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 2007年01月02日(火)

戦後最大の「危機」に直面する地方自治・自治体①

★はじめに―本稿は『自治と分権』第26号に掲載された同名論文の「もと原稿」である。多少、印刷物とは異なるので、引用等は、HPからと明記されたい。
 さて、「第1次地方分権」の総括が色々な形で始まっている。同時に、「第2次地方分権」の課題についても、視点や課題設定など旺盛な議論が展開されてようとしている。筆者は、それらの大半を読んでみて、極めて不満というか、「ずれている」という印象を拭うことができなかった。
 というのは、そもそも「地方分権」というのは、何を求めて、何を克服する目的を持って始まったのか、或いは、始めようとしたのか、という原点が曖昧になり、なにか「地方分権それ自体」という概念があり、その概念或いは理念に向けて、それぞれの論者が「勝手な」議論を展開しているように見えて仕方ないのである。
 何回もこのブログで強調してきたが、例えば戦後の福祉国家は中央集権的政府=行政と一体不離の関係にあった。これは、それ以前の「分権的」国家形態に比して、明らかに「歴史の進歩」であり、既存の社会主義の影響のみならず、先進的資本主義国の「労働者」=勤労国民の政治的影響力が戦争による国家・国力の疲弊(ある種の国家の弱体化)という側面と相俟って、国際的にみても、国別の特徴を持ちつつも「福祉国家」(社会国家など)という名称でくくれるような様相を呈してきたのであった。
 この「福祉国家」は、1990年代の旧社会主義の崩壊、或いは、これと密接に関連した経済のグローバル化=多国籍資本の蓄積様式への政治体制の再編によって、変形を強いられてきた。いわゆる「新自由主義的」デフォルメである。もともと、福祉国家なる用語は、マルクス主義全盛期には、資本主義を美化する「イチジクの葉っぱ」として冷たい目で見られ、また旺盛な資本蓄積を目指す、資本主義サイドからは、財政悪化や国力の浪費として見られるなど、その存在は「鬼子」のような扱いを受けてきた経緯もある。

★日本の場合、ヨーロッパ大陸などとは明らかに異なった政治体制であり、福祉国家という規定より「企業主義」「日本型企業社会」というように、企業が福祉国家の果たすべき役割を企業内に労働者を閉じこめておくことを前提に、一定の福利厚生などを保障するという形で、「実現」してきた特殊性がある。この辺の議論はここでは省略するが、議論の蓄積があるので、それぞれの立場から検証して欲しい。
 こんな状況を踏まえて、今日、日本の政治・経済を再編する一つのキーワードが「地方分権」であり、これが、論者によるイメージの差異を超えて、歴史的な役割、すなわち、日本的な福祉や地方自治(社会保障や福祉を実際に住民の身近な場所で実現する)を破壊するモメントになっているように思われる。
 つまり地方分権対中央集権というような、相対的な政治体制の差異を超え、地方分権論は一人歩きを始めているのである。

★地方分権と中央集権は、「地方自治と官僚制」などと対比され、地方分権=善、中央集権(官僚)=悪などと戯画化され、地方分権を主張しさえすれば、何でも可能とういような「分権ファシズム」的な雰囲気が漂って来ている。元来、中央集権と地方分権は、全く対立する概念でもなく、弁証法的に相互浸透する関係である。特定の行政を中央に集中することによって、広範な地方分権が可能になるというような事態を想定すれば、理解にかたくないが、要するに、相対的な概念なのである。
 中央集権だけの国家などは、歴史的も存在しなかったし、地方分権だけの国家も国家の成立以降は、存在不可能であった。軍事や情報の国家集中は、かなりの地方分権の実現を技術的に可能にする。
 第1次地方分権で、機関委任事務制度が廃止され、これが国家の地方自治への悪しき干渉のモデルであったため、条例制定権の拡充を含め、地方分権が「前進」したとされている。
 同時に、米軍の国際的再編の磁場である沖縄を見れば明確なように、自治体に「条例制定権」も「自主決定権」も存在しない。国家の専権事項と規定されれば、地方分権の「発展」の下でも、住民に身近な自治体が「身近な」ことを決定できないでいる。否、むしろ、第1次地方分権の結果、こういった傾向が強まったと言えるのである。こういった状況を「全体」として把握し、「第1次地方分権」と言われているものの総括を行う必要があるし、また、三位一体改革における補助金削減(国の自治体への関与の度合いの象徴としてみられてきた)、税源移譲(当初は自主財源主義が強調された)の度合い、そして、これらと共に、地方交付税や地方債の動向などが、分権の度合いを計る物差しとして活用されてきた。

