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 2007年02月10日(土)

「そのまんま東」現象と自治体のめざす道

●最近、マスコミからの取材やインタビューを受けることが増えている。内容は様々であり、夕張の財政破綻問題や財政問題などが多いが、この前は、あるテレビ局から「そのまんま東・宮崎県知事が選挙を闘った相手の一人である持永哲志氏を副知事にしようという動きがあるが、これについてどう思うか。また、副知事とはそもそもどういう存在なのか、法律や実際はどうなっているか」と言ったことについて、インタビューに応じて欲しいという依頼があった。中々面白そうな企画だとは思ったものの、私自身、持永哲志氏が本当に副知事になるのかどうかなどを確認できる立場にないし、「可能性」の次元の時点で「あれこれ」論評しても実際にそうなるとは限らず、研究者として話すことは一般的な議論にとどまらざるを得ない(政治評論家などの出番か?)と思い、お断りをした。

 さて、案の定、これを書いている時点で持永哲志氏の線は消えたらしく、総務部長の「昇格」などが取りざたされているのが「現段階」である。しかし、もし持永哲志氏を副知事に本当に就任させた場合、これをどのように「評価」するのか、については色々と考えるべきことが多いことは事実だろう。

 テレビのニュース番組を見ていたら、町中の通行人へのインタビューでは、「度量が大きくてよい」という評価組と「相手に取り込まれる」「公約を守れない」という否定組とに別れていた(どちらかというと、否定派が多かったように見えたが)。本当のことろ、どの程度のウエイトで賛成・反対が別れていたのかは不明であるが、ともかく双方の意見があることだけは確かであろう。
 そこで、引き続き番組を見ていたら、「学者」や「前副知事経験者」などが登場していた。栃木県の元知事などは、自分は議会との関係で立場の異なる人を副知事にしたが、仕事を一緒にしているうちに情も移り、随分と本音で付き合ったが、その次の選挙では、完全に裏切られて対立している方を推した。バカをみた、というような話であった。
 また、東京都の副知事経験者は、副知事は実際の「回し」を行っており、非常に重要なポストであると強調していた。その通りだろう。因みに副知事を複数おいた場合(条例事項)、その「順位」を明確にしておく必要がある。順位が明確でない場合、年齢順とかちょっと法律らしからぬことが地方自治法には書いてある。東京都の場合はV1~V3まで順位があり、担当する仕事も労務担当とか、担当局の割り振りとかも決めてある。

●さて、こんなことを前提にして、「一般論」にとどまるが、少し考えみたい。まず、自分が「敵」として闘った相手を、自分の最大の味方である「ハズ」の副知事(法的には、知事に事故ある時はこれを代理し、日常的には補佐する、ということになっている。1人が原則であるが、おかないこともできるし、条例で数を増加させることもできる。また、今回、持永哲志氏の副知事登用が取りざたされたのは、副知事が議会の承認を必要とするという法的な位置づけになっていることと関係しているように思う)に登用するというのは、「本来」はおかしいハズである。
 しかし、いまカッコ書きでのべたように、議会の承認を得ることが必要なため、本当に自分の腹心を副知事にしようとする場合などは、結構、議会からチェックを入れられることが多い(議会へのある程度の「妥協」も必要ということになる)。
 もちろん、石原東京都知事のように、自分の年来の「ブレイン?」をいきなり副知事にもってこようとするような「ブレイン政治」などは敬遠されるし、実際に様々な問題を惹起してきたので、議会のチェック機能は、当然のことながらある程度必要であろう。同時に、どう考えても議会の「嫌がらせ」としか思えないような否決の仕方も散見される(この辺の「綱引き」が今回も注目されたということかも知れない)。

 ここまで言うと、「どっちもどっち」ということになるが、自治体の場合、知事と議会の二元代表制を原理としているので(自治体を「代表」するのは知事であるが)、緊張関係は必要である。問題はその「中身」であろう。田中元長野県知事のように、議会を「守旧派」の「敵」と見立てて、意識的に対立関係を構築して自分への支持率が高まる「手段」にするようなスタンスすらあるわけである。議会と円滑にやろうとすることを、極度に重視すると、実際には自分がやろうとしている(或いは選挙に当たって掲げた公約に違反せざるを得ない事態もある)ことができなくなる可能性も強い。
 東国原知事が、この「どちら」に該当するのか、また、取り込まれるのか取り込むのか、と言った憶測は現時点であまり意味がない。様々な政治的な要因が作用するし、個人の資質もあるし、何よりも彼を支持した有権者の意識も重要な要因となるだろう。

 ところで、最近流行している「マニフェスト」などは、当選したとしてもそれが全部住民から支持されたわけでもなく(当然であるが、マニフェストを緻密にすればするほど、実際には支持されていない政策部分も多くなるわけである。それを選挙で勝利した<場合によっては1票差でも>したことをもって、マニフェストが住民に認められたという主張などは、虚構の上に虚構を重ねるものであろう。)、「二大政党制」を前提にした「違い探しゲーム」という次元で割り切った方がよいだろう。
 だから、マニフェストの「すり合わせ」によって、一致出来る点があれば、対立候補であった人を副知事にしてもよい、というような議論もあまり意味がない。元々、五十歩百歩の政策だったということが露呈するだけのものであろう。むしろ、たった一つの争点で(小泉郵政選挙を想起!)、他の部分は殆ど変わらなくても、その争点だけで自民党をパージすることすら可能なのがマニフェストだということにもなる。そうなると、一点でも異なっていることが「絶対的な」な「差異」となるわけであり、むしろマニフェストの役割は、そういう部分にあると言っても過言ではない。

