2006年08月13日(日)
カウントダウン=小泉首相靖国神社参拝と今後の政局
☆8月15日が近づいてきた。マスコミは、それぞれの立場から小泉首相の靖国参拝があるかどうか、また、その影響、ポスト小泉最有力候補の安倍晋三氏の動向などを追っている。そこで、今後の政局の展開を睨んで、小泉首相の靖国参拝問題やその意図等について、現時点で思う所を記しておきたい。予想を含むので、今後の展開も含め「はずれ」もあるかも知れないが、後知恵で色々と書くよりも自分自身の認識の点検も含めメリットもあると思われる。
【参考資料】これまでの靖国問題に関する論考
①小泉首相、8・15の靖国参拝を示唆(トピックス)
②日経スクープ「A級戦犯靖国合祀ー昭和天皇が不快感」!
③経済同友会「今後の日中関係への提言」を読む
④小泉首相の靖国参拝ー再論
⑤小泉首相の靖国参拝を考える
⑥8月15日「終戦記念日」と総選挙(これは、8月15日の「意味」)
1)小泉首相の靖国参拝は、「個人の自由」か「政治公約」か?
さて、小泉首相は今年参拝を行うと、都合6回目の参拝となる。小泉首相は9日午前、終戦記念日である15日の靖国神社参拝について「(2001年の自民党総裁選での)公約は生きているからね。守るべきものだと思っている。みなさんも公約は守るべきものだと思っているのではないか」と言明し、15日の参拝を強く示唆した。
この発言は、最近の小泉首相の靖国参拝合理化論=個人の自由という言明と真っ向から対立する。日経新聞(7月20日付)のスクープで「A級戦犯靖国合祀ー昭和天皇が不快感」という記事が掲載され、靖国参拝問題について世論の関心が一気に高まった。その際も、昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示し、その後靖国参拝を行わなくなったという報道の内容を知りながら、「参拝するかどうかは個人の自由」「適切に判断する」などと述べていた。
これまで、小泉首相は中国や韓国の靖国参拝への抗議に対し、「外交問題にしない方がよい」「内政干渉」などと述べ、参拝は「個人の自由」という認識を示してきた。しかし、元々、中国や韓国の抗議は、小泉首相発の「外交=政治問題」なのであり、他人ごとのように「外交問題にしない方がよい」という発言が現実政治の中で通用するハズもない。
ここで考えておく必要があるのは、もし、小泉首相が本当に靖国参拝問題を「個人の自由」であり、外交=政治の問題ではないと認識していたとするならば、なぜ2001年の自民党総裁選挙において、8月15日の参拝を「公約」として掲げたのかという問題である。現在、小泉首相は靖国参拝を「争点にならない」「争点にしない方がよい」と述べているが、そもそも、靖国参拝を「争点」=政権公約として打ち出したのは、小泉首相本人に他ならない。今更「個人の自由」とは片腹痛い話しである。
その点で安倍晋三氏の対応は、本来の「個人の自由」論(善し悪しは別にして)の対応になっている。つまり靖国参拝を政治(総裁選)の争点=公約にしないということである(今後どうなるかは不明ではあるが)。「慎重に対応する」「行かない」と明確に述べても是非は兎も角として、やはり争点化するわけである。従って、安倍氏の「非争点化」に対し、谷垣氏などは靖国を「争点化」する(程度の問題はあるが)ということになる。念のために付け加えれば、安倍氏の靖国問題の認識はある意味で小泉氏より「確信犯」である。それは彼の『美しい国へ』(文春新書)を読めば明確であるが、後ほど若干ふれる。
このように見てくると、小泉首相の靖国参拝問題での姿勢は、信念を貫いているように見せかけながら、一番卑劣な汚い態度ということになろう。
2)安倍晋三氏の対応(行くか行かないかについては言明しない)の意味
正直言って、この安倍氏の対応はそれなりに「考え抜いた」対応である。私は、7月20日のブログで安倍氏のことについて、次のように述べた。
「安倍晋三氏は次期総裁の可能性が高く、今回の北朝鮮制裁決議問題でもアメリカとホットラインを敷いて陣頭指揮をして対応したと言われている(本日の『日経』)。この次期総裁候補の身のこなしにも、大きな影響を与えるだろう(日経のスクープの話しー行方)。彼は、現在、靖国にどう対応するか考慮中といわれ(事前に他人には話さないと言っているようであるが、特に遺族会をどうするかが問題とされている)、その「器」も試されることになる。
遺族会等の「支持」を得るためには、安倍氏の立場からは「靖国参拝をしない」とは言えない。しかし、同時に経済界や読売新聞を含めた殆どのマスコミから、首相の参拝は批判をされている(或いは慎重な対応を求められている)。特に経済同友会や読売新聞の批判などは、これまでのスタンスとは明確に一線を画している。この面からは「参拝する」とも言えない状況になっている。
安倍氏は、事実上の総裁選出馬宣言を行い、「挙党体制」をとる方向を示した。これは、様々な意味を持っている。
