2006年05月16日(火)
地方自治経営学会パネルディスカッション
●平成18年度地方自治経営学会に参加してきた(明日の17日まで)。今年のメインテーマは「分権・三位一体改革は今後どう進むかーきびしい財政危機の中で」というものであった。
実は、今回の学会に参加をしたのは、総務省の山崎氏が「市町村合併の総括、全体評価」を講演で述べるという設定に興味を覚えたからであったが、実際には、課長補佐の望月氏が簡単な講演を行うにとどまった。その内容も、およそ「総括」「全体評価」というようなものではなく、事実の羅列に終始した(総務省のHPを見れば済む話しであった)。もう一人、市町村合併の総括・全体評価を担当した、柴田啓次氏の「市町村合併を巡って各地に見られた様々な問題」も、残念ながら期待はずれの内容であり、合併後の市町村名の評価など(南セントリア市、南アルプス市など・・・)であった。
●そこで、こういった話を批判してみても始まらないので、午前中に行われたパネルディスカッションについて紹介をしつつ、現在の地方関係者の問題意識について検討をして見たい。
テーマは、
①「地方分権」「三位一体改革」は今後どう進むのか
②交付税圧縮、補助金改革にともなう地方負担の増、退職手当の増など「財政危機」にどう対応するか
③「市町村合併」をどう評価し、どう総括するか
④今の「道州制論議」「行革推進法」をどう見るか
といったものであり、パネラーは、恒松制治氏を司会者として、増田寛也岩手県知事、松沢成文神奈川県知事、松浦正敬松江市長、山口二郎北大教授というメンバーであった。
このパネルディスカッションも、今回の学会の「売り」の一つである。
●さて、個々の発言内容の紹介は、そのうち、どこかの雑誌にでも掲載されるであろうから(『ぎょうせい』なども来ていたようなので)、全体のトーンについて紹介をしておきたい。
まず、地方分権や三位一体改革の今後の展望や、これまでの「改革」の評価については、「より厳しい」評価に変わりつつあるように思えた。
これまで、全国知事会長の麻生氏をはじめ多くの関係者は、三位一体改革などについて、次のように「評価」をしていたと思われる。
①地方の代表が参加したこと、②地方が要求案をまとめて国に提示したこと③まがりなりにも税源移譲が行われたこと④公共事業に関する補助金(施設維持費)を僅かではあるが税源移譲の対象にしたことなどを、積極面として評価し、消極面、マイナス面については、義務教育費国庫負担の補助率を1/2から1/3に引き下げたことや、国保や児童(扶養)手当など地方の要求とは全く異なる補助金を削減し、税源移譲と相殺したことなどをあげ、三位一体改革は地方分権というより、国の財政再建を重視したものであったという評価である。
このような従前の「評価」から、ほぼ全員が、より「厳しい」評価にシフトしていた。具体的には、地方分権改革は「失敗した」(増田氏)、財政再建に終始し、国のペースにはまってしまった(松沢氏)などであった。
松浦松江市長は、「かなり無理をして市町村合併を進めたが、これ以上、いくら合併をしても分権や権限移譲には結びつかないだろう」と、今後の見通しについても否定的な見解を述べていた。
増田氏や松沢氏は、経済財政諮問会議のような場所に地方の代表を入れないと意見反映もできないとか、土光臨調のような強力な推進機関を置かないと地方分権は進まないと述べていた。山口氏も、推進機関の問題については、同意見であった。
増田氏は、さらに、国と地方の協議などについても、いきなり自治体の代表を入れるようなことでは、実質的な議論ができないので、実務者サイドの協議をジックリとやる必要があると述べていた。これは、麻生氏などへの批判も含むのだろうが、そもそも、地方の要求をどういった形でまとめるのか、より根源的な問題が横たわっていると思われる。
●さて、この辺まで聞いていて、「おや」と思ったのは、地方分権とは何を指しているのかという「問題」である。経済財政諮問会議は、官邸主導と評価されており、逆に言えば、国会・議会軽視であり、「強い」国を象徴するものである。従前の審議会などではなく、首相直結の機関として、民間人など選挙で選出をされてもいない「お好み」の「学識経験者」や「財界人」を、議会や省庁の「上」におき、その意見をダイレクトに国政に反映しようというものである。
地方分権の強化とは、こういった強力な内閣主導の行政と調和するものだという「認識」なのである。仮に、内閣主導の下で、地方分権なるものが進んだとしても、国ー地方の役割分担は、「スリムで強力な国家・中央政府」と「(些末な)身近な行政を担当する自治体」、つまり、住民の自己負担で、身の回りのことを行う自治体が想定される程度であろう。「身近な」基地問題や米軍の演習による被害などは、あくまで国の専管事項であり、地方が「口出し」をしてはならない課題なのである。
最近の地方分権のスローガンは、このブログでも何回か書いたが、「地方の裁量度」とか「自由度」、そして21世紀ビジョン懇談会では「自由と責任」というようなものになっている。
分権改革が始まったころは、自己決定(いまでも使用はされているが)であり、これに「自己責任」など「くっついた」ものであった。
元来、「自己決定」ができるならば、それに「越したことはない」のであるが(厳密にいうと、自己以外の人間が存在する環境において、自己決定というのは、他人の自己決定の否定でもあるという両義性を無視できない)、自己決定がそもそも財政的、社会関係、民主主義の手続きなどからして、困難或いは不可能な状況下で、いくら強調しても、「精神論」になるだけであろう。
