2006年06月09日(金)

地方自治の対抗軸と「地方分権」②ー東京一人勝ち論?

●今回は、地方分権と「地方格差」の問題について、考えて見たい。
6月7日に、地方6団体が政府に申し入れを行ったが
 ☆「申し入れ書」、その内容はさらなる「地方分権改革」の推進を打ち出している。地方6団体は、地方自治法に基づいて、地方分権の推進に関する意見書を政府と国会に提出したが、ここに示されている「分権型社会のビジョン」によって、「新地方分権推進法」を制定することをはじめ、地方行財政会議の設置などを提言している。
 
 この内容は、竹中総務相の諮問機関である「地方分権21世紀ビジョン懇談会」などに比して、地方の要求や実態を反映したものと言えるが、かなり微妙な問題を含んでいることも事実である。特に、「国から地方」へというスローガンは、「官から民へ」というスローガンとともに、小泉構造改革のメインスローガンである。この間の「三位一体改革」なども、「骨太の方針2003」に規定されたものであり、地方交付税の縮小なども明示されていた。
 地方6団体は、小泉内閣の財政再建優先の三位一体改革を批判し、これに「真の地方分権改革」を対置するという構図のようであるが、「真」をつけたからと言って、そう簡単に構造改革における税財政「改革」との区別が明確になるわけでもない。

 元々、今日の「地方分権」の流れを決定づける点で、96年に経団連が発表した「魅力ある日本」における地方分権の位置づけは強烈であった。これをベースとして橋本6大改革などが進行し、今日の小泉構造改革に結びついていると言って大きな間違いはないだろう。
 従って、「真の」という枕詞の有無に関わらず、小泉構造改革への「対応」が、その内容を規定するわけである。

●こういう意味で、地方6団体の提言を見ると、確かに地方交付税削減に対する警戒や、地方の「共有税」として位置づけるべきであるという提起は、それなりの真実を持っている(地方分権推進会議における例の水口試案など、交付税を地方の水平的調整に限定するという方式への「接合」の危険性も指摘されているが)。
 しかし、問題は、小泉構造改革が進行するなかで、地方に関しては、プライマリーバランス論の適用と、国と一体の財政再建が打ち出され、同時に、「自由、責任、自立」がスローガン化されているが、これに対する地方のスタンスは明確ではない。場合によっては、「小さくても輝く自治体」の掲げている「非合併」=「自立」のスローガンすら、政府の「自立と責任」に「活用」されるおそれがあるなかで、あまりにも、自治体の兵糧攻めのスローガンに対し、無頓着であると言わざるを得ない。

 「自立」や「責任」あるいは「自由」といった言葉は美しい面を持っているわけであるが、現在の日本の地方自治制度においては、文字通りの財政的な「自立」や「責任」などが果たされることは不可能である。では、これに接近することが日本の地方自治を前進させるかといえば、それも疑問である。

 私は1994年の地方行革の時代から、この地方分権は「国家主義的地方分権」、つまり、国は外交や防衛、通貨などに限定し、内政は広く地方に委ねるという方向(=役割分担による国・地方関係の再編)であると述べ、スリムで強権的国家と安上がりで住民の負担による地方行政をセットで推進するものであると批判をしてきた。もちろん、ここに、住民自治の要素などが加わり、現実の政治展開はそんなに簡単なものではないが、基本方向を確定しておくことは極め重要であると認識していた。

●さて、「真」の地方分権を標榜する地方6団体(特に全国知事会)にあっては、現在、小泉構造改革の下で進行しているといわれる「格差」問題、とりわけ「地方格差」について、どのように認識しているのであろうか。
 税源移譲を含む三位一体改革なども、シミュレーションが盛んに行われ、都市部に有利な財源配分になっている批判が一般的であった。私も、これまでの「均衡ある国土開発」の打破や、農村への利益誘導政治の打破という構造改革の持つ本質という点で、こういう批判は実証的にも正しいものであると考えている。
 しかし、「東京の一人勝ち」というような認識は、本当なのだろうか。構造改革による「都市優先」=社会資本形成における資本投下の「価値序列」と、東京の一人勝ちという認識(=つまり、東京の何を指しているのか)には、一定の乖離がある。

 前回のブログでも述べたが、高度成長の結果、農村を含めた地方の生活レベルは、自然の破壊や生活様式の変化という犠牲の上に「一定」の成果を上げてきたことを事実であり、生活の絶対水準という点でも、東京や大阪よりも「地方都市」の方が「上」になるという様々な報告もされてきた。公務員の給与などは、最近では、様々リストラが行われているが、従前は、全国的にみて、ほぞ均一的な水準であった。だから、公務員だけを東京と地方都市間で比較すれば、相対的な生活は地方の方が「上」であるというようなことは、ほぼ常識の部類であったと思う。もちろん、個人によって状況は異なるし、家族やその都市の行政水準などの影響もあるので注意は必要であるが。