一つは、小泉内閣を見ればわかるように、この間の政党助成法や小選挙区制度は、強い内閣=首相を顕在化させてきたので、各派閥とも強い候補者に乗らざるをえない。逆に言うと、乗れる候補であることを示すことによって一気に「勝ち馬」になるという雪崩現象を期待できる。小選挙区制のように、51%の支持が実際には総取りになるという寸法である。昨年の郵政選挙を振り返っただけでも、各派閥とも「後が怖い」のである。
二つ目は、自民党の内部にも靖国への様々な対応が渦巻いていることである。つまり、挙党体制をいうことによって、来年の地方選挙、参院選挙などで「地方」の要求に耳を傾ける(公共事業への対応なども含め)と同時に、自民党内の靖国を巡る対立にも慎重に対応するという「メッセージ」が込められていると見ることも可能である。
そこで、靖国問題の具体的な対応はどうなるだろうか。首相の下に諮問機関等を設置して何らかの議論を始めるような話しになれば、結論がでるまでは参拝したくても事実上「無理」という手続き論もあるかも知れないし、その他の変化球を使うことも想定の範囲内かも知れない。
中国をはじめとするアジア諸国への進出を進める経済界との「折り合い」という点は、当然に視野に入っていると思われる。この点では、小泉首相と安倍氏のスタンスは同一ではないと見て良いだろう。
安倍晋三氏の「個人の自由」路線つまり「沈黙路線」は、以上のような判断を総合したものと考えられる。それ自体は、評価を別にすれば「なかなかのもの」だと思う。4月に密かに参拝を行っていたことが判明した件も、実は安倍サイドからのリークであるという説もある。つまり、自分は靖国参拝派であるということを示し、同時に、4月に参拝したことを明らかにしなかったのは「自由意思」で行ったからであるというメッセージである。だから、今回の「暴露」は一方的に安倍氏に不利になるようなこともないだろう。事実、中国などからの強い反応はなかったようにも見える。
そこで、安倍氏の靖国問題の考え方であるが、『美しい国へ』などを見ると、幾つか「心配」になることがある。
第一は、A級戦犯の認識問題であるが(彼のA級戦犯が何を指しているかという説明は明確に間違っている。初歩的認識なのだが…)、「国内法で彼らを犯罪者とは扱っていない」という平板な認識がベースになっている。知識は「まだらボケ」ならぬ「まだら詳細」である。この点では、ちょっと首相になる「器」としては「どんなものかな~」と思わざるを得ない。
第二は、天皇の問題である。日の丸・君が代に関する認識なども辟易するが、天皇を昔から一貫して国民の象徴であったと述べている。この是非は、ここではふれないが、その「国民象徴の天皇」がA級戦犯合祀に不快感を示したことは、安倍氏にとってはかなりキツイものであろう。「天皇が参拝できるような靖国に」というスローガンは、ただちにA級戦犯の分祀論や国立追悼施設建設などに議論が流れてしまう。同時に、これは靖国問題の解決のための議論を党内外で行う「口実」にもなる(但し、結論などでなくても良い)。
第三は、アメリカの靖国観が微妙になってきている点である。小泉首相が15日に参拝を強行した場合の、最も大きなダメージはこの点にあるのかも知れない。安倍氏はアメリカべったりで、日本のためにアメリカの若者が死んでも、日本は闘っている米兵を助けることもできないと嘆いてみせている。お笑い草である。現実は、アメリカが勝手に始めたイラク戦争などに、憲法に違反して自衛隊を派兵し、日本の若者を死の危機に追いやったのである(自衛隊の是非はここではふれない)。
3)小泉首相の靖国参拝とは一体何だったのか?
経済同友会や経団連などの批判にも、小泉首相は「商売で政治に口出しするな」というような反論を行った。確かに政治理念や哲学で批判しているのではないかもしれない(笑)が、私は小泉首相の反論について「商売以下の政治」だと批判した。
最初の2001年の参拝の際には8月15日をずらして参拝した。これは色々な人が「自分が小泉首相に提案した」と言っているようであるが、この時点では、小泉首相も「中国や韓国の顔色を見た」と言えるかも知れない。
その後の「粘着」とも言える参拝については、意地になったようにもみえるが、その本質は何だろうか。
一番政治的で現実的な回答は、自衛隊の海外派兵における「死者の扱い」であろう。私自身は、たとえ海外で自衛隊員が「戦死」(現時点では戦争はやれないので、文字通りの「戦死」ではなく、単なる「殉職」になろう)しても靖国に合祀することはそう簡単ではないと思っているがここではふれない。
その問題は別にしても、「戦死者」の合祀という靖国の考え方と、現実の自衛隊員等の海外での死者の扱いがオーバーラップして来ることも避けられないだろう。小泉首相は、第2次大戦について、戦争観は靖国神社と自分は異なると述べつつ、国のために戦死した者が合祀される靖国に参拝して何が悪いか、二度と戦争しないという不戦の誓いを行っているのだと強弁した。
多くの国民が疑問に思っているのは、財界すら「もういい加減にやめてもらわないと、日本企業の海外での立場がなくなる」という批判を行っているにも拘わらず、断固として「個人の自由」を主張する首相のスタンスであろう。しかも、最近では小泉訪米の際にアメリカ議会で演説できなかったのは、この靖国参拝問題がネックになったと言われているのである。
