2005年11月10日(木)
毛利透:「マニフェスト選挙」なんてものはない(『世界』11月号)
●『世界』の11月号の特集に「総理専制政治とどう対決するか」というものがあった。今回の総選挙における小泉自民党の「圧勝」を、小泉専制政治化という角度から捉え、様々な論考や対談などを配置したものである。
全体として、やや「食い足りない面」があるが、総合雑誌の特集としては、面白い論考が多かった。
考えさせられる論考として、毛利透氏の「マニフェスト選挙」なんてものはない、を取り上げ、少し考えてみたい。
まず、論文の表題にある「マニフェスト選挙」については、筆者の意見も殆ど同様であり、二大政党制を助長し、政治をオセロゲームにするだけの、低次元の「マニフェスト」などは、実にくだらないものだと思っている。
毛利氏が指摘するように「この選挙の戦われ方は、小選挙区は政権を選ぶマニフェスト選挙だという主張の現実的妥当性を掘り崩すものであった。マニフェストとは、大政党が政権をとったら実現すると国民に約束する具体的公約集だとされる。しかし、今回マニフェストに書かれてある政治の広い分野について国民が判断を示したとは、いかなる自民党首脳もいうことはできまい。自分たちが争点を郵政一本に絞ると公言していたのであるから」という認識は同意できる。
また、イギリスを例に取って、選挙で重視されるのは首相候補者であり、それが重視する少数の政策の是非である、との指摘もその通りだと思う。
要するに、勝者の主張の100%が支持されているわけでもないのに、あたかも100%の勝利のような様相を呈するわけである。
個々の政策の意味が、実質的には薄れ、「親の総取り」的な議論に傾斜をして行くわけである。毛利氏は、こういった現象を批判的に捉え、「郵政民営化については、決着がついた(筆者はそうは思わないが)。その他の問題については、与党の議席の多さには、過半数という以上の意味はない。自民党のマニフェストに書いてあろうがなかろうが、有権者が判断していないということ点では同じであり、そのような問題に圧倒的支持が得られたわけではない」と述べている。
この指摘もその通りであろう。しかし、「この三分の二という議席の衝撃が与党の国会運営を楽にするのはせいぜい1年程度であろう」と述べている点は、ちょっと留保が必要である。小泉構造改革政権のこれからの1年は、場合によっては、10年分の「公共の縮小」に結実する恐れがあるからである。
日本の場合、未熟であり開発主義的に歪められてはいるが、一定の福祉国家的な行政施策(地方自治も含めて)が、どれだけ後退をさせられるのか、この現実的な状況分析が求められる。
●既に増税論議が進みつつあるが、「増税よりも(否定もしない)、現在は歳出の削減、公務員の削減、小さな政府である」という議論を前にして、「増税のための歳出削減」とみるか、単に「プライマリーバランスの黒字化」を政治目標にしていると見るのか、「増税もさることながら、小さな政府、即ち福祉国家の破壊」を本命とみるのか、微妙なアヤがある。
消費税率アップを中心とする「増税」は、オコンナーの指摘もあるように、一気に矛盾を激化させる。これは、当然のことで、借金を「返済」することによって、所得の再分配が資本(とりわけ金融資本)に厚くシフトされることになるからである。事実上、所得の再分配は既に発生しているのであるが、これが現実的な、目に見える形で現れると言い換えてもよい。貧しい人は、益々貧しくなるわけである。
現在の日本は1400兆円の個人貯蓄を持っている(不良債権化している部分や、今後の高齢化で縮小するというような、様々な問題点は指摘されているが)。海外から借金をしているわけではないので、「右手が左手から借金している」と言われている。しかし、国家の借金を経由して、増税は貸し手に資産を集中していく過程として把握できる。
「小さな政府」は、この矛盾・軋轢を最小限に食い止め、合わせて国民に「福祉国家幻想」を捨てさせるイデオロギー効果をもたらす。日本の場合、福祉国家の経験もないので、「昔は良かった」という話しも、自民党の利益誘導政治以上のものはないからである。今回の総選挙では、自民党から追い出された、国民新党や新党日本だけで、280万票を獲得しているし(落選議員も多いが)、北海道の「新党大地」は、13.4%・40万票を獲得している。これは、ある意味で、自民党の開発主義・利益誘導政治への「郷愁」でもあった。
こういった流れは、所詮「郷愁」であり、将来性はない。
●これに変わるオルタナティブ政党(路線)の伸長を事前に食い止め、少数「野党」に押しとどめるための、選挙手法が実はマニフェスト選挙であり、小選挙区制の支配におけるメリットを、現実化するものなのである。