こういう弱点・難点をそもそも持っているのであるが、それが、一層デフォルメされて、「自由度」といった抽象的な概念に分権概念が歪められてきたのが、この数年間の推移であろう。
●次に道州制の問題である。
全員が道州制は必要であると述べた。ただ、現在進められている「道州制論議」には全員懐疑的であった。
山口氏は、立法権の分権がないと意味がないと述べた。これは、根本的な問題である。連邦制的な制度でないとそうならないだろう。現在の道州制は憲法論議を「避け」るところから始まって、都道府県を廃止をして、道州を導入することは、合憲であることが「前提」になっている。
とはいうものの、現在は、憲法「改正」が追求されているし、地方6団体の新分権構想検討会なども、これに悪のりして、制度改正を要求するようなスタンスに変化をしている。
北海道の道州制特区法案は極めて評判が悪かった。増田氏は、「あんなものでは応援する意味がない」と述べ、山口氏は、高率補助金を切られても権限の移譲を要求するぐらいでければ、意味がない。覚悟が足りないと述べていた。
このような状況を整理してみると、まず、道州制に反対する政治勢力が、この日本から消えつつあることが指摘できよう。全国知事会は「当事者」であり、「当事者」が反対する制度を上から押しつけるのは極めて困難なことである。しかし、都道府県知事の多くが(アンケートでは、28次地制調答申にある道州制に賛成する知事が27人、反対は2人ということであるが)、自らのよって立つ都道府県の「廃止」に賛成をするような「自虐的」な姿勢になっているのである。
都道府県知事を務めながら、都道府県の廃止に向かって仕事をするというのは、自己矛盾である。しかし、そういう矛盾の複合体が今日の、自治体=都道府県の姿なのである。
増田知事は、市町村を法律で強制的に廃止するのは無理だが、都道府県は違うと述べていた。つまり、強制的に廃止しても良いというのである。
確かに、住民からの「距離」は市町村より、都道府県の方が「遠い」ように思える。しかし、かつて革新自治体としての都道府県が存在した時、東京では「区民」より「都民」の方が、実感できるという意見も多かったのである。
だから、いつでも、どこでも市町村より都道府県の方が「遠い」ということも言えない。それは、住民の職業や立場、生活環境などによっても、かなり異なったものになる。
仮に、一般論として市町村の方が都道府県より住民に「身近」であり、「距離が近い」としても、都道府県を強制的に廃止して良いという論理は成り立たない。「憲法上の地方公共団体」に当たるのは、市町村だけはない。地制調ですら、道州が憲法上の地方公共団体かどうかという議論を行っているのである。都道府県は、今後どうなるか不明の「道州」などの新組織ではなく、120年間続いた組織であり、戦後の憲法の下で、完全自治体となった組織である。その戦後も既に60年が経過している。
全体として道州制論は、極めてあやふやなイメージ的論議に終始しており、地に足をつけた、つまり、住民生活を考えた議論になっていない。これは、危険な状態であろう。かつての道州制論が開発主義・経済成長主義と中央集権強化の理念に立脚していたとすれば、今日の道州制論は、「地方分権」論に依存している。つまり、「この国のかたち」「国・地方を含めた国家のありよう」の改革という色彩が強いのである。これは、歴史的に初めてのことであるが、砂上の楼閣というイメージもつきまとう。
●話を進めよう。道州制を容認し、推進する立場は、現状では市町村合併の一層の推進に帰結する。山口氏などは、北海道の町村を念頭に置いて、コミュニティの再編などについて述べていた。これは、これで必要なことであるが、道州制を推進しつつ(あるべき道州制であるとしても)、コミュニティの再編に追い風になるとは思えない。
市町村合併の弊害をコミュニティ論に矮小化してはならないと強く感じた次第である。
さて、自治体の財政状況については、極めて厳しいという認識は共通していたが、どうもまだまだ認識が甘いと思われる。焦点は交付税問題であり、この「総量」がなんとか確保できなければ、多くの自治体は「立ち枯れ」状態になる。別に自治体が立ち枯れようが、廃止されようが、住民生活や権利が保障されれば、それはそれで結構なのであるが、そうはいかないのが現実の日本である。
従って、財政危機の克服と住民生活=平和的生存権の保障は一体のものでなければ意味がない。
自治体の財政資金を市場に委ねる方向は、住民生活を市場の論理に従属させる道となろう。こういう意味の「危機感」は、今回のディスカッションからは見えて来なかった。
●論点を絞って、内容を紹介し、合わせて感想をのべたが、地方分権という概念をどうみるのか。ここが一つの焦点になっているようだ。
分権改革の過程では、開発主義や官僚主義に反発をしてきた市民派と、官僚による独占や地域への規制を快しとしない新自由主義的な反官僚主義、利益政治の打破が「一致」し、同床異夢状態があったことは事実であろうが、小泉構造改革においては、新自由主義的改革が中心であり、市民派がある意味で脱落する状況になっている(しかし、新自由主義派と一緒になって「道州制導入」などと言っているのでは、先が思いやられるが)。
地方分権などという「抽象的」な理念ではなく、もっと、住民生活に密着した議論を地方から進め、構造改革に反対する要求を練り上げる必要があろう。これが地方再生の原点である。

