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 2007年02月18日(日)

自治シンポジウム―自治体改革は幻想か?―改革再興への道筋

●上記シンポジウムが2月10日に、江東区の清澄公園・大正記念館で開催された。「鼎談」という形式で、松本克夫(前日本経済新聞社論説委員)をモデレーターとして、五十嵐敬喜(法大教授)、片山義博(鳥取県知事)の三名の話であったが、午后1時半から4時までたっぷりと質疑も含めて行われたので、非常に充実した内容であった。
 主催は自治創造コンソーシアム(NPO)であった。シンポジウムの趣旨は「地方分権が進展するとともに、市場主義導入とコスト至上主義が加速する中で、昨年、福島県、和歌山県、宮崎県等の談合問題や岐阜県の裏金問題など「県」を舞台とする不祥事が相次いだ。このような問題は、地方行政への住民の不信感を益々増大させ、分権の逆風となっている。自治体改革は失速してしまうのか。汚職・不祥事の根幹は何処にあるのか。統一地方選挙を間近に控えた今、分権と市民自治の推進に向けて、信頼回復のための改革再興への道筋を考えたい。」ということであった。

●この間の「地方分権」の結果が、「市場主義導入やコスト至上主義」に帰結しているという認識は、全くその通りであり、これを批判しているスタンスは「なかなか」のものと言って差し支えない。同時に、こういった現象が分権改革の障害になっており、分権改革とは「相容れない」ものであること、従って、自治体を舞台に繰り広げられた「汚職や不祥事」などの分権への逆風を「克服」して、更なる分権推進に邁進すべきであるといういう主張を展開している。
 この後者の視点は、かなり「ありきたり」のものであり、何故、分権改革が市場主義やコスト至上主義に帰結しているのか、それは必然的なのか、偶然なのか、或いは、政治的に歪曲されたが故なのか、という視点からの「切り込み」はない。分権は本来、官僚主義や政治的腐敗を根絶する「決め手」になるハズであるという思いこみが前提になっており、分権への反省的分析の視点が欠如している点は、残念である。

●と言っても、自治体におけるこの間の汚職や不祥事それ自体の「原因」を探ることは、実践的には正しいものであり、分権それ自体の「善し悪し」は別にして、この実践的な考察から得るものは大きいと思われれる(一面的な分析に留まらなければ、という前提つきであるが)。
 シンポの内容はこのようなものであり。
①最近の自治体の不正事件の根本を探る。
②自治体の信頼回復の道筋―改革の論点整理
③自治体は真に分権の受け皿たり得るか―改革の提言
 というシンポの組み立てになっていた。
 
 まず、司会の松本氏がは次のように述べた(概略)。
 「去年は自治体に取って厄年だった。3人の知事が相次いで逮捕された。93年のゼネコン汚職や官官接待を通じた裏金問題があり、いわゆる改革派の知事が出てきて、色々な改革が行われたハズだった。ところが、実際には卒業できてなくて留年したのが実態だった。この10年間の改革はなんだったのか。朝日新聞が、知事の汚職問題等で何でそうなるかについてアンケートを取ったが、一番多かった回答が「業者との付き合い方」であり、次に「個人の資質」「入札制度の欠陥」「費用のかかる選挙」などであった。日経新聞もアンケートを行った。ここでは、「個人の規範意識」というのが32人でトップであった。その次に「選挙に金がかかる」「情報公開が遅れている」などとなっていた。まず、お二人のこの辺から感想を伺いたい。」

●これに対し、片山知事は、三人の知事の逮捕、夕張市の財政破綻などの自治体の失敗は、10年前に卒業したハズであると言われたが、起こるべくして起こった事件であると思う。まともな改革は行われていなかった。官制談合など巷間言われていることは、いずれも議会の承認を得ている。一件ごとの承認を得られないと契約は結べない。つまり、議会は、おかしいと思えば「ノー」といえる。議会でマトモに審議してない、できないことが最大の問題であり、自治法ではチェックのバックアップ機能を持っているはず。
 これが機能していない。だから、アンケートの結果などは表面的な話になっている。夕張の問題でも、借金の350億円は、多いけれどもとてつもなく多いというものでもない。問題は「粉飾」を行ったことである。誰がみても予算書をみれば分かるハズ。議会チェックをしてないことが問題。総務省が危険信号をつくるというけれども、議会再生法制でなければならない。自分は、この視点から議会のチェック機能の回復に取り組んだつもり。「根回し」はしないで、イヤなら反対をしてください、説明責任は果たしますということで。

 片山知事の発言では、分権云々の前に、議会の機能という、現行地方自治制度の基本的問題が出てきた。全くその通りであり、国と地方の「分権」などという前に、自治体内の「分権」というか、二元代表制と言われる制度が、議会の麻痺状態のために機能していないという点を、正確に指摘された。
 この背景には、「オール与党体制」などと言われる、地方には保守も革新もないというようなイデオロギーであるとか、また、利益の配分機能さえあれば、知事へのチェック機能など問題にならないという「プラグマティズム」などが地方には蔓延していることが指摘されよう。
 この間の長野県政などに代表されるが、議会と首長の「対決」が始まると、それぞれが「返り血」を浴びることになるが、それなりに(というか、泥試合にもなるが)緊張した関係が構築され、住民から知事も議会も注目されるという「結果」をもたらす。
 こういった議会と首長との緊張関係やチェック機能の発揮が殆ど行われないという「慣行」は、片山氏が述べる通りであろう。分権や地方自治の「根幹」の問題として議会問題を取り上げた「慧眼」は流石であろう。

