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 2005年02月10日(木)

公務員の憲法感覚と経営感覚

●最近、「行政改革」や新経営管理(NPM)を担当されている公務員の方とお話する機会が多い。そこでは、行政の「無駄」や「非効率」に対して、民間の経営感覚を生かしてどのように「効率化」するかということが話題の中心になる。また、最近では、民間の経営感覚の導入だけではなく、官民の協働についての必要性が強調されることも多い。

「官悪・民善」とか逆に「民悪・官善」などという議論は、相手にする気にもなれないが、官と民の関係をどうみるかについて、少し「原理主義的」な議論をしてみたい。ここで、問題になるのは、公務員の「憲法感覚」である。公務員になった人なら「憲法遵守義務」にもとづいて「宣誓」をした経験もあるだろう。
 そこで、ちょっと面白い体験をしたことがある。私が「公務員は憲法を遵守する義務があるから、この点で民間の人とは異なる」と話をしたら、「憲法を守ることは民間の労働者でも同じではないか」「取り立てて、公務員を民間労働者と区別する必要はないと思う」という話を聞いたのであった。

●はて。そうなのか。
 私はそこで、「民間労働者というのは、憲法を守る義務があるのか」と質問をした。答えは「国民として憲法を守るのは当然じゃないのか」というものだった。これは、二重に間違っている。憲法のどこに「国民が憲法を守らないとならない」と書いてあるのか。書いてなくても、国民たるものの「常識」なのか?
 普通の国民も憲法を大切にしたい、という限りでは、こういった感覚は必要なのかも知れないし、多分、善意でそう思っているひとも多いだろう。
 
 しかし、そうではない。憲法とは国民が国家の自由を制限することが基本的な思想にある。だから、憲法99条では「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」となっており、一般の「国民」はでてこない。国民対国家という枠組みで、問題は設定されているわけである。というか、もっとも憲法を守りそうもない「連中」にタガをはめていると言ってもよいかも知れない。

 だから、公務員は「全体の奉仕者」であることが規定され、選定罷免権などが国民に権利として保障されている。公務員の側から見ると、憲法遵守義務となり、国民の自由権や社会権などを保障することが義務づけられる。憲法は、常に公務員がこういった国民の権利を「侵害」する恐れがあることを自明のこととしているわけである。だから、公務員の「経営感覚」は当然のこととして、この憲法遵守の「憲法感覚」に抵触をしては「ならない」ということになる。

●では、官民の協働や行政の民営化についてはどうか。

 よく、措置制度などが問題になり、措置制度から介護保険などの「契約関係」に転換したと言われる。しかし、措置制度とは厳密にいえば、社会福祉法人などを設立して、行政の実施責任を民間に依存することを意味した。旧社会福祉事業法がこれを担保したわけである。
 だから、厳密にいえば、民営化の「レベル」の違いであって、官から民という直線的な変化とは言い難いものがあるわけだ。

 では、憲法では行政の「民営化」についてはどう規定しているのか。というか、どのように考えているのか。

 行政法などの「通説」は、多分、憲法29条の私的所有権の保障や、営業の自由などによって、サービスの基本は民間によるものと想定されている、というものだろう。まあ、「ブルジョア憲法」などと言ってしまえば、「それまで」なのだが、確かに、我々の日常生活の大半は市場を通じてサービスや商品を購入することが基本になっている。

●では、行政の意味は?

 そこで、行政の意味が問題になるだろう。日本国憲法の特徴の一つであるが、社会権が広範に規定をされている。つまり、公務員の仕事も単なる国民への「自由権」の保障だけではなく、憲法25条の「生存権」や同26条の「教育を受ける権利」、27条・28条の労働基本権の保障などを、キチンと実行に移さなければならないわけである。

 こういった「社会国家」「福祉国家」の役割の拡大と共に、公務労働も国民の発達を保障し、社会権を保障し、企業の営業の自由についても「野放し」というわけには行かず、社会権との「調整」を必要としてくるわけだ。近代的な公務員像がここで明確になってくる。同時に、福祉国家は中央集権制を強化し、「大きな政府」や「お役所仕事」などの非効率を発生させ、現代国家の財政ストレスを拡大してきた。この「是正」の局面で「経営感覚」が発揮される必要があることは当然であるが、その「前提」が曖昧にされてはならないのである。角を矯めて牛を殺すようなことは、日本国憲法が認めるところではないのである。ドイツのワイマール憲法では「営業の自由」に対する「制限」も明記されていた。そういう意味では、日本国憲法はこの精神と親和的だと言ってもよい。

●では、官と民の役割分担を判断する基準は?

 これは、もちろん、憲法から直接に導かれる問題ではない。政治や国民の要求や判断が大きな要因となって決定されて行くことになる。
 しかし、ある程度は、判断の基準を提示することは必要であろう(個別の法律の立法政策を無条件に認めるわけには行かないだろう)。一般的に、広い意味での「法治国家」では「事前規制」が前提になるが、市場を中心とした「規制」は「事後規制」になる。

 行政の責任は、様々なレベルがあり、官が行政サービスの実施までを負うか、実施(サービス供給)は民に任せるのか、バリエーションがあろう。こういったすべの局面を、現実には一つ一つ点検して、判断をする必要があるわけだ。一般論でいえば、すべて市場に任せれば、官の責任は「市場のルール」をつくる「だけ」(決して「官」の出番がないわけではない)である。

 市場を通じてサービスが供給される場合、需要と供給は市場を通じて事後的に調整される。また、価格の変動を通じて調整される。ここで、問題になるのは、第一に、事後的な調整で、国民の社会権を保障できないケースである。命や環境が失われてから「事後調整」はありえないからである。
 第二に、そもそも、需要(デマンド)と国民の要求・必要(ニーズ)は異なる。需給によって調整される「前提」は有効需要の有無である。民間から「サービス」を購入できない人たちの要求は、厳然と存在をしても「ニーズ」のままであり、有効需要を形成しない。つまり、ここでいう「ニーズ」は市場を通じて実現できないのである。
 これは、行政が「直接」に把握するメカニズムが働かないと、供給されないものなのだ。福祉行政がある程度「パターナリスティック」であることも許容されるのは、こういった事情がある(勿論、社会保障の「権利性」ということは大前提であるが)。

●こうった問題を通じて、見えてくるのは、例えば介護保険制度を通じて、支払い能力のない高齢者の「現実的生活」や「ニーズ」が見えてくるのかという「根元的」な問いであろう。

 行政の民営化の問題については、また、機会を改めてのべよう。今回は、官と民の役割分担の「一端」について思う所を述べたという次第である。