2006年11月10日(金)
ニカラグアでも左派=サンディニスタ勝利!
●11月7日の中米ニカラグアの大統領選挙において、サンディニスタ民族解放戦線党のオルテガ元大統領が38.9%の得票率で当選を果たした。サンディニスタ政権が崩壊してから16ぶりの復帰、再当選であった。
私は中南米の政治情勢に強いわけではないが、このオルテガ氏とは、かつて彼が大統領に就任した後に、来日し、意見を交換したことがあることや、「選挙」を通じての「落選」と「返り咲き」という、民主主義の視点からも強い印象をもっており、あえて、感想を述べることにした次第である。
サンディニスタとは、1920年代から30年代にかけて、アメリカとの闘いを指導したアウグスト・セサル・サンディーノの名前に由来をしており、サンディニスタは、運動から始まり最終的には「党」として1961年のキューバ革命の影響をうけ、確立をしていった組織である。
この組織が一躍有名になったのは、穏健的左派指導者であったチャモロ氏が、当時のアメリカ傀儡政権に暗殺をされ、一気に軍事的な攻勢をかけ主導権を握ってからであった。しかし、その後の展開は、武装闘争というより(これ自体、アメリカの傀儡ゲリラ組織などとの闘いが中心であったが)、大統領選挙という「民主的」な手法によって、ダニエル・オルテガ氏が大統領に就任してからであろう。
サンディニスタは、合法的な手段によって政権を獲得し、様々な社会改革を進めたが、一つは路線の違いによる分派の発生(実際には、革命政権誕生後に、官僚組織が異常な発展をし特定の路線と結びつく利益誘導政治に帰結したこと、これによる財政的な困難が増大し、同時にアメリカによるゲリラ組織の活動強化に晒されるという「二重苦」)によって、大統領選挙で野党に転落するという顛末を辿った。
このプロセスでは、旧ソ連などに代表される「官僚的運営」「国家所有重視の社会主義建設」などの影響もあり、公務員数が大膨張し、党内の分裂も激しさを増しつつ、崩壊をしていったのであった。
今で言えば、「大きな非能率的な政府」と「官僚的運営=利益誘導」による「大きな政府」といったパーキンソンの法則を地で行くような事態であった。様々な改良が試行されたが、克服までには到らず、ゲリラと合法活動による反政府運動によって幕を閉じる経過を辿った。私どもは、コーヒーの輸入や国内販売などによって、随分と色々な支援を行ったのであるが・・・
●私は、敗北後のサンディニスタの活動に注目をしていたが、大統領選挙というあくまでも合法的な路線を継承しつつ、政権崩壊の「総括」を官僚主義や、旧ソ連への依存など、特定の利権集団が形成されたことへの「反省」などがだされ、中南米の「革命運動」としては、ある意味で特異な方向を指向したことに興味を覚えたのであった。旧ソ連崩壊以前から官僚主義の見直しなどに着手するという発想はなかなかのものであったと思う。
実は、1985年に大統領になったダニエル・オルテガ氏が日本の民主団体の招待で来日した際に、先に述べたように、偶然にも共済のホテルに招待して食事を共にする(温泉なども)という経験を得たのであった。当時は、まだ40歳になるかならないかの時であり、中南米の指導者の「若さ」と、日本の明治維新の時代の指導者の「若さ」がオーバーラップし、革命が起きるような国の指導者は、年齢が若くても、政治的に実に訓練されている(精神年齢の高さ)ことに驚いたものであった。
日本でも岩倉具視の欧米視察団の平均年齢は30歳程度であり、昔の人間の「すごさ」に改めて思いをはせるといった感じであった。
●さて、オルテガ氏が大統領に就任してからアメリカは干渉を強化し、「コントラ」という反共ゲリラ組織を支援(実際には、指導、訓練も)し、国内のゲリラ活動が進むという事態になった。この中で、合法性を維持しつつ、社会保障の拡充や貧困の克服と闘うことは至難の業であった。
こんな時に、オルテガ氏を日本に招待したお礼?として、サンディニスタ政権から日本の団体に「招待状」が届いたのであった。そして、私の所属していた組織にも招待があり、「お前、ニカラグアに行け」というお達しがあったのである。
実は、そのころ、私は賃金や社会保障を担当し、責任者であったので8月の人事院勧告の時期や、「確定闘争」といわれている賃金闘争(人勧の実施を中心にした賃金闘争)の時=年末の招待には「こたえられない」(平たく言って、このような時期に任務を中断して、海外に行くことは気が進まない)と断ったのであった。当時、「コントラ」の攻撃で首都マナグアでは、銃弾が飛び交う情勢で、それが怖いから「ビビッタ」のではないかとか、北欧なら行くと返答したのではないか、色々と痛くもない腹を探られ、嫌な思いをしたことを覚えている。黙って行っておけば良かったのかもしれないが、変に、自分の任務に対する自負と責任があり、これがアダになった。
このことと、時期的に少しずれるが、北朝鮮から組合組織に直接招待状が来て(岩井明氏などが北朝鮮との関係が深かったこと<当時>が影響した)、これにも事務局長として参加する予定になっていた。実は、当時は朝鮮総連を通じないで、直接北から招待されるといった例はなく、珍しいことだと言われたが(ラングーン事件などの後のことであったが)、これは向こうから何が気に入らなかったか(察しはついているが)「お断り」の手紙がきて、話しは終わりになった。一生懸命北朝鮮について勉強したことが全て無と帰した瞬間であった。
この後もアメリカの医療事情調査団の話しなども、事情があって断ってしまい、これらが私の「トラウマ」となってしまった。海外には何回となく行っているのであるが、組合などの組織として派遣されるということがその後1回もないのである。
それで、30年間労働運動をやってきて、「組織の金で海外に行ったことがないのは、私ぐらいだろう」と「自慢半分」(たまたまの「トラウマ」なのだが)に言うようになった(笑い。実は、たまには声をかけてもらいたいと思っているのであるが(笑い。
●日本に来たオルテガ氏は「郷にいれば郷に従え」というようなことわざが向こうにもあり、それを引用して、日本の「温泉」(集団で裸になる<笑い)に入り、悪魔の魚といって、絶対に口にしないという「イカ」なども、こちらが知らないために強引に食べさせ(食べてしまった!)てしまったというようなこともあった。
当時、ニカラグアでは事実婚が多く(現在のスウェーデンなどのような感じ)、子どもができると籍を入れるかどうか考えると、オルテガ氏が講演の時に話すと、女性から一斉に拍手があったことも覚えている。
今後もアメリカの様々な干渉や、国内反対勢力の活動などで、厳しい政権運営を強要されるとはおもうが、「小さな政府」ではない「中南米的福祉国家」「官僚主義を克服した効率的・公正な政府」を志向した運動が、かなり重要なポイントになるだろう。
新自由主義的な政策に反対し、アメリカが牛耳る国際機関との関係、中南米全体としての左派政権の団結などが重要になると思われる。そういう意味で、アメリカは今回の共和党の「歴史的大敗北」も含めて、歴史的な試練に晒されることになる。民主主義的プロセスを通じた「革命」と福祉国家の形成を志向した運動体の将来に大きな関心を持っているところである。
本日はここまで(つづく、カモ知れない)。

☆写真は、美瑛町の丘の上からみた十勝岳です。そのずっと左の方には大雪山山系が見え、すばらしい眺望です。

