2005年09月19日(月)
民主党の憂鬱ーねじれた政党構造
●民主党の代表選挙が、菅直人氏と前原誠司氏の間で行われ、2票差ではあったが、前原氏が民主党代表となった。幹事長は、鳩山氏となり、小沢氏には「代表代理」を依頼すると報道されている(18日時点)。
さて、前原氏は当選5回、43歳の若手の「ホープ」として、また安全保障問題の「オタク」として知られている。持論は、憲法9条改正であり、特に9条2項(前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない)を改正して、自衛権の明記(これと集団的自衛権とは同じものであるという主張)を行うべきであるというものである。前原氏の国会質問には、自民党席から「民主党に置いておくのはもったいない」(笑い)という不規則発言すら飛んだという。まさに、新自由主義よし、大国化よしの論客ではある。
●前原陣営は、「自民党では43歳の党首は誕生しないだろう」と述べたという。確かに、自民党は50歳の安部氏が「若手」のままの政党ではある(苦笑)。
しかし、若手党首の誕生が「すべて」良しというわけではない。何故、こういう状況が生じたのか、いくつか原因があげられる。
第一に、民主党の構成が変わり、既に民主党発足後に当選した議員が衆参合計194人の議員の過半数を占めている。日経新聞は「自民党幹事長として豪腕をふるった小沢氏や旧社会党のプリンスとされた横路氏の往事を知る議員はもはや少数だ」と指摘していた。
また、最近の民主党の「当選」傾向を見ると「若手」が伸びていることに気づく。東京都議選でも、この傾向は顕著であった。
『自治と分権』誌(第21号)における「野中広務×渡辺治」憲法対談において、両者は期せずして、自民党や民主党の「若手」が戦争を体験しておらず(体験していなくても、学習して、日本の侵略戦争の本質を把握していれば良いのだが)、日本の大国化がアジア諸国からどのようにみられているのかという「自覚」が欠如していると指摘していた。
第二に、旧社会党系や民社党系の「労組出身」議員の「数」と影響力の低下がある。今回の選挙では、郵政民営化に連合内の二つの郵政関係労組が反対したことが、民主党の「郵政民営化法案」反対への背景となっただけに、「脱・労組」は、民主党の発展の「死活」の問題にまで「祭り上げられる」事態となっている。党内に「民営化に反対する守旧派」を擁していたので、派閥解消に向かっているかに見える自民党に勝てないという「論理」である。
第三は、小泉首相が、「自民党をぶっ壊す」ということで、現実に、自民党内の郵政民営化反対論者を組織的に排除し、「刺客」まで送って、その政治生命を絶とうとしたことと関係する。今回、小泉自民党が大都市部で第一党に復活し、「大都市に強い自民党」への道、新自由主義改革の党というイメージを確立しようとしている。これと対抗するためにには、「改革」のスピードを小泉自民党と競い、党内の守旧派に惑わされず、「対案」を出すことが重要であるというわけである。
●こういった流れに前原氏が「相応しい」という判断を「若手」議員が中心になって行ったということが、民主党の今日的「ありよう」であろう。
実際には、小沢氏の影響が強い若手議員に対し、小沢氏は「自由に投票してくれ」とのべ、自分は誰に投票する(した)かも明かしていないようである。2票差という「僅差」による、前原氏の「勝利」は、物理的にはこの小沢氏の判断によってたぐり寄せられたものである。しかし、先に述べたように、事態は、この「偶然」を超えて進んでいると思われる。
面白いことに、郵政民営化法案に反対をして小泉首相に「切られた」議員の多くは、靖国派であり、憲法改正派であった。つまり、新自由主義と大国化という二つのベクトルからみると、選挙の結果、新自由主義の流れが強まり、復古や大国化の流れは、その一つの担い手の勢力が「弱まった」ように見える。
小泉首相が、靖国参拝を首相になってからおこなってきたのは、党内での総裁選挙に勝利するため、靖国参拝を求める遺族会等の「自民党員票」目当てであった。しかし、国民による総選挙では、靖国参拝は「損」となる計算であり(特に、今回の選挙では、憲法や靖国を「争点」とはしたくなかった)、その判断から「靖国参拝」を見送ったのであった。
偶然も手伝い、靖国参拝派や復古派は党内でその地位を後退させた。小泉自民党は、都市部に強い、新自由主義的な政党としての「性格」を強める結果になったことに注目しておく必要がある。民主党が危機感を募らせるのは当然のことであろう。
もちろん、自民党の支持基盤である都市自営業者(中小企業家)や農民等の旧中間層における「支持」も残っており、身内を切りながら、新自由主義改革を行う「矛盾」ある政党という問題は、依然として残ってはいる。
●こういった、自民党と民主党の攻守ところを変えた「政党配置」の下で、イケイケ@新自由主義と、オタク@大国化・安全保障の「若手」党首の登場とあいなったわけである。