★こういった「物差し」で実際に、分権の程度が計れるのか。また、分権とはそもそも、地方団体が強調するように一般的「善」なのか。こういった面からの総括も要求されているように思われる。
 今回の拙論は、あまり具体の数字などを扱ってないが、こういった考え方について、筆者なりに整理し、今後の実証的な分析の基礎をつくりたいというおもいがある。

 というわけで、以下はその前編である。
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 戦後最大の「危機」に直面する地方自治・自治体


はじめに―地方自治・自治体の現状をどうみるか
  拙論は、特集「いま、自治体はどうなっているか」のいわば「総論的」な位置づけを持っている。従って、個々の行政分野別の自治体における「実態」等は、各論及び「河合・唐鎌対談」を参照して頂くとして、ここでは細かい数字等を省略して、できる限り「骨太」に現在の地方自治・自治体が直面している事態の「性格」「本質」を解明しておきたい。結論を先取りして言えば、現在の地方自治・自治体が直面している事態は、「地方分権の流れが変わってしまった」とか「財政危機によって個別の行政課題の運営が後退している」「税源移譲さえ十分にあれば、第2次分権改革が前進する」などというものではなく、小泉構造改革と日本の大国化(両者を総合して、「この国のかたち」の改変)によって、日本の地方自治と自治体は、戦後にその制度が確立して以来、「最大の危機」に直面しているという認識に立っている。この認識は、安倍内閣発足後の様々な地方自治をめぐる「提言」「報告」などによって変化するものではなく、むしろ、その危惧を強くするものである。

