2006年04月14日(金)
地方の自由度なる不思議な用語
●最近、国と地方の関係(税源移譲や役割分担、三位一体改革などを巡って)地方の自由度という言葉が氾濫していることに「?」と感じている方も少なくないだろう。
そこで、「地方分権」が論じられるようになった当初に「氾濫」した「自己決定」或いは「地方の自己決定」から、どのような推移で「地方の自由度」という用語まで行き着いたかについて、少し「歴史」をひもといてみる。
地方分権21世紀ビジョン懇談会などでは、この「自由度」という言葉から更に「進化」し、「自由と責任」などということが多くなっている。段々と本来の意味から離れているのか、或いは、本来の意味の「馬脚」が表れているのか、その辺も含めて賢明な読者諸氏にご判断を頂きたい。
なお、以下の文章は、『税制研究』(No49号、06年1月発行)に掲載した文章の一部を含んでいることをお断りしておきたい。
●地方分権=自己決定論から地方の裁量拡大・地方の自由度拡大論へ
地方分権改革の流れを総括するまえに、ここでは、最近頻繁に使用されるようになった「地方の自由度」という言葉を一つの切り口として、分権改革論について、原理的な考察をしておきたい。
地方の自由度(=地方分権)について、中央集権的な行政へのオルタナティブとして位置づける見方もかなりあるが、地方分権対中央集権という構図は、地方自治の発展とは必ずしも等値できない。
地方分権と中央集権は、もともと敵対的な概念ではなく、相互浸透的であり、ある種の補完関係をもっている。まして、地方分権=民主主義、中央集権=反(非)民主主義というような「単純」な二分法は適切なものではもない。民主主義については、様々な視点があるが、「多数派支配」という角度から見れば、分権的要素の中に(少数意見の尊重など)、多数決という集中・集権的な要素が内在する。即ち、民主主義そのものに、集権的な要素があるわけである。今日の代表的な政治システムである立憲政治においては、民主主義のあり方に関する一定の「規制」を人権という角度から行っていることは周知のことである。
このように、分権と集権は、政治システムのあり方の「制度」設計に関わるものであり、「国のあり方」のあるべき方向性の議論との関係が重視されるべきであろう。
「三位一体改革」については、このような視点から全体像の評価や総括が求められるところである。結論を先取りして言えば、小泉構造改革の中に正確に位置づけ、その歴史的な意義と限界を明確にする必要があると言える。「自治体構造改革」が今日の自治体再編の本質であるとすれば、「三位一体改革」はその重要な構成要素であることになる。
ここでは、この本質規定を念頭において、「地方の自由度」という用語の起源とその含意について検討をしておくことする。
●周知のように、地方分権改革のスローガンは、自治体の「自己決定」あるいは「自己決定・自己責任」というものであった。地方分権推進委員会の「中間報告」(1996年3月)は、「目指すべき分権型社会の姿―地方分権推進の目的・理念と改革の方向」において、「自己決定権の拡充―規制緩和と地方分権」という項目を掲げ、「究極のところ、身のまわりの課題に関する地域住民の自己決定権の拡充、すなわち性別・年齢・職業の違いを越えた、あらゆる階層の住民の共同参画による民主主義の実現を意味する。この地方自治レベルにおける住民主導と男女協働の民主主義を基礎にして初めて、国政レベルにおける議会政治もまた一層健全なる発達を遂げることになるものと考える。これを裏返していえば、地方分権の推進は、『国から地方へ』の権限委譲であり関与の縮小である。その限りにおいてそれは、『官から民へ』の関与の縮小を求め『官主導から民自律へ』の転換を追求している規制緩和の推進と、軸を一にしている。規制緩和と地方分権は、中央集権型行政システムの変革を推進する車の両輪なのであって、この双方が並行して徹底して推進されたときに初めて、『第三の改革』が成就するのである。」と述べている。
今日の時点で、この文章を熟読すれば、地方分権改革が今日の行政民間化、市場化、営利化などに連動する本質を持っていることが容易に理解できるが、「身のまわりの課題」という「形容詞」がついているものの、地域住民の「自己決定」という概念は、その内実が保障されれば、やはりそれなりの自治の拡充であることは否定できないだろう。
しかし、これが、規制緩和と地方分権の両輪によって中央集権型行政システムの変革がもたらされるとされ、「官から民へ」の関与の縮小が法外な位置づけとなるに及び、地方分権改革あるいは「自己決定」論は、新自由主義の思想と合致して行くのであった。
しかし、よく考えてみると、行政の民間化は民主主義的手法を通じて住民が行政をコントロールする手段を弱め、市場原理に行政サービスの需給を委ねて行くことであるから、身の回りの課題の「自己決定」という分権改革の「理念」とも、矛盾を来すことになる。政府や個人の意思を超えた価値法則に基づく需給の調整こそ、市場のもつ「優位性」なのであるから、これはある意味で当然のことであろう。
●地方分権改革推進会議、経済財政諮問会議における用語の変化