●さて、五十嵐氏は、公共事業などをめぐって、過去に3回のショックがあった。一回目は、93年の金丸ショック、宮城、茨城など、政権交代もあり、建設業法について問題指摘をしたが、建設省幹部は「できない」と。二回目は、自治労の全国大会で挨拶をしたが、自治体は共犯者に近い。これを直さないと自治労はつぶれる」と述べてブーイングをかった。三回目が今回の問題。和歌山など、どう考えればよいのか。知事レベルでどうにもならないのであれば、これは構造問題であるが、内部告発(ちくり)で問題が発覚する。宮崎県は警察が動いた。

 というように、お二人は、それぞれの立場から「構造的」な問題を指摘された。これを受けて、松本氏は、「お任せ民主主義」の問題として、中央集権で国から金を持ってきて談合へというパターンを指摘した。自分たちの金が地域で使われているのではなく、補助金、借金のもとでは「ソンした」と思えない体質。国から金、事業を「もってくる」という意識。これがグローバリズムの下で、会社の保障が弱体化して、自治のことを考える必要が出てきた。痛い目に遭わないと改革は起きていない。夕張はその典型でないだろうか。私は「甘い」と言われるけれど、切っ掛けさえあれば、改革はできるという甘い考えをもっている、と。

 そこで、議会と知事の関係について、松本氏は数字をだしていたが、知事の出した条例案が全部通ったのが、24府県。否決や修正が一番多かったのが、30件の長野県。2位は10件の鳥取(爆笑)。三位は9件の高知、香川。5位は7件の岩手。というものであった。
 議員提案は、2005年でみると鳥取は5件あるが、50%は3件以下になっている。こういう中で北海道の栗山町の「議会基本条例」などが出てきている。

●その後、色々な話に飛んだが、片山氏の一貫した主張は、地方分権とは究極的には、国がきめたことを自治体で決めるようになることこと、つまり議会で決めることであり、条例を作ることである。金の配分についても、中央から予算で決める。地方議会で決める、これが地方分権であると。
 この主張は、新自由主義的な「地方分権」が、独裁首長のトップマネジメントであったり、思いつきであったりするのと対照的に、議会という組織が首長をチェックしつつ、条例=制度に基づいて、住民の意思を確認しつつ進めることであるという議論につながる。全くの「正論」であろう。
 日本の地方自治は町村における「総会」を認めている。ギリシャの直接民主主義に似ている。「小さい自治体」で合併しなかったところは、それをやったらいいとそそのかしたが、のって来なかった(笑い。
 議会の選び方、選ばれ方もワンパターン。国民の大半は、被雇用者であるにも拘わらず、議会は殆ど自由業、農業、土木建設業になっていて、大半の人は代表されていない。それに、サラリーマンや公務員は、議員はやれない。もっと、色々な職業をもった人が議会に出られるようにしないと。学校の先生も出たらよい(ここで日野郡民会議の話)。

 片山氏の話は、現在の職業的議員(と言っても、町村の議員は他に職業がないと、食っていけないが)よりも、様々な人が気楽に議員になれるようなヨーロッパ的な議員のあり方を念頭に置いているように思えた。これは大変に難しい問題であろう。何よりも、働き方、生き甲斐、そして、政治を「身近」なものと感じることや、政党のあり方についても関連する。氏は、地域政党を作ってもよいとまで述べていた。

●実は昨年、全国知事会が行われた際に「官製談合等公共調達に係る不正の根絶宣言」(12圧18日)が発表されたが、片山知事は、こんなもので根絶できるということは世間の人とたぶらかすことになるので、自分1人だけ署名をしてないと述べていた。また、当初は「決別宣言」であったとも述べていた。

 以上のように、このシンポジウムの目的から「逸れた」のかもしれないが、公共事業や議会と知事の緊張関係などを中心に議論が進んでいって、巷間よくある「一層の税源移譲が地方分権の更なる前進に繋がる」とか、権限の移譲を一層進めるというような、既に国によって地方が絡め取られた古い様式の、「一層」の前進という話にならなかったことは、片山氏(並びに五十嵐氏の)見識の高さだったと思う次第である。

 考えてみれば当たり前のことではあるが、首長が「独裁」的な権限をふるっている自治体に、国の権限や財源を移譲していみても、「ロク」な結果にならないだろう。教育委員会を廃止したり、職員のリストラをやり放題とか、実にくだらない話になることは必定であろう。
 現在の地方分権は、残念ながら、「分権型福祉国家」志向ではなく「分権型福祉破壊国家」志向になっている。「格差」の拡大が拡大再生産され、それが固定化して行けば、成果主義や能力主義の先に、旧態依然たる、かつての学歴主義の再生産すら起こりうるかもしれない。

●「地方分権」などという自由主義的な議論については、よくよくその実態を吟味しつつ、検討を進める必要がある。直接参加や民主主義のあれこれの形態、そして国民主権の実態を拡大しつつ、「自治」という自己統治への道は、まだまだ遠いのであろうか。はたまた、かなり近くに接近しているのであろうか。
 中々含蓄のある問題ではある。

自治シンポジウムー自治体改革は幻想か?