*安倍内閣の「改憲的地方分権」論
 自民党は2005年の11月に『新憲法草案』を発表し、民主党も、同時期に『憲法提言』を行っている。また、全国知事会も、10月に『中間報告』を発表している。自民党の『新憲法草案』は、政治情勢との関係から憲法9条の改正とその手続きに最終的に的を絞ることになったが、地方自治に関してはかなり広範な改正を盛り込んでいることは周知の通りである。全国知事会などが、憲法改正を前提として、地方自治の「充実」を図る「改憲条項」を提起すること自体、その「政治的姿勢」を批判されなければならないだろうが、その内容についても、積極的意義があるという単純な評価を下すことができない。
 この拙論は、諸改憲案の地方自治に関する議論を解明することに目的があるわけではないので、ごく簡単に自民党の『新憲法草案』についてのみ、その問題を指摘しておくに留めたい。そこで、『新憲法草案』について、首長の直接選挙という現行の制度は維持するとしている(新93条の1項、2項)部分など、現行憲法の規定をほぼそのままにしている部分を除き、「改変」「廃止」などに絞って、その問題を列記しておく(本質規定の記述ではなく、特徴列記方式で締まりがないが)。
 第一は、「地方自治の本旨」の「読み替え」である。一般的通説として「団体自治」と「住民自治」を含むとされるこの「地方自治の本旨」が、憲法上「明確」な内容を規定されていないことを「補充」し、「住民自治」を「住民参画」というパートナーシップ論=住民協働(ガバナンス或いは「新しい公共空間」論)に置き換えていることが指摘できる。こういった議論の日本における嚆矢は、日本における「地方自治の本旨」なる概念の曖昧さを指摘し、ヨーロッパ地方自治憲章に見られるような「補完性原理」など、住民に近い基礎的自治体の役割を重視・明確化し「本旨」に内実を付与するという、西尾勝氏らの議論であった。この議論自体、ヨーロッパにおける「地方自治拡充」の議論の歴史やその意義に照らして様々な角度から検討される必要があろうが、少なくとも日本においては、この「補完性原理」が、1990年代広範以降、「自分でできないことは家族で」「家族でできないことはコミュニティで」などと、自治体とその上位団体との関係を律する議論としての位置づけを「逸脱」し、公私の役割分担をも規定する「大原理」へと昇華されていった(ヨーロッパにおける「補完性原理」そのものが、こういった傾向を本来的に有するか否かについて、証明をする能力は現時点で筆者にはないが)。こうなると、小さな自治体がその財政力等の弱さを「補充」するために、一定の行政施策を都道府県等(広域自治体・連合等)に自主的に委ねる意味から使用していた「補完性」という概念を一気に乗り越え、地方自治の原点そのものが「個人」や「家族」といった統治機構以前のアトムに還元されることになる。統治体=統治機構としての自治体との緊張関係を失った「住民」概念は、近代的地方自治における「主人公」としての「住民」とは異なる存在ということになる。これが「住民参画」の怪しさの背景である。
 第二は「住民は、その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し、その負担を公正に分任する義務を負う」という、「負担分任原則」(応能性を否定した受益負担)への逆戻りである。地方税原則として「受益者負担」を一つの理念として掲げる潮流が根強く存在してきたことは事実であるが、地方税といえども受益は、課税の根拠であり、具体の負担配分は応能であるべきあり、これが現行憲法の素直な解釈でもあろう。
 第三は、自治体の種類を基礎地方自治体と広域地方自治体の二つにし、広域自治体の機能を、基礎自治体の「補完」に限定していること、即ち、「都道府県」に代えて「道州」を広域自治体する方向を考えている。これは「実践的」には、都道府県の二極分解(道州と市町村)につながるものであり、前者が純然たる「自治体」と規定できるだけの内実を伴った存在となるかどうか、また、後者が小規模自治体の「非自治体化」即ち「自治体つぶし」に帰結するかどうかも危惧をぬぐえない。この「制度設計」が改憲と結合すれば、現在の「住民の福祉の増進」、平和的生存権の保障を本質とする「自治体」の、根底からの「変質」に帰結しよう。安倍内閣が「改憲」や道州制の導入を政権構想として掲げて発足している現段階において、従前の新自由主義的地方分権(小泉構造改革)が「改憲的地方分権」としての色彩をおびてきている点に注目すべきであろう。
 第四は、「国及び地方自治体は、地方自治の本旨に基づき、適切な役割分担を踏まえて、相互に協力しなければならない」としているが、この間の米軍基地と自治体の関係一つをとってみても、国の「専管事項」扱いになっている一方、国の教育や福祉に関する役割、とりわけナショナルミニマムの保障が、国の責任から「解除」される方向に向かっていることである。また、国民保護法制(有事体制)下において、「相互協力」規定は自治体の有事体制への協力に帰結する。
第五に、あまり一般的に論じられていないが、現行憲法には規定のない地方財政に関す規定が導入されていること、及び、「財政の健全性の確保は、常に配慮されなければならない」という国の財政規定の自治体への準用規定が盛り込まれている。現在、夕張市の準用再建団体指定(財政再建法による)問題を一つのテコとして、自治体財政の破綻への対応=再生法制の確立が急がれているが、財政「破綻」を口実とした福祉、医療、教育の後退、民営化や住民負担増が憲法上に根拠を持つようになることの意味はあまりにも大きい。
 最後に、地方特別法に関する、住民投票による過半数の同意なくしては「国権の最高機関」である国会といえども法律を制定できないという規定の削除が指摘できる。「地方分権」が喧伝されるようになった1990年代後半以降の、地方自治の「発展面」の多くは、この住民投票(条例による住民投票や、アンケート方式など様々であるが)などをはじめとした、住民参加の強まりであった。地方自治に関する立法権の「制限」という、ある意味で日本の地方自治の「画期的側面」の廃止である。
 以上のような『自民党新憲法草案』の内容と、安倍内閣下で進行する現実の自治体運営の危機を重ね合わせると、「地方分権」の推進と言われていることの内実は、「戦後最大の危機に直面する地方自治・自治体」という認識を実証するものとなるであろう。

