2006年09月09日(土)
安倍晋三『美しい国へ』(文春新書)を嗤う②
●先に、「安倍晋三『美しい国へ』(文春新書)を嗤う」をブログに掲載をしたが、その後、様々な安倍晋三論などがマスコミに登場しており、また、論評などの数も増えてきた。
マスコミの論評は、その内容への批判的検討の不十分さが目に付くが、ゴーストライター探しなど、本筋とも思えない議論も多い。そこで、ひとまず、前回の「安倍晋三『美しい国へ』(文春新書)を嗤う」では、嗤いたりなかった部分を補足し、もう少し、安倍政権が誕生するという日本の「情勢」について述べておきたい。なお、これを書く気になったのは、実は『論座』10月号に「安倍晋三著『美しい国へ』を読む」という数名の単文集が掲載されていたからであった。
実は私事になるが、私が『論座』のような本を読むのは、実は、通勤の間か、某所の「あかちょうちん」に限定されている(30数年通っている)。実は「あかちょうちん」では一人で飲むのであるが、必ず一定の「条件」がある。
①すでに、脳味噌が飽和状態で、まともな思考に耐えず、そのまま帰宅しても、仕事にならないか、寝てしまうだけという脳味噌の「ぬか漬け状態」に陥っていること。
②従って、読むべき本がある際は、帰宅すると即「バタッ」なので、飲みながら適当に「景気をつけて」読む必要があること。
③帰宅しても、妻が仕事で(多分)まだかえっていないことが予想され、場合によっては、不機嫌かつ凶暴そうな息子と顔を合わせる「おそれ」があること(「おやじはゴキブリじゃないぞ!)。
④だから、当然、高度な内容の本は読まない(といいつつ、『資本論』などにも、焼き鳥のたれのシミがついているものがあるが<笑い)。付箋を貼ったり、マーカーで線を引いて、鉛筆で書き込みなどをしつつ気合いを入れて飲む(もとい、読む!)。
⑤内容が意味不明になり、同じ部分を何回か繰り返し読んでいることに気がついた瞬間に勘定をして店をでる(内容はもともとが意味不明の文章も多いので、この辺が判断の悩みであるが・・・)。
●さて、『論座』では7月号でも「愛国心」について50人の評論家が単文を書いていた。これはおもしろかった。暇に任せて全部よんだが、3つの愛国心批判のパターンがあることに気づいた。これは、まだ「暖めている」ネタである。
今回の安倍晋三論は、悲惨だった。なんと言っても小泉という当代まれな「おにいちゃん総理」の後なのだから、もう少し「ほめてやって」もよいと思われるのだが、それがどうも小泉以下の評価なのである。
高村薫は、「論理も懐疑もない保守の危うさ」と題して論じていたが「時代と格闘して行き着いた保守でもないため、保守の臭いもないのであるが、臭いも懐疑もない人間が権力を手にして『闘う』というのは、ほとんど『近づくな、キケン』のレベルだと同世代の鼻は言っている。」
また、「悠久の歴史をもった日本という土地柄」としての郷土と国民国家の二つが混在している。」と批判をしている。全くその通りである。先に紹介した『論座』7月号の方の「愛国心」についても、この郷土愛と国民国家の混同というか、郷土愛→国民国家(国家)→愛国心という「流し込み」への批判をする方が多かった。その「批判されるべき」典型的な軽薄な郷土愛論が安倍氏の持論=ナショナリズムの原型なのである。高村氏の慧眼にここは賛同である。
船曳建夫(東大教授)は「『美しい国へ』というタイトルが本書中の『はじめに』にもふれられていないし、『おわりに』にも解説されてないで、ただ、本書の最後に「わたしたちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化を持つ国だ」とかかれれているにすぎない。「アメリカの家族の崩壊は、こうしたスローガン(「家族の価値」=船曳注)によってくい止められたといってよいと言われると、おいおいホントにくい止められているか、との思いがする。
「二世の成長には一度は親離れする。もしくは親を厳密に批判し、そして再発見する課程が必要のようだ」(こういった視点が安倍氏にないという批判はかなりの論者に共通する指摘だった)。
中島岳士(京大教授)「すべてをナショナリズムに回収させる論理的飛躍」。
『美しい国へ』の中で、「左翼的な先生への反発」が、彼が「保守にすすむ決定的動議」になったかのような記述があるのだが(行方)、「彼の信念が、歴史と教養、信仰に裏打ちされた『近代保守主義』などではなく、『アンチ左翼』というネガティブな感情に基礎づけられていることを、我々はしっかりと理解しておかなければならない」と指摘している。そして、先に指摘したような郷土愛→ナショナリズムの連続性を強調し、国に対する帰属意識の延長線上で郷土愛が述べられる。「論理的飛躍を通じたナショナリズム」であるとの指摘は厳しいが、正しいものであろう。
