2006年04月05日(水)

教育と地方分権考②

●以下「つづき」です。

2)教育をめぐる「対抗軸」をどのように設定するのか?

「地方分権」という切り口からみた教育行政の現状は、全国市長会や指定都市の要求に見られるように、国から自治体への権限移譲という「分権」の流れを形成していないことは事実であろう。
 新藤宗幸は「教育委員会は必要か」(『教育をどうする』岩波書店、97年)において、教育委員直接公選制復活論や権限拡充に関する議論を批判している。教育委員会には予算編成権・教育関係の条例案の提出権もなく、これらは全て首長の権限であることから、「教育委員会は完全に首長の統制下にあるといえる。行政委員会とは名ばかりといってよい」と述べている。この文言だけからみると、教育委員会を「真」の行政委員会に改革していく方向も是認されそうだが、新藤の意図はそこにはない。
 教育行政学や教育学の動向を批判し「一部の教育学者が語るような、地方教育行政法のもとで教育委員会権限が制約されていることに、地域にひらかれた『学びの場』の阻害要因があるのではない。情況追随的な『指導・助言』を閉鎖的空間のなかで、『従順』に具体化していくタテの行政系列に問題の根幹がある」(新藤「教育行政に問われる『タテ系列』の解体」(『都市問題』2005年4月号)と述べているように、現行の教育委員会制度が、実質的に「タテ」の系列、一言でいって、中央集権的・官僚的教育行政に組み込まれていることを最大の問題群として認識しているわけである。前の引用のように「教育委員会が完全に首長の統制下にある」のなら、教育委員会制度が「タテ系列」に組み込まれることはなさそうだが、首長の中には、教育委員会を実質的に「審議会」化し、首長の権限下におく発想も少なくないので、現行制度が「完全に首長の統制下」にあるという認識自体は、あまり共有されていないと思われる。
 この問題をおくならば、新藤の認識フレームは明快であり、市民主義的な立場からの中央集権・官僚機構による教育行政統制への批判が中心である。ここからの「脱却」を、市民や首長が教育の具体的プログラムに影響力を発揮する方向、つまり「地方分権」「市民参加」を強化することによって達成しようとする考えである。
 新藤の具体の改革方向は、文科省の初等中等教育局を「独立行政委員会」として内閣統轄下から外し、自治体レベルにおいては、民主的統制のあり方として、教育委員会制度である必要はなく、「政治的代表性と正統性をもつ首長のもとに教育行政部門を位置づけ、集団的営為」として教育活動を支援する、ということである。
 新藤の関心は、中央集権的・官僚的統制の排除と「自治体・市民」への分権という対抗関係におかれる。そして、「国庫負担金の廃止反対をいうことは、現行制度の温存を図るなにものでもない」とされるのである。