*地方6団体の提言と地方分権改革推進法(新分権法)の成立
 2006年12月8日に、「地方分権改革推進法」が共産党を除く政党の賛成で成立した(95年の地方分権推進法には共産党も賛成した)。その「基本理念」は地方分権推進法2条の「地方分権の推進は、国と地方公共団体とが共通の目的である国民福祉の増進に向かって相互に協力する関係にあることを踏まえつつ、各般の行政を展開する上で国及び地方公共団体が分担すべき役割を明確にし、地方公共団体の自主性及び自立性を高め、個性豊かで活力に満ちた地域社会の実現を図ることを基本として行われる」と似通った表現になっているが、「地方公共団体が自らの判断と責任において行政を運営」することとしている。
 その一方で、「判断と責任」を担保する財源については、「(権限移譲に伴う-筆者)地方公共団体に対する国の負担金、補助金等の支出金、地方交付税、国と地方公共団体の税源配分等の財政上の措置の在り方について検討を行うものとする」となっており、付帯決議がついたものの、「税源移譲」等の具体の担保は何もないと言ってよい。
 こういった状況を見ると、小泉前内閣時に設置された「地方分権21世紀ビジョン懇談会」の最終報告にもられた「国の地方への過剰関与と、地方の国への依存を止め、地方が自由と責任に基づいて自立し、住民にとってムダのない効率的な地方財政の姿を実現」するとう路線の「延長線上」に、今回の新分権法がイメージされていることは明確であろう。現実問題として、「新しい地方財政再生制度研究会」の最終報告(12月8日)が提起した、自治体の財政悪化に関する「早期是正措置」や国・都道府県が関与する「再生手法」の導入などは、事実上自治体の自主的な運営を制限し、必ずしも自治体の責任であるとは言えない「財政悪化」の克服を口実として、住民の負担増強や福祉・医療・教育などの水準低下を強要する恐れが強いものである。
 また、ここでは詳しくふれないが、旧地方財政再建法にもとづく「準用再建団体」となった夕張市への「過酷」な財政再建のための手法を「地獄絵」として財政危機状態に陥っている自治体や住民に見せつけ、「こういった状況にならないため」に早期是正=地方行革(自治体リストラ)への受容を求めるという手法が取られている点も重大である。
 夕張市の財政危機は、いわゆる「やみ起債」などの不法・不当な財政運営が行われていたこととも関連し、有無を言わさぬ再建手法が合理化されようとしている。市当局の責任は免れないが、国や道の責任はある意味でそれ以上のものがあると言う議論も否定できない状況下で、「特養ホーム」からの老人の追い出し、市職員の定数半減・給与30%削減、保育園・図書館の廃止などが、憲法25条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」ことを謳った「先進資本主義国=日本」で行われることは、絶対にあってはならないことであろう。こういう事実に抗することもなく、「地方分権の一層の推進」などを主張することは、欺瞞であり、かえって「地方分権論」の怪しさを浮き立たせるものになろう。
 地方6団体は、11月27日に憲政記念館において「地方分権改革推進全国大会」を開催し、①地方分権改革推進法の今国会成立(注-既に成立済み)②地方交付税の総額確保③国から地方への権限移譲・二重行政の解消④公営企業金融公庫廃止後の新組織への財政基盤の全額承継などを要求する「決議」をあげている。地方交付税の総額確保などは当然の要求であるが、既にのべたように、現実に進行している自治体の危機を打開する要求としては、一般的かつ迫力のないものになっている感は否めない。更に率直に言えば、そもそも「地方分権」の名によって推進されてきた小泉前内閣の「三位一体改革」の総括などがまともに行われておらず、「税源移譲が不十分なだけ」であるとか「功罪相半ばする」などの認識がバックボーンにあり、「この国のかたち」をかえる「地方分権」そのものに関する反省的総括が決定的に不足している。この点については後述する。
 地方6団体が設置した「新地方分権構想検討委員会」(神野直彦委員長)は、11月29日に「最終報告」を発表したが、今後の事態の推移を「第2次分権改革」と位置づけ①分権改革への地方の参画②地方への税源移譲、「地方共有税」(地方交付税は地方の固有財源)の創設③国と地方の二重行政の解消④住民参加の促進と地方議会の機能強化などを提言した。「国と地方の協議の場」の法定化や「地方行財政会議(仮称)」の創設などは、十分に支持できる内容であるが、「三位一体改革」の延長線上、すなわち、補助金の削減とそれに対応する税源移譲の一層の推進という方向は、地方交付税の改革の具体の内容にも依存するが、かなり「無理」な路線であり(この間の義務教育費国庫負担金の補助率削減や生活保護費補助率削減の厚労省による提起など、「ナショナル・ミニマム」を保障する国の重要な財政責任の放棄と「地方の責任」強化を一体処理する流れを助長するだろう)、地方財政計画による地方歳出の抑制とプライマリーバランス論による歳出削減・起債抑制の攻撃と正面から対峙できないものとなっている。小泉内閣は国債30兆円以内を標榜しつつ、史上最高の国債発行=累積赤字の積み増しを行ったが、小泉内閣における国債発行の大半は「赤字国債」であり、これを抑制すれば当然ではあるが、公共事業(建設国債及び道路特定財源などによる)ではなく国民生活に直結する歳出の削減を強化することになる。
 小泉前内閣の下で行われた、福祉・医療・教育の歳出削減は、国の負担を地方に転化し、同時に国民の負担率を上昇させるものであった。特に、重視する必要があることは、介護保険導入以来の社会保障・社会保険の市場化・民営化であり、都道府県にその財政運営を委ねて行く流れである。三位一体改革に付随して行われた国保財源の都道府県責任の強化や医療における「健全化計画」における都道府県責任などは、その一例である。
 都道府県の「上下二極分解」(道州制と市町村への事務・権限の移譲など)の方向は強まっており、かつては道州制に猛反対をしてきた全国知事会の様変わりは、今日の都道府県の位置を象徴している。神野委員会自体、道州制について「第2期地方分権改革が実現した後」の課題として提起している程である。
 今後、税源移譲による自治体間の不平等拡大の顕在化や、地方交付税の算定方式を人口と面積に「単純化」する方式の拡大(規制緩和と一体で推進)がもたらすアンバランスなど、地方自治体の「団結」を阻害し、共通する要求での運動を困難化させることが予想されるが、三位一体改革の延長線上での税源移譲の更なる要求は、上記の問題を致命的に拡大することになる恐れが大きい。