既に述べたように、小泉首相の靖国参拝は元々「政治公約」であり、個人の信念や信仰の自由の問題ではない。実際、色々な人が暴露しているように、小泉首相は首相になる前は、参拝をしてないのである。単なる信念粘着男ならば、以前から参拝しているハズなのである。
このように、小泉首相の参拝そのものが政治的行為だと認識した上で、「なぜそこまで?」と考えると、参拝の波及効果(批判を含めて)がその「目的」であると思わざるを得なくなる。自明のことであるが、財界や自民党内外の批判は、参拝によって日本が様々な損失を被るということが前提にある。言いようによっては「亡国的な参拝」ということにもなろう。おかしな話しであるが、その「日本の損失」そのものが「目的」だと考えると何が見えてくるだろうか。
現在の日中関係は、国交回復による戦後処理問題と中国へのODA支援などがセットで行われたことを前提としている。歴史的な経緯は現時点で全面的に解明されているわけではないが、このセット解決は、田中角栄内閣(当時)一流の利益政治の一つの典型的なパターンであろう。かつては韓国への援助の日本国内への環流という話しもあったし、北朝鮮をネタにして一儲けしようという勢力すら自民党内にある。こういった日本国内の利益誘導政治=利権政治と戦後処理問題がどのように絡んでいたのだろうか。中国の靖国問題での批判は、何回も指摘しているように、極めて単純であるが、同時にこの戦後処理と中国へのODA支援等の援助と絡む政治的な問題であることも想像がつく。
既存の自民党政治の打破=自民党をぶっ壊すというスローガンは、既存の利益政治を打破し、グローバル企業を支援し、市場原理を一層重視する新自由主義の路線であった。靖国参拝が、日本の大国化というもう一つの柱と密接に関係するならば、この新自由主義構造改革の方も、何らかの「関係」を持っていると見てよいだろう。
先の総選挙によって、利益誘導政治としての自民党の姿はかなり変貌した。同時に、小泉内閣の最後の「骨太方針2006」などは、経済財政諮問会議の「独走」ではなく、自民党との連携が重視されたと指摘されている。小泉首相の「自民党をぶっ壊す」という姿勢は、まだ続いているのだろうか。そして、その一環として、日中関係からの利益誘導の打破も意図されているのだろうか。小泉首相の頑なな参拝の政治目的について全面的に解明されるのは、もう少し時間が必要なのかも知れない(アメリカと靖国問題に関しては後日ふれたい)。
4)靖国問題の解決とは何か?
最後に簡単に靖国問題の原点について触れておきたい。当然ではあるが、中国や韓国が批判をしないような(つまり首相が参拝しない)状況になれば、靖国問題が「解決」したと見るのは余りに皮相である。そんな簡単な問題ではない。
靖国史観と言われる第2次大戦合理化論=侵略戦争美化は、戦後処理によって靖国神社が一宗教団体となったことによって可能なことであった。サンフランシスコ条約も、現行の憲法も否定するような議論は、国の施設であれば無理な話しになる。つまり、どうでもよい宗教団体の「戯れ言」として侵略戦争否定を述べているのである。名をすてて実を取ったということも、場合によっては可能であるが。
靖国参拝を巡る裁判は、形式的には原告の負けであるが、首相の参拝行為について憲法の政教分離の視点から「違憲」であるとしている。裁判の内容についてはふれないが、靖国問題を「政教分離」問題として議論することも皮相であろう。靖国問題と裁判闘争の「戦術」の問題は峻別して議論すべきであろう。
このように考えると、たとえ内外の批判を考慮して、公的な追悼施設を建設しても、或いは靖国神社の総代会が全員一致でA級戦犯の「分祀」を認めたとしても、侵略戦争美化の靖国史観が終焉するわけでもない。
靖国神社のあり方について議論すること自体が、政教分離に反するという議論も根強く存在する。だから、「分祀」論などは、靖国神社に「勝手に」やって貰うという話し以上にはならない。しかし、「英霊にこたえる会」などが要求してきた、三権の長の参拝や天皇の参拝などは、A級戦犯合祀不快論(昭和天皇の考え)によって窮地に陥った。天皇の考えを前提として、参拝を要請するとなると、A級戦犯の合祀をやめる必要が出てくるからである。
戦後史の研究によって、靖国神社の戦後処理の経過もかなり明らかになってきたが、宗教法人以外の選択肢もアメリカは示唆していた。財産の処理なども複雑な経緯がある。こういった縺れた糸をほぐすことは至難の業であるが、解決に向けた「原則」は存在する。 それは、戦争合理化史観を日本政府が全面的に否定し、国民的にも克服して行くことを前提とする。その上で、素朴な祖先信仰や戦争で犠牲になった父母兄弟、友人などを人それぞれのやり方で追悼するバリエーションを示すことであろう。
分祀できないかとか、国立の追悼施設を建設できないかなどの議論を疲れるまでやり、自然休会に入るのも悪くないだろう。時間のかかる問題ではある。

