2006年01月13日(金)
NPMの定義をめぐる議論と公務員制度①
●志木市の迷走において、NPMを「多義的なもの」と述べたが、以前、『自治と分権』に志木市のことを書いた際も、このNPMについての質問や疑問が寄せられていた。
そこで、簡単にNPMの定義をめぐる議論を一瞥し、「多義的」と述べた真意について明らかにしておきたい。
NPMに関する定義は、色々と論者によって異なるが(この異なること自体や、定義に関する議論が百家争鳴であることを持って、「多義的」と規定をしているわけではないので、この点は誤解なきように)、NPM(New Public Management)の名付け親と言われている、C.Hoodの1991年の論文を見ると、定義というより、構成要素として7点が上げられている。
Hoodの優れている点は、これが「本質」であるとか「定義」であると述べていないことにある。つまり、あくまで構成する「要素」なのである。
それを見ると(簡略化しているが)
①公共部門における個別指導型のマネジメント
②業績による基準・指標
③成果の強調
④公共部門の各単位への分離
⑤公共部門の競争化
⑥経営における民間のスタイルの強調
⑦資源利用における一層の規律を倹約
というような内容になっている。
もっとも、Hood自体は、NPMの源流については、いわゆる雑炊的な「寄せ集め」であると考えているようなので、明確な「定義」が必要だという認識もないようである。
しかし、上記の7点を見ると、かなり巷間で流布されているNPMの定義に近似的なものになっていると思われる。
●筆者は、ある物事の「本質」を解明する場合、「分析」と「総合」が必要であると考えている。上記のようなものを仮にNPMの定義と規定するならば、分析と総合の視点ではなく、「特徴列記主義」とでも言いうる定義になる。
これは、レーニンの「帝国主義」の規定などと同じで、本質というよりも「帝国主義の特徴」「状況」をその時代の事実に合わせて「列記」しているという要素が強い。
結論から言うと、特徴列記では本質に迫れない。分析と総合は、現実の分析対象が「分け離ちがたく」一つの「塊」として存在しているものを、分析の視点を明確化することによって、二つに分けることから始まる。そして、それぞれの側面を科学的に考察して、その二つの面を総合するという「手続き」を行う。まあ、ここで哲学的な話しをしても「あれ」なので、その辺は、哲学の入門書に任せたい。
●さて、HOODなどの議論を受けて、日本でNPMの定義を行ったことで先駆的なのは、やはり大住莊四郎であろう。
彼の定義は、以下のようになっている。
①経営資源の使用に関する裁量を広げるかわりに、業績/成果による統制を行う。
②市場メカニズムを可能な限り活用する;民営化、エージェンシー、内部市場などの契約型システムの導入
③統制の基準を顧客主義に転換する(住民サービスを顧客とみる)
④統制しやすい組織に変革(ヒエラルキーの簡素化)する
というものである。色々と批判はあっても、一番「スッキリ」しているし、本質に迫れる定義に近い。大住は、この4点の相互関係についても述べており、①と③が連動しており、
①顧客主義を踏まえた「行政評価(政策評価)」制度→業績・成果による統制
②と④が連動しており、
②ヒエラルキーの簡素化(分権化、フラット化)を踏まえた公務の市場化・民間化(民営化)
というように、二つの「流れ」に整理されることになる。
●そこで、大住等の「特徴列記主義」的な定義をこれ以上、こねくりまわしても、NPMの定義は深まらないのであるが(このこと自体の証明はここでは行わない)、特徴列記をもってNPMの定義を行うこと自体の「無理」をのべておくにとどめる。
というのは、NPMは、行政の市場への「開放」や、行政内部に市場原理を導入するとか(内部マネジメント、外部マネジメントなどの方向)色々と多方面に「定義」が拡張して行くわけであり、自治体経営の企業主義化、或いは、集権と密接に連動した「分離」「分権」などの方向を示すが、これらの民営化・市場化のレベルは、その時々の民間の技術力や行政の姿勢などに依存しつつ、歴史依存的なものであるからである。
また、経済学的な源流さがしも、かなり困難である。NPM的な思想や制度設計については、新制度学派によることは明確であろうが、さて、この新制度学派と新自由主義或いは新古典派との関係もそう簡単ではない。論者によって、新自由主義と規定したり、新制度学派と規定したり、その「総合」であると規定をしたり様々なのである。
新自由主義的な流れとして一般に認知されている「公共選択」なども、新制度学派との「親和性」も大きい。プリンシパルーエージェンシー関係や、ゲーム理論など、新制度学派由来の理論も多用されている。
というわけで、NPMの定義が多義的であり、多様になっている「根拠」の一端を理解できると思われる。しかし、同時に明確に述べておくが、「定義」が無意味なものであるというわけでもない。やはり大住の定義は、それなりに意義があり、二つの流れとして(行政評価に連なるもの、民営化に連なるもの)整理している点は評価できよう。最も、彼の場合は、あまりに包括的な定義を求めるあまり、住民協働や住民参加までをも、包括的にNPMの定義に取り込み、これを外部マネジメントで説明しようとするなど、「無理」もあり、定義それ自体としての「破綻」であると指摘しようとすれば、指摘できるのである。
●そんなわけで、NPMの分析には、行政・行政運営の諸相を、その時々の歴史的な流れを踏まえて、市場万能論、企業利益優先論の新自由主義と、一国の歴史的・文化的要素を踏まえた、政府や経済・社会の「規制」「ルール」との関係において、具体的に分析を進める必要があるということになる。
海外の事例を日本に持ってきて、「当てはめる」というありがちな議論について、その「ズレ」がもたらすものは、場合によっては、国民生活にとって命取りになりかねないのである。
さて、この続きは、日を改めて。