*知事の汚職や信用失墜行為の連続は何を意味するのか 
  この間、約50日の間(毎月一人)に三人の知事が「談合」等に絡む贈収賄事件等の疑いによって逮捕された。異常な事態である。全国知事会の動向の中では、異色の存在であった福島県の佐藤栄佐久元知事の逮捕、改革派の旗頭を自認し、道州制検討会をリードした和歌山県木村良樹知事、そして安藤ただひろ宮崎県知事である。また、全国知事会長でもあった梶原拓元知事も、岐阜県の「裏金事件」によって、大きく自治体への信用を失墜させた。
 トップの逮捕や不祥事が連続し、また、程度の差はあっても、岐阜県と同様の「裏金事件」の発覚も続いている。このような事実群を単なる「偶然」であると見ることは適切ではないだろう。背景には、地方の景気後退と公共事業の縮小という「せっぱ詰まった」事態と、積年の「談合」入札などがあるが、さらに、アメリカの年次対日要望書などで強く主張されてる談合の廃止と、アメリカ資本の建設事業への参入要求などもあるだろう。ここでは、このような「背景」の分析は省略するが、知事会などの主張してきた「地方の裁量度の拡大」とか、「情報公開」など、「地方分権」のキーワードとなってきたものが、住民を欺いたことを強調しておきたい。事件の具体の内容は様々であるが、「多選」や「天下り」などに解消できない深刻な地方自治の「退廃」である。このような「事件」の多発を横に置いて、「自治体としての道州制」(道州と基礎自治体=市町村合併によって規模・能力を拡大した市町村)への再編などは、まず不可能であろう。

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2007年日の出