マニフェスト選挙を批判するのであれば、二大政党制の「陰」に隠された、国民的なオルタナティブの発生=蓄積されたマグマの事前冷却こそが問題にされなければならないだろう。
ある意味で、少数野党は「万年確かな野党」でしかありえない存在になってしまうのである。この小選挙区制の民意歪曲と一体のものとしてのマニフェスト選挙を論じる必要があるといえよう。
●さて、問題は毛利氏が、「強まる政党本部の権力」「政党内の権力者に対する統制」を論じている部分である。
議論の流れは、現在の選挙制度が政党に特権的な制度であり(無所属では政策宣伝もできない)、二大政党制を助長しており、現実的な力を正確に反映してもいない「総取り的」勝利をもたらす。しかも、権力は政党内の一部の権力者に集中して行くという現実である。
つまり、政党優遇→政党内権力者への集中→政党内権力者優遇という「権力独占」に帰結するというわけである。
そこで、毛利氏はドイツの例をあげ「政党を憲法上公認し、同時に規律をかけるという体制をとるドイツでは、法律で政党内の候補者選出が求められている。政党内のトップの権力独占に対して、法的なしばりがかけられているわけである」と述べる。ここまで読むと、毛利氏の意図は明確になる。
政党が非民主的にトップの独裁による候補者選考を行えば、政党優遇の選挙制度で、勝利を収めることは、民意を歪め、政党トップによって政治を壟断することに通じるという批判である。
毛利氏は、注意深く、「党の選挙結果が『顔』にかかっている以上、『下』からの抵抗はしょせん限定的にしかなりえない」と述べ、政党規制の限界にもふれている。しかし、最終的な「結論」として、「党内権力者の暴走を防ぐ潜在的な歯止めとして、その限りで法的に介入することの意味は失われない」と述べるのである。
●毛利氏らしい、鋭く、多面的な考察だと認めた上で、少し疑問も出しておきたい。
第一に、先にのべたように、小選挙区制とそれに伴う「政党優遇」と言っても、実質的には少数「野党」と「二大政党」では、その持つ意味は全くことなる。少数野党の進出に「歯止め」をかける制度という意味を見失ってはならないだろう。
第二に、コロラリーであるが、政党優遇の選挙制度と言っても、意識的に民意を歪める「制度」である限り、民意をより正確に反映する「制度」に変えることが重要であろう。政党規制を先行して議論することは、現実的にはより「少数野党や無所属」に厳しい規制を強いる結果になる恐れすらある。
国民がコントロールできない政党内の権力集中という事象に対し、政党で構成されている議会を通じて規制をするというトートロジーも指摘できよう。これを「現実的」なものとするには、国民が国家をより直接コントロールする制度の導入が不可欠であろう。
第三に、政党の憲法における「公認」の持つ意味である。政党の規制は、日本国憲法においては、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」という21条の規定に抵触する恐れ大である。ドイツの場合、政党敵視から始まって無視→憲法上の公認→法律による規制という順路で推移してきたようであるが、日本国憲法には、周知のように政党に関する規定が存在しない。これをドイツのような回路で位置づけるべきだというのであろうか。どうも、「角を矯めて牛を殺す」類の議論になるような気がしてならない。
●日本における政党の位置づけは、政治資金規制法や法人格の取得問題以外には、法的な規制がないのが実態である。もちろん、これは毛利氏が指摘しているように、憲法に政党の規定がなく、「社会的団体」というだけのものなので、当然のことである。
折しも、自民党の「新憲法草案」では、憲法に政党の規定が入ってきている。当然に、この意図するところは、政党内の候補者選考の「民主化」などではなく、「革新政党規制」的な発想によるものであろう。
こういったことを「百も承知」で、現在の日本において、政党を憲法上に位置づけることを主張(していると見られる)することの意味について、もう少し丁寧な説明をしてもらえないものだろうか。
筆者は、毛利氏よりは二回り近い「高齢」ではあるが(笑)、また、法律学には疎いのであるが、毛利氏の刺激的な議論に、「啓発」を受けることが多かった。そして、実は、政党内の候補者選考だけではなく、党首などの選考も「民主化」した方がよいと思っているものでもある。しかし、これは、政党の党員や政党自身が、そういった方向、国民に拓かれた運営を行うことを「選挙」をはじめ、「大衆的な運動」という試練を通じて獲得していくべきものだと思っている。
さて、読者の皆さんは、どのようにお考えだろうか。

