2006年06月27日(火)

第7回「小さくても輝く自治体フォーラムin白川村」

●第7回「小さくても輝く自治体フォーラム」が白川郷で知られる岐阜県・白川村で開催されました。若干の感想を記しておきたいと思います。

 白川村を代表して、歓迎の挨拶に立った谷口尚氏は、白川村が「非合併」を貫くことなった事情について「4年前の5月、飛騨地域は1市(高山市)、2郡(旧吉城郡、大野郡)15市町村という大規模な任意の合併促進協議会を設置し、村もこれに加入しました。高山市の中心部との距離は83キロ。この合併が実現したら『過疎化に拍車がかかる』『各区の自治機能が維持できなくなる』『世界遺産の保存が危ぶまれる』などの懸念を、われわれはどうしても払拭することができませんでした。また、県境地域の特殊性か、合併するなら富山県側を望むという意見も一部に根強くありました」とその実情をのべた上で、「私自身は、早い時期から合併に反対でした。・・・結局のところ、郷土を愛する心が村を維持する原動力になりました」「白川村を日本一美しい村にしたいという夢を持っています」と結ばれました。

 確かに現地に行って見ると、村長が指摘されたように、高山市から車でシッカリと2時間かかります(高速道路が開通しても1時間では行かないでしょう)。高山市も歴史と伝統という点では他の地域に負けない自治体ですが(4年前につくった市の新庁舎はちょっと立派すぎて正直抵抗がありますが)、白川村の「まとまり」というか、独自の文化と地域性を目の当たりにすると、行財政の合理化以外の目的で合併が何かプラスになるとも思えませんでした(行財政の合理化という点でも疑問はありますが)。

 白川村で昭和の初めの頃の、白川郷の写真を見ましたが(合掌づくりの家々は、3つの集落があります)、そこに写っている殆ど全部の合掌づくりの家が、現在でも残っています。道路の様子や集落全体の様子も、基本は同じで、新しい家が建築され、おみやげ屋が道路沿いに出来ている程度の「差異」です。白川郷を歩いていると、タイムスリップしたような不思議な感覚になります。

 先日のブログで少し書きましたが、白川村のそばを走る高速道路が開通予定で、これが開通すると、富山や金沢だけではなく、高山市や名古屋方面からのアクセスもかなり時間=距離が短くなります。客観的に見ても、世界遺産・白川郷合掌づくりの村を維持しつつ、発電所からの税収や観光からの収入などで、かなりの線が期待できるように思いました。村にとっては、環境の劣化や人口移動の激化などのマイナスと観光資源の一層の活用や、都市と村の交流などのプラス面が想定されまれます。現在、年間の観光客が150万人というのは、やや少ないように感じますが、なんと言っても山奥の「村」であり、冬場は交通のアクセスが非常に困難になります。廿日市市の宮島(厳島神社)が年間250万人だそうで、これと比べるとかなりの数だという実感は持ちます。
 村を歩くと、外国人が多いことが一つの特徴で、日本の観光地として海外でも名を知られていることがわかります。

●さて、フォーラムでは、長野県栄村の高橋彦芳村長が「06豪雪と小規模自治体の対応」という報告をされました。
 高橋村長は、昨年から今年にかけての豪雪に関して、「客観的雪害」(社会的に不特定多数対象に被害をもたらす、雪崩による交通遮断や人命、財産喪失など)と「主観的雪害」(降雪と時代の文明状況が交錯して、社会的規模で人々の生活に支障を来す)があるとのべ、実は客観的雪害はそう頻繁には起こっていないと指摘をしました。

 村長が言いたいことは、自分で雪かきのできない「じいさん、ばあさん」しか住んでいない家で不安な思いをして暮らしているのは、主観的雪害であると見るべきだということです。私も豪雪の栄村や隣の津南町には何回も行っているので、雪の実情はそれなりに理解しているつもりなのですが、村長の話は、豪雪からどうやって住民を守るのかという面で自治体の役割を「理論化」している点で、すばらしいものです。