●そういうことで、インタビューは遠慮させてもらって良かったと思っているが、実際問題としては、自分の政敵とまでは言わなくても、「反対勢力に位置する」人を副知事なり助役に据えることは結構ある。結果としてではあるが、現職の知事とその副知事が、選挙戦を戦うケースというのは、かなり存在する。その場合、選挙になる前も一貫して「対立」していたかといえば、そうでもなく、やはり副知事の「職務」としては本当に「補佐」していることの方が圧倒的に多いのである。だから、順序は逆になるが、選挙で対立した人間を副知事に据えることもそれほど「奇異」なことではない、ということになろう。
 少し状況は異なるが、この間、多くの市町村が合併し、その結果、首長の数は大きく減少したわけであるが、新しい市町村長の選挙に当たって、根回しをして、ある首長が長となり、その他の首長は、助役や収入役、或いは教育長などに据えるという「談合」ばりの実態も、全国のあちこちにみられた姿である。
 
 こんな「談合」選挙は「あり」なのかと言えば、やっている方からみると、結構「安全パイ」であり博打をして落選するより「よりまし」ということになる。しかし、住民からみると、これでは合併も出来レース、選挙も出来レースということになり、新しい自治体の将来像をめぐる「選択」などができなくなる。
 もっとも、こういうケースは、合併をめぐって住民投票であるとか、熱心に地域における議論が進んでなかった場合に、より多くなると想像される。
 住民が合併や自治体の将来に大きな関心をもち、様々な運動に立ち上がらないと「談合」成立という危険性が増すという構図であろう。
 また、実際には、選挙戦になっても、それぞれの「地域」を代表して選挙戦になったようなケースでは、地域間の「しこり」を残さないようにという「配慮?」から、落選した候補者を助役などに登用するケースもそれなりに存在してきた。これなどは、ある種の「知恵」と言えないこともないが、やはり「談合型」人事の一例と言ってよかろう。

●そういうわけで、結局は、「どういう県政をめざすのか」という公約レベルや政策レベルの姿勢が、問われるべき最大の問題ということになる。ただ、反対勢力とも議会運営等をめぐって上手くやろうというような発想では駄目なのである。 
 そういう点で「取り込まれる」か「取り込む」かいった力関係もさることながら、最初の政治姿勢の「あり方」が一番重要になるわけである。
 東国原英夫氏が、当選したのは、宮崎県における自民党の「談合体質」が極限まで到達し、しかもこれに対して、「二大政党」であるハズの民主党が対立候補者すら立てられない中で、消去法として浮上した側面と、もう少し積極的に彼の「しがらみのなさ」とか「郷土愛」などの主張に共鳴をした部分と、分類すれば二種類プラスαの対応が基本にあったように思う。
 自民党は余裕をかましていたために(県議会の勢力などでは圧倒的多数が自民)、分裂をして(つまり利害のより直接的な関係を新しい知事に託するということだが)選挙戦に入ってしまったことに、「まんま」と付け込まれたということもできるだろう。

 東国原知事は、宮崎県綾町で行われた「小さくても輝く自治体フォーラム」に挨拶に来て、「秘書からこんなのが来ていますが、どうしますか」と聞かれ、「是非、参加させて欲しい」と述べたと会場で話していた。また、自治体というのは「民主主義の学校だと大学で教わった」とのべ、大きな拍手に包まれていた。時々、笑いをとっていたものの、話の内容は極めて正論であり、真面目な性格・人柄であろうと思わせるものがあった。
 今後、どういう方向に県政が進むか、これはやはり彼の「がんばり」だけではなく、彼を選出した県民が、どういう県政を求めるのか、「参加」型の政治を志向していくかどうかにかかっている。こういった運動なしに、「タレント候補」がその「マニフェスト」を実現できるような基盤はないし、また、県民の要求を正面から捉えることもできないだろう。

 試練に晒されているのは、東国原知事だけではなく、県民こそが試練に晒されているのである。この点が重要であろう。住民の要求と運動こそが、自治体の将来を決定づけるものであり、これは一般論ではなく、具体的な問題なのである。知事には、県民が期待をしている問題に鋭い嗅覚をもって対応して欲しいと思う。少なくても、現時点でその要素はもっていると思っている(冷ややかにみるつもりはない)。

 知事という職業が、住民からいまほど良くも悪くも注目されている時代はない。これは、自治体の将来をめぐる岐路にさしかかっている現在の情勢を反映した、特殊な局面なのである。この自覚が自治体関係者や住民運動に携わっている人たちにも共有される必要がある。そういうわけで、副知事が誰になるかは知らないが、東国原氏が知事になったことや、現状では議会は「野党」が圧倒的多数である下で、どういったイニシアを知事が発揮できるのか、様々な視点から考えてみた次第である。

自治体フォーラムで挨拶する東国原英夫・宮崎県知事