3)憲法・教育基本法の精神の実質化をもたらす制度改革を

 さて、ある意味で市民主義による教育行政改革論を「代表」すると思われる新藤の見解をみてきたので、ここで、その評価について述べておく。
 まず、地方においては首長のもとに教育行政部門を位置づけることを、「政治的代表性と正統性」からオーソライズするとすれば、国においても議会制民主主義・議員内閣制の下に義務教育行政部門を位置づけることを排除する理由はないだろう。政治による行政のコントロールの強化を制度化すれば、タテ系列の排除も、困難ではあるが不可能な課題とは言えない(公務員制度改革のあり方、行政機構や政治主導のあり方と関係する)。もちろん、国と地方の規模の差も存在するし、住民の直接参加がある程度制度化されている自治体を国と同一視することもできない。
 しかし、現在の教育問題がもつ最大の問題群は、第一に、憲法・教育基本法が保障している「教育を受ける権利」「教育の機会均等」「義務教育の無償」などが、実質的に形骸化し、能力主義による「選別」はもとより、「教育の沙汰も金次第」という公的教育の市場化・民営化が進行していることであろう。タテ系列の排除は、必要かつ重要なことではあるが、こういった教育の市場化・民営化という方向には直接影響を与えない。教育への「干渉」は、国による中央集権的な上意下達だけではなく、日本経団連などが教育政策を発表し、経済財政諮問会議などの民間人の参加も得た「機関」において、実質的な政策決定が行われていることをみれば、官僚機構の改革だけが問題になることはあり得ないだろう。
 第二に、「教育の自治」という視点からみると、国における義務教育機関の行政委員会化については、賛成できるし、また、具体のプランを検討して行く必要性がある。しかし、市町村(自治体)も、統治の二重性によって担保された、「統治体」であり「教育の自治」は、こういった「地方行政権力」からも「一定の距離」をおく必要がある。地方自治体には、革新自治体の経験もあり、国と一律に論じることはできないが、国=悪、地方=善というような素朴な市民主義は、現在の自治体が複雑な階層をもち、利害の錯綜した「統治体」であることを軽視したものと言わざるを得ない。また、東京都などの「大自治体」は、ある意味で国家レベルの規模と集権性も併せ持つ存在であり、市町村への影響もかなり大きなものがある。義務教育機関の行政委員会化を主張するのであれば、地方においても同様に、現行教育委員会のよりまともな行政委員会化を指向するのがスジなのではないだろうか。
 第三に、新藤は「国庫負担金の廃止反対をいうことは、現行制度の温存を図るもの」と決めつけているが、戦後の「義務教育費国庫負担法」が、その1条に明記しているように「義務教育について、義務教育費無償の原則に則り、国民のすべてに対しその妥当な規模と内容とを保障するため、国が必要な経費を負担することにより、教育の機会均等とその水準の維持向上とを図ることを目的とする」としている点が重要である。確かに、戦前、戦後を通じて、国家が義務教育費を負担することによって、教育統制を狙う面が存在することは否定できないが、法的・制度的には、全く事情が異なるわけである。この「規定」自体のどこに問題があるというだろうか。
 もっとも、筆者は、現在の義務教育費国庫負担制度は、国の財政保障としては不充分であるし(元々人件費の二分の一、様々な口実で負担対象を縮小してきた)、また、地方・地域に見合った教育を発展させて行くための財政制度としては、ベストではないと考えている。ある意味で、自治体のおける義務教育関連の費用が、国によって完全に保障されることを前提とすれば、地方一般財源による負担が好ましいと考える。この点では、池上岳彦が主張するような「包括的負担金と税源移譲」(池上『分権化と地方財政』岩波書店、2004年6月)の組合せによってファイナンスする方式も検討に値する。
 最後になるが、「教育の自治」という発想をより強化し、住民参加・父母参加・子どもの参加などを縦横に組合せ、地域に密着した教育の制度や内容を発展させる必要を強調しておきたい。そのためには、自治体レベルでの教師への「労務管理」的な成果主義の押しつけなどは排除されるべきであり、国民に直接責任をもつ=権力による不当な介入を許さないという視点が重要なことは言うまでもない。最近の「教育特区」などは、全くの金太郎飴になっており、地域に密着した教育の発展とは大きな距離があり、再検討を要すると思われる。

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●以上、新藤氏の所論を取り上げて批判的に検討をしているわけであるが、これは、新藤氏が最も「積極的」に義務教育費国庫負担金の廃止=一般財源化を主張しているからである。
 以前取り上げた「シンポジウム」においても、文科省から始まって労働組合(日教組や全教などを含め)までが名を連ねて義務教育費国庫負担記の廃止に反対していることを口を極めて批判をしていた。何か、労働組合まで「守旧派」のレッテルを貼られていたことを記憶している(勿論、当日のテープは保存しているので、確認はできると思う)。
 上記の論考では、こういった議論に対して、現在の教育問題を巡る「焦点」を明確にしつつ、批判を加えたということである。

 ここで、ちょっと断っておきたいのであるが、上記論考は研究機構主任研究員(雑誌では誤植で主任研究委員となっているが)として発表しているが、勿論これは私の個人的な見解である。地方自治問題研究機構は、自治労連と密接な組織的関係を持った組織であるが、自治労連の方針や運動に直接関わる組織ではなく、学者や研究者を含めた「運営委員会」でその活動の大枠を決め、毎年の自治労連の大会等で、それを最終的に確認するような運営を行っている。
 また、研究機構として、政治や経済その他の問題に関し、見解や方針をもつこともしていない(当然、自治労連の政策策定などに協力することはあるが)。つまり、研究機構の様々な研究会や検討会に参加をする学者や研究者の自由闊達な議論を期待しているものである。唯一の基準はHPに掲載をされている「設立に当たって」という文章である。

 というわけで、私も「主任研究員」(事務局を兼任)となっているが、論文をこの肩書きで発表する際も(普通は「大学講師」という肩書きは使用していない)、当然ながら個人の見解を述べているわけである。今回、一般の雑誌に掲載された論文(の元原稿)をこのHPのブログに転載しているが、上記の事情は全く同じであり、一般的な学問的営為である。

●以上、「いわずもがな」のことかも知れないが、念のために一言加えておきたい。