2005年06月25日(土)

はめられた公務員?

●表題の「はめられた公務員」とは、中野雅至『はめられた公務員』(光文社、05年5月)からとったものである。地方公務員→国家公務員→県立大学教員という経歴の持ち主が書いた本であるが、ちょっとズレていて、ちょっと的を射ているというような「アンバランス」な本である。

 公務員の制度や給与問題、また、公務員をめぐる社会情勢などに精通している著者とは、とても思えないのであるが(どういう経過でこういった本を書くに到ったのか、不思議な印象を持つが)、そうかと言って「トンデモ本」というわけでもない。

●大阪市役所の「職員厚遇問題」(バイアスのかかったネーミングであり、カッコをつけているが)をはじめ、地方公務員バッシングが激化しているなかで、公務員も民間労働者も、すこし真面目に「公務員とはなにか」という問題を考える必要があろう。

 『はめられた公務員』というので、この間の公務員バッシングが「政治的意図にもとづく策謀」であるとか「マスコミの世論操作」であるとか、こういった「陰謀もの」を予想したのだが、見事に外れた。

 「430万人の地方公務員の皆さん。あなたたちは『犠牲者』です!」というコピーが裏表紙を飾っている。しかし、著者の地方公務員に対する思いはアンビバレントなものである。
 まず、公務員バッシングについては、地方公務員こそ「公務員天国」であり、国家公務員のエリートは、残業代もでない超ハードな仕事で、民間のエリートや「証券レディー」などに比しても、ペイしない給与水準であり、バッシングされる「いわれ」はない、という認識に立っている。

 確かに、中央省庁の「官僚」の働きぶりは、それが「ムダ」なものであるかどうか別にして、庁舎が夜間まで煌々と照っていることからも、ハードなものであることは、かなり知られているだろう。同時に、国家公務員試験「Ⅰ種合格」という「入り口」だけで選別され、その後課長までは、護送船団方式で昇進して行くように、巷で流行の「成果主義」や「能力主義」とは一風変わった存在でもある。

●著者は、「地方分権」によって、地方が責任を持たされるようになったことが「地方公務員への注目度」を増し、今後も地方公務員をめぐる「リストラ」やバッシングは強まるだろうと述べている。この辺の認識は、かなり当たっていると思う。

 官僚と政治との関係も、地方分権+小選挙区制によって、代議士のウエイトが低下して、知事や市長のウエイトが上昇することになり、地元と国会(政治)との従前の「パイプ」に変化がもたらされるという認識もその通りだろう。

 護送船団方式で、自治体運営の良し悪しとは別に、全国どこでも同水準の行政が展開されてきた(事実はそうでもないのだが)制度的な背景として「地方交付税」の存在が指摘され、最終的に分権と自立の地方行政(「受益と負担」のバランス)が指向される中で、地方への国民(住民)の注目度がアップして行くという指摘も当たっている。著者は、これを「地方分権の罠」とネーミングしている。
 確かに、新自由主義的な「地域間競争」であるとか、「受益に見合った負担を」という負担原理の転換などが、地方分権の推進とパラレルに推進されてきたわけである。この辺の「勘」は、なかなか良い。

●私は、地方公務員の現状が「公務員天国」であるとは、到底思えないのであるが(確かに、定時退庁や休暇の取得、仕事がそれほど忙しくないというような「平均的」地方公務員像は、かつては一般的であったと思う。しかし、早い自治体では10年以上前から、遅い自治体でも、この数年の間に、自治体の職場の情況は一変したと言っても過言ではないーこの事実がストレートに国民・住民に認識されていれば、今日のようなバッシングは考えられなかったのであるが、大阪市役所の労・使・議会の「三位一体」の癒着構造による「厚遇」問題はショッキングであった)、著者も「公務員バッシング」は的はずれであると述べる。そして「政官業癒着」こそが、日本を駄目にした「真犯人」であるのに、「官」だけがバッシングをされるのは、意図的なものだという。

【閑話休題】序でにのべておくが、私は著者が指摘している自治体における「縁故採用」の実態への警告については、両手を挙げて賛成である。これだけは、制度的にキチンとして情報公開に晒す必要がある。大阪市が現業の採用ストップを行ったことについて、もう少し真面目な議論が必要だろう。