菅直人の選対事務局長をした、秋田の寺田学氏(寺田秋田県知事の息子)は、「(菅氏が当選し)自民党の政策に明確な対立軸を示す政党へ生まれ変わる必要があると思っていた。非常に残念だ」と肩を落とした、ということである(秋田魁新聞)。
二つの政党が、大国化と新自由主義の政策において、「スピード」を競い、マニフェストにおいて、政策は同じ、スピードが違うという「差別化」による選挙を行うとすれば、国民はこれをどう判断するだろうか。
選挙そのものを、今回のように、マスコミ主導の「劇場」と化し、おもしろおかしく、政治を「大衆化」するのであろうか。
●こういった視点で、今回の民主党党首選挙や総選挙の結果を眺めると、「政治勘のよい」小泉首相が、靖国や憲法を「意識的」に選挙の争点から外したことの意味は意外と大きいと気づかされる。構造改革に対する批判=つまり新自由主義批判が弱いという「歴史的」な欠陥をもった日本の「左翼」の構えをふまえた「ポピュリズム」的発想の選挙戦術だったのである。
こういった路線は、「大勝」をもたらすと同時に、やりようによっては、「避けた課題」の追求が一層困難になるという「弱点」も有する。一例を挙げれば、「既定の路線」である消費税増税をマニフェストに堂々と掲げることの困難さも、今回のような選挙が、今後の「模範」となる場合には、相当なものに拡大するだろう。下手をすれば、自民党の「大勝」から、一瞬にして、民主党の「大勝」に変わる。こんな『オセロゲーム』のような政治状況が「めざす」二大政党制の内容だとするならば、国民は悲劇である。
●自民党政治があらゆる面で行き詰まっているという議論があるが、確かに、議会制民主主義軽視、大企業本位、アメリカ従属という三つの「基本原則」に拘束されて、「政策選択の幅」は狭い。日本が平和外交で国際的主導権をとるなどの事態は、日米安保あるかぎり、永久に不可能である。
だから、この「基本原則」の中で、どんな「手練手管」を弄しても、自民であろうが、民主であろうが、公明であろうが、「大きな限界」があり、この「限界」の中での「コップの中の嵐」である。決して「矛盾」を解決することはできない。と、こういう寸法である。
国民が本当に、これを「コップの中の嵐」であると、認識できるような状況になれば(上記「三つの基本原則」が日本の障害であることが認識されれば)、それはラディカルに変革されるだろう。しかし、それは「対話」や「説得」でなされるものではなく、国民の「政治体験」を通じてなされる性格のものであろう。それが、なされるまでは、「コップの中の嵐」ではなく、「小泉旋風」であり、「突風」なのである。つまり、「基本原則内」での矛盾打破なのである。
言葉を変えて言えば、安保・大企業本位、議会制民主主義の軽視などの「共通項」の中で、これだけの「突風」が吹く「余地」があり、また、民主党が揺り戻す「余地」もあるわけである。まだまだ「のりしろ」は大きいと言わざるを得ない。
こういう状態を、一般的には「行き詰まった」とは言わないものである。
●既に筆者も常々、強調してきているが、運動の面では、憲法改正反対と構造改革反対を強く結合する必要がある。この二つの課題が「バラバラ」になっている限り、いくら憲法改悪反対の世論が強まっても、それは、「郵政民営化の是非を問う」選挙では、有効な集票機能を持たない。この事実も、また、今回の選挙の「教訓」であろう。
今回の選挙では、「総選挙の感想」で述べたように、共産党、社民党を合わせて870万票の「勢力」が維持されている(投票率の上昇によって得票は若干増加すらしている)。確かに、「維持」「踏みとどまり」であった。しかし、自民党が伸びる時ではなく、民主党が伸びる時は、この勢力維持は、大変に困難なものとなろう。これは、これまでの選挙の結果(民主党と共産党・社民党の票の行き来)を歴史的に分析すれば、予想がつくものである。「踏みとどまった」としても、それは無条件ではなく、一つの法則があるわけである。
●今後、重要なことは、国民の運動であり、住民の運動や要求であろう。これを大衆運動として発展させること。また、基地移転問題や、基地公害などの国民の被害を安保と生活の接点で、政策化し運動化することが重要である。
今後、労働者の権利を守り、発展させることの重要性は、これまでの比ではなくなる。「労働契約法」の構想一つをみても、全くの「首切り自由化」であるし、公務員制度問題の議論のされ方も、国鉄の分割民営化の際と全くと言ってよいほど、同じである。
今回の選挙は、公務員制度の「改革」、公務員の削減、総人件費の削減などの方向を規定づけたように見える。新自由主義「改革」=構造改革は一層進展をすることになろう。
さて、公務員労働組合の「みのこなし」はどうなるだろうか。筆者だけではなく、支配層もそして国民も注視をしている。

