2006年03月05日(日)
『無防備地域宣言運動』を考える―これは憲法擁護の運動か?③
●『無防備地域宣言運動に』について、①②を書いたところ、かなり多くの方から、「賛同する」とか「わかった」という「はげましの?言葉」を受けた。しかし、当の運動を行っている方たちからの「反論」がないので、何か「物足りない」気分ではある。どこか知らない所で、反論されているのだろうか。
このブログを見ていない可能性も高いので、このような手法で「論争」ができるのか不安もあるのだが、フランクに議論するには適切な場ではないかと思い、再度、③を記すことにした。
●日本の政党が、この問題にどういう立場をとっているのか興味があるが、この間、原水爆禁止日本協議会の理事会かどこかで、共産党の役員の方が自党の立場を説明したというような「話し」を聞いているし、また、「方針」を持ったという「話し」も聞いている。まだ「しんぶん赤旗」などでは、報道されていないように思うが、いずれ、地方議会などでの「態度」を通じて、その方針の一端がわかるようになるのだろうか。
さて、国会では、この間、有事法制がらみの質問で、民主党の議員が、この無防備地域の問題について、政府に質問をしている。議事録も全部(多分)読んだが、どういう立場で質問をしているのか、よく理解できなかった(スマソ。ジュネーブ条約の追加議定書に規定された「無防備地域」の宣言を行う「主体」が政府であるのか、「地方」でも可能であるのか、と言った論点や、この宣言(実際には、この国際条約に基づく「無防備地域宣言」ではなく、一般的に、その地域の無防備状況・非武装を「敵軍」に通知するものだと思うが)によって、戦時に米軍の攻撃を受けなかったというような「歴史的事実」が指摘されたりしていた(沖縄の前島)。
政府の答弁はニベもないものであり、「正に国としてどういう対処をするのかということだと思います。したがいまして、対処基本方針というのを有事の場合に作成することになっておりまして、これは閣議決定をしてなおかつこの国会の同意を得ないといけないようになっておりますけれども、こういう中でやっぱり規定するのが本筋だと思うんですね。そういうことで、勝手に市町村がやりましてそれでやるというわけにはまいらないと思う。国としてどのように判断をするのかと、そういうことだと思います。」ということであった(大田昌秀議員への井上喜一国務大臣答弁、平成16年06月01日 )。
また、首藤議員の質問に対し、片山総務相(当時)は、「この地域を条約や議定書に基づく無防備地域にするかどうか、その決定権は中央政府だ、中央政府ないしは中央政府から委任された者だ、こういう確定した解釈があるようでございますので、地方団体自身が希望を表明することはできますよ、しかし、その地域の決定は、これは中央政府ないしはそれに類する者だ、こういう意味でございます。」と答えている(平成14年05月20日)。
突っ込んだやりとりもないので、これ以上は不明であるが、この問題については、一定の条件のある場合、自治体などが「宣言」をする、あるいは、それを「敵国」に通告するということはあり得ると思うし、この点では、前田朗氏などの議論が正しいのだと思う。
ただ、何回も書いているように、これは戦時の話しであり、平時に一般的に「宣言」できるかどうかも不明である。というか、宣言をしたとしても、「敵国」の知る所となる必要があるし、自国の「軍隊」(日本の場合は、自衛隊や安保条約・地位協定によって居座っている米軍)によって「無防備地域」であることの合意を得ておく必要がある。
●この辺までは、①と②で、大体の話を終わっている。
そこで、気になっていたのは、無防備地域宣言運動を行っている人たちが(とりあえず『無防備地域宣言で憲法9条のまちをつくる』(自治体研究社)に書いてあることを中心に論ずることにするが)、憲法とこの宣言を直結させて議論していることである。
日本の憲法は、「形骸化」されているにしても、戦争の放棄と同時に、戦力の放棄も述べているので、無防備もクソもないのであるが、実際には、米軍という世界一の戦力や、自衛隊という『隠れ戦力・軍隊』も居るので、国際法上は、政府がその気になれば、この宣言を「有事」に行うことは可能なのだろう。だから、日本政府は、2004年にジュネーブ条約の追加議定書を批准したわけである。
では、これまで何で批准をして居なかったのかというと、日本国憲法が守られている状態では、「有事」や武力紛争などは「あり得ない」ということだったのだろう。米軍の存在によって、この問題がどう扱われるのかと言った議論は、論理的にはあり得るが、実際には国会で行われた気配はない(というか知らない)。だから、この問題が浮上するためには、有事が「ありうる」し、武力紛争があり得るという「認識」が前提になるハズである。