 さて、話を戻して。ここから進んで、著者は「2007年」に団塊の世代が一斉に退職する時期に、公務員の「大リストラ」が行われると予測する。これを著者は「責任をとらされたうえにリストラの罠」と述べる。
 自治体は、地方分権を言い出したために「自己責任をとってリストラ」まで手を付けなければならない(総務省の支配下で)。
 これが第一の罠であり、第二は、どういう方向に国家を持って行くのか、全く地方分権の最終的姿が見えない中で、「三位一体改革」が進行している、総務省・後進自治体・無能政治家の「三位一体のペテン」だと述べる。

●この著書では、こういった認識から「真の三位一体改革」や「地方分権」を主張するのかと思えば、そうではない。これから、自治体の「破産」が進行するから、現行の財政再建準用団体などではなく、本格的な破産・再建の法律を策定する必要があろうと述べている。
 自治体のリストラは、マスコミによるバッシングで、三位一体の「真犯人」が逃げ切ってしまう「結果」として描かれるのであるが、では、スケープゴートに仕立てられた公務員に対して「救いの手」をさしのべるのかといえば、そうではない。反対に、現行の国公法や地方法の分限規定では、予算や組織の改編=つまり行政改革の場合は合法的に「リストラ」できるということを述べている。公務員の身分保障の「限界」を述べているわけである。

 著者は、ここから進んで、このリストラをやるためには「労働基本権を与えて身分保障を剥奪」するという、経済同友会や、今回の公務員制度改革の嚆矢となった「野中広務元自民党幹事長発言」などと軌を一にする議論に突入するのである。この辺になると、もう著者は自分で自分の言っていることの意味が理解できていないのだろう。

●しかし、著者は、この論理破綻の「間際」から不倒翁のように立ち直る。「立ち上がれ!公務員諸君」である。ここから、現在の公務員に対する「期待」というか、思いが述べられる。成果主義の導入とか、「自分の身は自分で守れ」とか、ありふれたことを述べた後、「公務員ー『夜回り役場員』を目指せ!」とくる。正直言って、中身はともかく、こういった公務員としての気概が求められていることは確かであろう。
「夜回り先生」は、私も読んだが、要するに「理屈」じゃないということだろう。単なる「ミッション」だけでもない。もう少し、人間的な深いところから発した、コミュニケーションへの嗅覚だと思われる。
 
 役場の職員が「夜回り」をすることを期待しているのではなく、「住民奉仕」とか「国民全体の奉仕者」という理念を、憲法9条を実質化するというのと同レベルで、運動化できなのかという思いは、私も強く感じているところである。

●「いい加減にしろ!公務員批判」というのが、最後である。
ここでは、昼間からパチンコをして、喫茶店にたむろしているのは民間労働者ではないかとか、「公務員は楽で良い」という人間は、じゃあ、何で「公務員にならなかったのか」と毒づく。最後っぺのような終わり方で釈然としないが(笑)、著者の本音はこの辺にあろう。

 全体として、出来の悪い「ミステリー」を読むような気分で、スジにかなりの無理があり、途中で犯人もわかってしまうのであるが、意外と憎めないバランス感覚に裏打ちされていると言ってよいだろう。

●私が今回、ブログでこの本を取り上げて、あれこれと述べたのは、別にこの本の書評が必要だと思っているわけではない。そうではなく、これからの公務員の歩む道は、日本の「進路」とパラレルであるという意味で、ここで立ち止まって、原点に戻る議論が必要だと思うからである。
 公務員制度改革は、混迷を深めているが、法律も改正されないうちに、臨時・非常勤・派遣・下請け・アウトソーシングの導入をはじめ、行政の民間化と、公務員の民間化が同時進行している。
 公務員を指さして非難をしているうちに、官民とも給与は「上下に階層分化」し、相互の比較も意味のない構造になりつつある。

 公務員バッシングをマスコミが煽っているが、公務員の「実態」は、驚く程知られていない。しかし、知られていないと「嘆く」前に、では、自分たちは民間・住民の実態を理解しているかと自問する必要があろう。この「二つの無理解の合作」が、マスコミの煽りや政治的な意図を「成功」させている背景ではないかと思うからである。