香山リカ「人間も社会も善悪二項対立で解決できるほどシンプルではない」。安倍氏の書籍が「驚くほど率直に父や祖父を尊敬し、その跡を継ぐことに何のためらいもな感じていない(ように見える)青年の姿だった。そして、安保闘争の渦中にいた岸信介(父)の描写などが何回がでてくることに関し、香山氏は「世間のごうごうたる避難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思うようになっていった」と分析し、「自分がおかれた状況を疑うという発想が全くないのは、非常に不思議である」と述べている。私も最近、こういう人を何人かみた。その一人はブログにも書いたがボクシングの亀田兄弟である(笑い。自分がおかれた状態を疑問に思わないことは、「なんと、すばらしい!」ことか!「言いたいやつにはいわせておけ」とか。泣かせるせりふが次々にでてくる(笑い。安倍氏はまねをしないでほしい(笑い。
いま求められているのは、心の複雑なメカニズムなどすっ飛ばした「自然」や「率直」なのか。フロイド先生も草場の陰でさぞ泣いているだろう(笑い)、と。
大嶽秀夫(京大教授)「小泉改革と断絶する伝統的保守主義の再来」。さすがに大学者だけあって、タイトルが「学術的」である。(小泉内閣の後にくるのは)「和解と合意の政治なのだろうか。小泉改革の課題はその殆どが残っているにもかかわらず既に終焉を迎えているのだろうか」「とくに、小泉内閣の『構造改革』を引き継ごうとする姿勢が全くないことは、その幹事長という要職にあっただけに注目される。」
この大嶽氏の議論は、なかなか面白いが、安倍の登場を「日本の保守化の表現」として見ている点などは、私も条件付きで同意する。
しかし、安倍氏は大嶽氏がいうように「穏健な保守主義」であると言ってよいのだろうか。「日本を守るということはとりもなおさず、その体制の基盤である自由と民主主義を守ることである」という説明から、「穏健」という形容詞を正当化する。つまり、アメリカの保守主義が自由と民主主義を守るためにそれに敵対するものに先制攻撃を加えるというラディカルなものであること対する「穏健」主義なのである。
そういう意味では、安倍のナショナリズムは「対内的ナショナリズム」であり、北朝鮮に攻められる、テポドンが飛んでくるといった他愛もないものであり、二発目を座視して容認するかどうかという文脈から「敵基地への攻撃」などが俎上に上ってくる「程度」である。大嶽氏にいわせれば、これも「穏健主義」かもしれないが、結構危ない「穏健主義」ではある。なにせ、安倍氏が知らないうちに、アメリカは北朝鮮に先制攻撃をしけている「かも」しれないのであるから・・・それと一蓮托生主義も「穏健」にはいるのだろうか?
大嶽氏は、『美しい日本へ』を伝統的保守主義の再来と印象をもったようである。そうだろうか。教育改革にしても、構造改革にしても、安倍氏の議論は、新保守主義的にカバーされているものの、新自主主義と親和的な内容が多い。落ちこぼれや、格差の是正、再チャレンジといった、構造改革への弥縫策が前面にでてくる限りで「保守主義」(正確には、新自由主義的な構造改革の破壊作用を認めた上でのそれへの手当であり、新保守主義と規定した方がよい)なのである。家族や少子化社会への対応を言ったからといって、それが従来の保守主義の思想と同じというわけではない。
●最後になるが、色々な論者も『美しい国へ』を安倍氏が書いたことを前提にして、議論をしているが、実際には、ゴーストライターがいると言われている。しかし、私は、こういったゴーストライター探しには意味がないと思っている。中西輝政氏や八木秀次氏とかいう名前が挙がっているが、私は、本来の意味でのゴーストライターというよりブレインとの共通性に注目をしている。
恐らくは文春に詳しい有田芳生氏などが言っているように編集部の協力とか秘書の協力というレベルなのではないか。田中角栄の『日本列島改造論』のように、「そんなに売れているか。じゃあ、おれも読むか」(爆)といったようなものではないだろう。むしろ、『美しい国 日本の使命―久保木修己遺稿集 』(単行本) ー久保木氏は、元統一協会会長であるが、この著書との「共通性」の方が、注目される。
むしろ中西氏や八木氏は、一定の政策レベルにおける共通性に留まるのである。
さて、総裁選は、安倍氏の一人勝ちになるようであるが、新保守主義とナショナリズムの新しい組み合わせによる日本の政治は、どういった方向になるだろうか。
ナショナリズムも、テポドンが飛んできたらとか、北朝鮮が攻めてきたらとか、自分たちが「崩壊寸前の駄目国家と烙印を押した国」を対象にして、対内的なナショナリズムを高揚させるような議論では発展性はないだろう。では、先制攻撃論や核保有論はどうか。アメリカが許さないだろう(笑い。安倍内閣の下で、日本の経済界が渇望する中国などへの本格的な日本資本の進出は、果たして促進されるであろうか。対米従属の実態を踏まえつつ、東アジアへの要求を強める財界のストレスが、おかしな形でナショナリズム発揚への通路とならないことを念ずる。
そして、反対に、格差の拡大や、教育を受ける権利の拡大、国家への自由と社会権の拡大を要求する、日本国民、労働運動の新しい発展の芽が、偏狭なナショナリズムを吹き飛ばし、憲法9条の精神を広く世界に発信できるような回路を見いだすであろうか。
面白いといえば、面白い情勢である。潮目は変わった。問題は、「変わり方」と「つかみかた」である。