●だからこそ、このジュネーブ条約の追加議定書批准問題が「武力攻撃事態法」との関係で、浮上したわけである。何か、憲法を実現しようとか、武力紛争はあり得ないという議論の延長線上には、馴染まない議論なのである。
そこで、無防備地域宣言運動の推進者が述べている、「憲法9条のまちをつくる」という認識が「どこから」くるのか、考えておこう。
『無防備地域宣言で憲法9条のまちをつくる』の編者である、池上洋通氏は、地方自治問題に引きつけて問題を論じている。
しかし、議論に立ち入って批判するまでもなく、日本より「地方自治」の発展している国でも、戦争を放棄し、軍隊を放棄している国はまず「ない」のであって(非武装中立を宣言している国もあるし、軍隊のない国は世界で27あるそうだが)、地方自治がいくら進んでも、即「非武装中立」などがでてくるわけではない。「自治」「小自治体」の国であるスイスは武装中立として有名であり、民間防衛の教科書も発行している。
地域や自治体から、この日本国憲法の精神を生かす・実現する運動を考えるのであれば、「9条の会」などが行っている憲法擁護の学習や運動を発展させれば良いのであり、これが本命である。
戦時人道法としての、ジュネーブ条約の追加議定書の話は、これとは別のものであろう。だから、「無防備地域条例の制定は日本国憲法から見て当然」ではないのである。人道法からみれば、関連はあるが、なんと言っても日本国憲法は、そもそも、「無防備」を特定の地域に適用したり、この宣言を「通告」する「敵国」の存在なども「想定外」なのである。
だから、政府が憲法を守る意思をもっていれば、ジュネーブ条約の追加議定書の批准など問題にならないわけである。憲法擁護の意思を根底から投げ捨てた瞬間に武力攻撃事態法との関係で批准問題が浮上したという経緯であろう。
●さて、この運動は、平和を願う「純心」な国民には「受ける」可能性はあるだろうが、本当にこれが日本国民が憲法で規定されいてる「諸国民の信義に信頼して」平和を全地球に発信するものとなるのだろうか。
現在の日本を考えてみよう。自衛隊のイラク派兵に象徴されるように、アメリカが起こす戦争を全面的に支援する方向に日本は進んでいる。日本の危険は、日本が「攻められる」のではなく、「攻める」側に立つことである。即ち、アメリカと一緒に「殴る側」に立つことに対して、有効な運動が求められているのである。日本の「有事」とは、日本が攻められた時ではなく、アメリカがどこかを「攻め」た時なのである。
日本が「攻められた時」とか「テポドンがとんできたら」というような仮想は、まず意味がない。
こういった認識に立つならば、日本が「敵軍」によって占領され、政府が機能しなくなったような想定で、自治体あるいは「地域住民」が、「ここは無防備地域だから攻撃しないで」というような運動(また、これを事前にオーソライズするために、自国の軍隊と合意も必要)を、平時に憲法擁護の運動として設定することは何か意味があるのであろうか?
地域の非武装を真に実現するためには、自衛隊の早期解消や、日米安保条約の廃棄・地位協定の廃止によって米軍のプレゼンスを解消することが必要である。こういった運動が日本のこれまでの革新勢力の力点であり、キモであった。
●序でに言っておきたいのだが、日本が憲法を遵守しているにも拘らず、理不尽にも、どこかから(宇宙からでもよい<笑い)攻撃された場合、国民はどう対応すべきなのだろうか。日本国憲法はこういった事態を想定していないし、政治的に避けられると認識しているのであろうが、「ゼロ」ではないとするならば、国民が「何らかの方法」で侵略に抵抗することは、別に不思議なことではないだろう。
国民の「自衛権」の存在は、こういった文脈で述べられてきた。今日、日本に「自衛権」があるかどうか、という議論はあまり「意味」がなくなっているが、憲法学説の歴史では、こういった議論があった(今でもあるだろうが)。
この例を見ても、日本の平和は一国で実現できないことは自明であり、憲法の精神のグローバル化(笑い)によって初めて日本国憲法は実現できるわけである。個人的には攻められたり、占領されたりした時に、「ここにはなにも軍事的なものはないから~」というような議論は性格にあわないのであるが(爆。これは冗談だが、日本国憲法の精神を生かして、核兵器の廃止、非核三原則の遵守、武器輸出禁止といった日本の平和運動の「到達点」を大事にし、これをグローバル化することを目指したいのである。