地方分権推進委員会にけるキー概念であった「自己決定」論は、次第に分権改革の推移とその本質の露呈によって動揺し、地方分権改革推進会議においては、キー概念が「地方の自由度」「地方の裁量」などに変化して行った。但し、地方分権推進委員会の諸報告には「地方の自由度」などのタームは出てこないが、議事録レベルでは何回かこのタームが使用されている。
しかし、その用例を見ると、例えば1997年3月の第110回審議や第120回審議などでは「地方税財源の充実も重要であるが、一方では、国・地方を通じた財政再建という枠組みについても考慮しながら、財源についての地方の自由度を高めるという方向で検討を進めるべき」などと述べられている。この内容は、一般財源主義ではなく、自主財源主義の立場で地方税財源の充実をはかるという趣旨である。自主財源と正確に述べることによって、より理解できるというものであろう(地方交付税問題への危惧は残るが)。
地方分権改革推進会議「事務事業の在り方に関する中間報告-自主・自立の地域社会をめざして」(2002年6月17日)や「事務事業の在り方に関する意見」(2002年10月30日)においては、基本的な概念は「自己決定」であったが、次第に「自己決定・自己責任」のセットに傾斜をして行った。まだ、ここでは「自由度」というタームは主流になっていない。
さて、「地方の自由度」という概念が大きく打ち出されてきたのは、経済財政諮問会「骨太の方針2003」であった。ここでは、「『官から民へ』、『国から地方へ』の考え方の下、地方の権限と責任を大幅に拡大し、国と地方の明確な役割分担に基づいた自主・自立の地域社会からなる地方分権型の新しい行政システムを構築していく必要がある。・・・地方分権の理念に沿って、国の関与を縮小し、税源移譲等により地方税の充実を図ることで、歳入・歳出両面での地方の自由度を高める」と述べられている。
その後は、地方制度調査会なども「歳出面での国の関与の廃止、縮減により地方の自由度を高めるとともに、歳入面においては、地域における受益と負担の対応関係の明確化を図る観点から地方税中心の歳入構造を確立することが必要である」(2003年11月13日、第27次地方制度調査会第7回総会)などと、「自由度」が自由奔放に使用されるようになる。
地方分権改革推進会議の議論では、2004年5月12日「地方公共団体の行財政改革の推進等行政体制の整備についての意見」に代表されるが、「地方の自由度の拡大」は「必置規制や義務付け等、国による過度の関与が地方の主体的な決定や創意工夫ある行財政改革への取組の障害になってはならない」という具合に、その概念を拡大している5。
また「自己規律の下に自由度を拡大した地方公共団体が、知恵とアイディアを競うことが、個性豊かで活力に満ちた地域社会の形成や地域経済の活性化につながる」と述べているように、地方分権一般にとどまらず、地域間競争や地方行財政改革を目指す方向を促進するものとして述べられている点に大きな特徴がある。
さらに、自由度拡大のための方策として①市町村(基礎自治体)を重視した分権の推進②特区的手法の活用による地方分権改革の推進③法令面での地方の権限強化④国の決定への地方の参画などと、その内容が拡大している。
これまで、見たように、この「地方の自由度」というタームはかなり曖昧なものであり、ある意味で「官から民へ」の自由度を地方に競わせる面を内包しているのである。神野氏が歓喜した「骨太の方針2003」における税源移譲、「三位一体改革」の提起は、こういった「自由度」と一体のものと言わなければならない。また、だからこそ、それまで「第2次分権改革」の柱として位置づけられながら、様々な「官僚の妨害」のために実現しそうもなかった税源移譲が、政府の正式な政策の俎上にのぼったのである。
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●以上のような流れであるが、私の見方は税源移譲なども含めて「新自由主義」的改革促進の要素があるという「独自」なものである。
税源移譲がなければ、「分権改革」とは言えないという一般的な議論に対し、税源移譲を活用した、或いは税源移譲をしてこそ初めて、新自由主義的な地方制度改革が可能になるという視点である。
勿論、ここでは税源移譲そのものを「即」反動的なものと考えているわけではない。そのやり方が問題になるのであって、地方が民主的な自治を発展させることと「即」矛盾すると考えているものでもない。
今日の「地方の自由度」や「自由と責任」論は、自民党の新憲法草案における「地方自治」条項のように、構造改革の先にある「福祉国家的要素」の「撲滅」=国民の負担分任による行政、つまり自分ことは自分でということになろう。これは、「過度な行政への期待」を正面切って批判した、第3次行革審の最終答申などの流れを今日的に拡大再生産したものである。
●以上のような批判的視点が今日求められており、「三位一体改革」の先に、更なる「地方の自由度」などを要求する方向は、時代錯誤と言って差し支えない。この点は、また別の機会に論ずることにしたい。