 年寄りからの申請があると、民生委員が除雪が無料に該当するかの認定を行い、村長に通知をされる。そこで、147世帯が災害救助法適用(1世帯137000円の救助費)となり、一般会計から除雪関係で1億円(人口は2千数百人)出ていると述べていました(主として道路の除雪)。
 他の市町村でも、除雪に関して補助金を出したり、様々な対応を行っていることは事実ですが、高橋村長は補助金から「公務員による対応」にしていかないと駄目と明快に指摘をしておりました。つまり、甲と乙が契約を結ぶのではなく、甲と乙に契約関係はなくその中間に自治体があるという関係が求められるという論理でした。

 栄村は冬期の除雪が必要な期間に、臨時の職員を雇用し(16人)、除雪や不安な生活をしている老人への支援を行っていますが、補助金をだして「これで好きにやってくれ」という自治体や、民間の事業者にアウトソーシングしている自治体では、行き届いたサービスが出来ていないという実態があります(実際には除雪がされていないというような事態もかなり多く指摘されていました)。

 住民の生活に責任を持つ、あるいは社会保障の部分というのは、契約ではなく、最終的には自治体が責任を持つ必要があるという意味を込めて、高橋村長は「契約から公務員へ」という定式化を行っているわけです。
 具体的な問題を通じての話だけに、極めて説得力があります。歴史的な雪害によって、栄村の「雪害救助員」=特別公務員が果たす「高齢世帯等の救助」は、豪雪と闘う全国各地の自治体が注目を集めました。雪害対策救助制度は補助事業ではなく、社会保障の基本であるという高橋村長の年来の主張が、全国レベルで検証されたと言って過言ではないと思います。村長は、胸を張って、「この制度を確立してから30年間、救助世帯から事故が発生したことはない」と結びました。

●こういった「社会保障」を、合併して末端が過疎化を加速するような自治体で可能かどうかということが、改めて問われるのだと感じました。
 栄村からの報告を聞いていると、やはり自治への熱い思いが伝わってきます。今回は雪害について話しをされましたが、栄村の特徴は、福祉重視ということと、これを公務員が担うというスタンスです。ボランティアではなく、介護保険の報酬をキチンと支払う中で、下駄ばきヘルパーが活躍します。
 
 都市と農村との連携という場合、栄村のような「経済循環」を重視しつつ、福祉重視、雇用確保、産業振興を一体的に行う姿勢から都市が学ぶ必要があると思われます。なんと言っても、これからの「高齢社会」における福祉や労働、雇用のあり方を「先進的」に行っているのですから。

 同時に、見ておく必要があるのは、栄村がいくら「先進」でも、それは、地域の「自立」のみで行っているのではなく、交付税のウエイトは他の自治体よりやはり大きいのです。しかし、これは「ちょっと支援」することによって、地域が「自立」できる、先進的福祉が実現できるというように捉える必要があるのではないかと思います。

 あまり適切な例ではないかも知れませんが、障害者に所得や人的な支援を行うというのは、自立を妨げるものではなく、支援することによって「自立」できると捉える必要があるのと同じような感じがします。放置することが「自立」ではありません。都市部の自治体でも、交付税を貰っている自治体が多いわけですが、都市サイドの見方としては、交付税を通じて都市から農村に所得移転を行っていると「単純」に見るのではなく、むしろ「ちょっとした支援」(これは、日本の財政力や自衛隊の海外派兵、ODAなどから見ると、同じ国内の話しですし、目くじらを立てるような金額ではないでしょう)によって、高齢社会に適合的なシステムを都市に先駆けて(自治体によりけりではありますが)実現している「お手本」として見るべきだと思うのです。

●ちょっと「褒めすぎ」だと思われるかもしれませんが、私が地方の「先進的」(福祉)自治体を調査、ヒアリングして思うのは、本当に様々な工夫が施され、自分たちの自治体を自分たちで発展させるという姿勢が強いということです。優れた指導者も大勢います。

 さて、人口1万人未満の自治体が503残りました。そのうち、「小さくても輝く自治体」はどのくらいあるでしょうか。合併したくてもできなかった自治体もかなりありますから、自覚的な「非合併」路線、「自立(自律)路線」(私は基本的にこういう用語は使用したくないのですが)を取る自治体は、濃淡含めて三分の一程度でしょうか。