 さて、インフラという点ではどうであろうか。確かに、東京や大阪には巨大なビジネスビルが乱立し、盛り場や新しいITスポットなども存在し、国際都市という雰囲気が醸し出されている。しかし、例えば、特養ホームなどを比較するとどうだろうか。
 人口(高齢者人口でも同じ)あたりの特養ホームの数などを比較すると、明らかに地方の自治体の方が上である。都市部ほど、悲惨な状況である。まだ、現在は過疎化する農村自治体、地方の自治体の方がはるかに高齢化率が高いので、こういった事実もあまり注目されないことも多いのだが、明らかに高齢者対応のインフラは地方の方が進んでいる。

 実は、これは、地方交付税や補助金の散布によって、都市部から地方への所得の二次的再分配が行われた結果であり、ある程度、財政を保障することによって、地方の自治体(特に、福祉に重点を意識的に置いてきた自治体)は、今日の高齢化社会への対応にある程度「成功」してきたことを示しているのである。これは、ある意味で政治の「成果」であり、誇るべき話でもある。私は、介護保険の問題などでも、京都府旧美山町などに調査に伺って、その到達点に高い評価を与えざるを得なかった。同じ制度のもとでも、かなり異なる福祉の到達点があるということは、行政や住民の姿勢を反映したものである。

●東京の一人勝ちなどと言われるが、東京において、本格的に人口が高齢化し、少子化が加速されるなかで、地方から東京に再吸収されようとしている財源は、こういった事実に対応する方向で活用されるのだろうか。
 これは、全くあり得ないと思われる。そうすると、東京の将来というのは、全く無展望な「国際都市」というバーチャルなものでしかない。地価が上がれば、固定資産税のアップに結実するし、物価が上昇すれば、生活の相対的な低下に結実する。公共料金も引き上げられるだろう。

 バブルの時代は、これから社会資本を整備することが次第に困難になるので、金のある「現在」において公共投資を行って高齢化社会に備えるべきであるとというような「議論」がかなりあったが、これは、無駄な事業を合理化する議論としてはかなり有益であったが、実際には、これらのインフラは東京では、顧みられることはなかったと言って良いだろう。残ったのは、バブルの崩壊とその後の資産デフレであり、勤労者の借金だけは、減らずに収入だけは、しっかりと減少した。

 2007年問題と絡めて、都市部のリッチな高齢者を地方に移住されるプランなどがはやっている。では、都市部に残される(沈殿する)高齢者の面倒はだれがどのように見るのだろうか。都市内部の階層分化は、飛躍的に進行し、「自立」を求められる住民は、行き場がなくなる。
 
●地方6団体は、これまでの「均衡ある国土の形成」を否定し、地方間競争と住民間競争に委ねる「地方の自立と責任」という方向を肯定するのだろうか。地方から都市への財源の吸収という批判は、正しいものではあるが、都市部における、上記のようなインフラの欠如や格差の拡大など、高齢化の下での新しい行政課題に対し、どのように認識をするのだろうか。

 都市と農村の提携で大切なことは、農村の「一定」の成功から都市が学び、また、都市化によって問題を解決しようとしてきた錯誤について、農村が自省をすることが前提である。
 栄村の高橋村長は、農村が衰退してきたことを都市の「せい」にしなかった。むしろ、農村が自らのメリットを放棄し、その良さを認識できなくなったことを衰退の第1の要因として強調していた。全く、その通りだと思う。

 現在、必要なことは、社会資本投下の内容を根本から変えることであり、また、均衡ある国土というこれまでの「スローガン」(実際には、不均衡はかなりの程度ある)の持ってきた意味、現時点での意味について考えることであろう。道路もナショナルミニマムであるかどうか、などという議論に隠れて、高齢者の生活基盤の整備が遅れていくことは見るに堪えない。都市部では、都合の悪いものは、「不可視化」していく傾向が強い。老人もマイノリティも同じである。足立区で就学援助金を受ける生徒が40%を超え、片親の高校生の80%が援助を受ける実態がある。
 まずは、こうった「実態」をどのように都市、農村から克服していくのか。これが最優先課題であり、バーチャルな「分権改革」というスローガンから見落とされるものである。身近な行政を担当するはずの自治体が、最も身近なものが見えなくなる矛盾に是非とも着目をしてもらいたいのである。

地方自治危機突破決起大会のさま