」は変えられないのである。日本国憲法の「精神」は、国民主権、基本的人権、恒久平和(非武装平和主義)であることは、殆ど異論のないところであろう。これに、議会制民主主義や地方自治等を加えて、憲法5原則を主張する人も、上記3原則はそのまま主張しているので、これは「異論」ではない。
●自民党の「新憲法起草委員会」の議論では、「前文」の書き換えから始まって、憲法9条の「換骨奪胎」まで、上記3原則に抵触する部分が数多く見られる。というか、だからこそ「改正」ではなく、あえて「新憲法」と言っているのであろう。憲法「改正」とは、例えば、プライバシー権、環境権、知る権利、情報公開など現行憲法の精神に合致する「改正」を行うことである。これならば、別に現行憲法と「一体のもの」として公布しても問題ないわけである。
もし、自民党が(公明党の協力も得て)国会の多数(三分の二)によって、新憲法案を提出するのであれば、それは、当然に違憲であり、「改正」と言い直しても「現行憲法と一体」のものと見なせない「改正」は無効であり違憲である。
●さて、では何故、新憲法や現行憲法と一体ではない「改正」は違憲なのか。それは、「憲法」とは何か。立憲主義とは何か、という基本問題に関わってくる。この辺は、法律家にとっては「当然」の話しなのであるが、テレビなどの「討論会」などを見ていると、どうも「当然」ではないようなので、敢えて素人である私も発言をしたくなる。
憲法99条には、「憲法尊重擁護義務」があり、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とあり、尊重擁護義務を公務員以外には課していない。これは当たり前のことであり、義務を課す「主体」が国民なので、国民が国民に義務を課せば、それは無意味なものとなるからである。
早大の水島教授が述べていたが、この「憲法をまもる義務があるのは誰か」「憲法とは国民が国家権力を規制するもの」という議論になると、改憲勢力との論争は俄然有利になる(討論を見ている人間の納得を得られる)ということである。こういった憲法の基本的性格を考えれば、「国を愛する義務」などの欺瞞性が明確になってくる。
誰が誰に課す義務なのか?国家が国民に課す義務以外に意味が通じない。国民が国民に課す義務であれば、自分が自分に課すわけであるから、言葉にすること自体に意味がない、無内容なものとなるからである。
「国民は憲法を守らなければならない」などいう議論そのものが成り立たないのである。「お人好し」に最高法規だから国民も守る必要があろう、などと考えると、次から次に義務を国家から課せられることになる(合掌。
●それでは、新憲法というのは、無理なのか?と言えば、そうでもない。その昔、日本共産党が、現在の憲法の制定時に国会で「反対」したのは(内容的には自衛権問題【正義の戦争を含む】・・・吉田首相は9条は自衛権そのものを否定したものではないが、9条2項によって一切の軍備・交戦権を認めていないので、自衛戦争も放棄していると答弁している・・・や天皇の問題であったが)、根本的には、占領下における支配層による憲法制定であるということであった。つまり、共産党的に言えば、人民民主主義の革命政権の下で、はじめて「新憲法」が議論の俎上に上るということであった(多分)。
だから、新憲法というものは、「国の形」を全く変える場合にのみ「有効」なものである。憲法は変えられないのである。「改正」も限定的なものなのである。そういう意味で、世界を見渡してみれば、「改正」を行っている国でも、「改正」内容は、憲法の精神を踏まえて「発展」させるものになっていることがわかる。
翻って、自民党の「新憲法」とは何か?「革命」ではなかろうから、敢えていえば、「クーデター」であろう。そう、堂々とクーデターをやらせて貰いますと国民に「正直」に告白してから提起をするなら「スジ」は通るだろうが。
●着々と憲法改正に向かって、日本の政治が動いているように見えるが、支配政党がクーデターに訴えなければ、現在の政治を維持できないと認識をしているわけであるから、「着々論」もあまりアテにはならない。
むしろ、支配に対する「危機感」が強いわけである。もちろん、こう言っても、「全般的危機論」の焼き直しである「自民党政治の行き詰まり」などという議論も、皮相である。
私はカラ元気とかカラ出張・カラ超勤などと「カラ」がつくものは大嫌いなのであるが、時代の「閉塞」の本質を見極め、相手の「矛盾」を突くことがイクサの本質であると思っている。もし、自民党がここで、憲法「改正」=新憲法制定に失敗をするならば、それこそ取り返しのつかない事態を招くことは明らかであろう。そこまで、やらなければならないと思う。
この機会に「憲法とは何か」を国民の常識にして、憲法が生きる「政治」への転換を図りたいものである。