 それにしても、平成の合併に「異」を唱え、大きな全国的運動に発展させてきた「フォーラム」は歴史的な意義があると思います。今年でもう止めようというような議論もあったと聞いていますが、一層厳しくなる(国からの攻撃だけではなく、全国知事会などとも一致できなくなる可能性がある)情勢の下で、全国的な運動の役割は高まりこそすれ、決して、低下することはないと思われます。それぞれが、財政危機に個別に対応し、バラバラに福祉をはじめとした行政施策を「合理化」して行くとき、このフォーラムは終わりになるのだろうと思います。それだけに、今回の栄村の高橋村長の「公務員重視」の話しは、重要であると痛感した次第です。

 ちょっと気になったのは、この間の「三位一体改革」や小さい自治体を圧迫する政府の政策が「地方分権に反していた」という認識が、一部に見られることです。私は、このブログでも何回か述べていますが、「地方分権それ自体」というようなものが存在するのではなく、「どういう地方分権か」という内容が問題になるということです。「地方分権」であっても、住民生活に役に立たないばかりか有害であるケースもいくらでも想定できます。「地方分権」という「自由主義」的なスローガンは、ちょっとした「ハズミ」で、新自由主義的な分権論に「転化」します(現在の日本の「地方分権」はまさにこれに該当しています)。また、国=悪、地方=善というアナーキズムへの接近もちょっとした「ハズミ」で出現します。国からの「自由」というのは、そういうものでしょう。共同体主義(コミュニタリアニズム)というのも、国からの「自由」を内在的に含んでおり、国家権力の問題を曖昧にする傾向があります。

 さらに言えば、地方分権と中央集権の関係も、ある種の相互補完であり相互浸透的な存在です。地方分権=民主主義と等値できるものでもなく、逆に中央集権がすべて駄目(非民主的)というようなものでもありません。現代資本主義国家において、確かに国家の機能が上下に分解するような(例えばEUのように、超国家と地域に分解し、主権国家=国民国家の役割の相対的低下現象)ことは進むでしょう。
 しかし、一国内の中央集権=地方分権の構図がグローバル化し、相対化しているという話しであり、中央集権自体が止揚されているわけでもありません。国家の通貨政策などが、グローバル化され超国家化されても、通貨政策の必要性がなくなっているわけでないのと同じです。
 また、中央集権は戦後の福祉国家を支えてきた制度であり(日本の場合、福祉国家というより「開発主義」的に歪められてきたわけですが)、国民の権利や生活擁護という点で、中央集権国家は現時点でも大きな役割を発揮しています。これを「正確」に評価して置かないと、分権=権利剥奪という「自由」に帰結する危険性もかなり存在します。

●ちょっと話しが飛びましたが、自治の視点というのは、分権か集権かという単純な構図では捉え切れないものです。日本的な限界を有しつつも、各地で実践されている様々な「自治」を理論化、普遍化しつつ、日本における「新しい福祉国家」への道を追求することが重要だと認識しています。
 その点で、勤労者の権利や労働条件の確保、ひいては労働者の社会的地位の向上が、この「自治」の大前提になります。公務員労働者を踏みつけ、無権利状態に陥れた状態で、自治体の財政再建などが仮に達成できたとして、そんなものは「自治」とは無縁です。滅び行く「地方公共団体」の姿でしょう。

 今日、公務員の労働運動が攻撃され、自治体職員が財政再建の第一義的な標的になっていますが、自治体が勤労者との接点を追求して来なかった限界が、攻撃への「もろさ」を産んでいる面があると思います。
 自治体は元気に働く人たちこそが、自分たちのものとして「活用」し、また「活力」を注入すべきものです。この「自立」している人たちが、関与しない、できない自治体では発展できないのではないでしょうか。
 自治体とは勤労の場であり、地域経済循環に支えられ、他の地域と交流しつつ発展すべきものでしょう。この「原点」がいま問われているのだと思います。栄村の教訓もここにあると思うのです。

 「小さくても輝く自治体フォーラム」については、もっと色々と議論すべきことがありますが、今回はこの位にしておきたいと思います。