2006年03月02日(木)

地方制度調査会「最終答申」=道州制について

●2月28日に上記答申がだされた。道州制についてという内容である。
 自治メルマガ038号に「道州制特集」を掲載したので、その一部を紹介しつつ、すこし道州制について、考察してみたい。

以下、メルマガの一部を引用。(メルマガには、更にくどくどと色々かかれています<笑い。)
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●道州制と小泉構造改革

★小泉構造改革と道州制の関係について、若干の議論をしておこう。
 構造改革とは、狭義においては資本の競争力を強化するための規制緩和や資本の「自由度」の強化である。そして、資本の負担を軽減・緩和するものである。

 そして、同時に、資本に無利益な支出をトコトン削減する。そして、こういった方向を現実のものとする「体制」づくりが目指される。 社会保障の削減や地方の軽量化=地方歳出の削減と民主主義の減量化がめざされることになる。当然、所得の上下分解の進行、DVや犯罪の増加、自殺、ホームレスの増大など、社会的「負」の側面が強まるが、これを治安強化や教育の「引き締め」によって乗り切る方向も目指される。

 こういった「社会体制」の再編が広義の構造改革になる。構造改革が攻撃するのは、福祉国家(日本の場合、医療など一部を除いて、福祉国家ということはできず、擬似福祉国家的な開発主義国家がこれに代わる)への攻撃であり、国家体制としての中央集権的行政への攻撃となる。 地方分権は、地方自治の発展を目指す限りにおいて、民主主義の発展に寄与するが、単に中央集権的福祉国家への攻撃に「堕する」時、それは、最悪の住民生活破壊に結実し、地方自治を逼塞させる。

 自己決定や自己責任論が、最近では「地方の自由度」(なんでも好きにカットさせろといわんばかりの議論もある)となり、21世紀ビジョン懇談会では「自由と責任」になった(笑い)。
 国の責任や地方の責任を、個人の責任に転嫁・分解し、強い個人=市民の上層確立による支配統合路線と合致する。

★道州制の導入は、こういった構造改革のめざす国家像と不思議なほど合致していく。歳出削減の「切り札」であり(都道府県をだるま落としのように、スパッと切捨て、国家財政も地方支分部局だけではなく、中央の役割もスリム化する)、社会保障や福祉を削減する絶好の機会となる。

 地域の経済格差の拡大も「自立」や「自己責任」の名の下に合理化され、地域間の財政調整は、道州間の調整になる。
 道州間の調整は、住民生活の「ナショナルミニマム」の保障とは距離があるから、現行の地方交付税制度のような「どこでも、だれでも、この程度は」とというスタンダード的な発想は拒絶される。

 住民生活の擁護は「補完性原理」によって、市町村の責任となる。規模能力のない市町村は、「非自治体化」される危険性が依然として存在し、財政危機が深化すれば、「自己責任」によって破綻処理が想定されるようになる。

★このような「状況」は、かならずしも「予想による地獄絵」ではなく、現実のものとなる可能性がある。

 今回の道州制論では、憲法論議は回避されているが、自民党の新憲法草案をみれば、地方自治の再編は憲法改正の重要事項として意識されている。「三位一体改革」は税源移譲=地方の自己決定の拡大という「餌」によって、地方歳出を削減・再編し、福祉国家否定型の地方制度に再編する方向に帰結しつつある。国の財政フレームを前提として「何をカットするか」を自主的に決めるなどというのは、地方自治でも何でもない。

 このような状況は、かなりの国民に見えてきている。しかし、地方分権という「目標」は、いまだに「輝き」を失っていないように見える。この地方分権「幻想」の払拭が、今後の地方自治発展=ある程度の中央集権を前提にした福祉国家(新しい福祉国家)への道に通ずる。「小さな政府」ではなく、「大きな効率的な政府」を目指す必要があるのである。税源などは、いくらでもある。
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●道州制をめぐる情勢の特徴は、全国知事会など、かつては組織を上げて反対してきた勢力が、賛成に回っていることである。濃淡はあるが、毎日新聞等の調査でも47人中、27人が賛成。明確な反対は福島県の佐藤知事と、兵庫県の井戸知事の二人だけである。
 
 道州制が都道府県の廃止という方向を含んでいるにも拘らず、反対しないというのは、一体なんなのか?

●全国知事会がこれまで発表している「都道府県論」を歴史的に振り返ると、1995年に中核市ができた時の自治法改正の後に『都道府県制度論』を全国知事会(地方自治研究会)が発行している。既に、自治省(当時)が、「自治体リストラ素案」などを出して、これまでの減量経営路線を質的に飛躍させようという時代に出されたものである。ここでは、道州制には明確に反対をして、都道府県の位置づけを明確にする必要があると主張していたのである。その後、『地方分権下の都道府県の役割』(2001年)では、「メルクマール論」が出されたが、都道府県の役割については強調していた。

 しかし、『地方自治保障のグランドデザイン』(2004年2月)になると、道州制への「期待」のようなものが広がり、色々な制度から選択できる「ホームルール」制度などが打ち出された。確かに、都道府県という47の自治体の規模・能力の較差は相当に大きいので、柔軟な制度を考える必要はあろうが、ともかく、道州制については、都道府県の意義を明確にして反対するという従前の態度から、明かに変化をしてきたのである。

●この「自己否定」ともいうべき考え方は、道州制が「地方分権」や自治体の「自己決定」「自由度の拡大」という方向に合致しているという認識が、広がっているからだろう。また、今のままでは、財政的に「もたない」という考えもあるかもしれない。
 地方分権の魔力というか「幻想」からいつ目覚めるのか、甚だ心許ない状態ではある。

 全国知事会は、勢い余って憲法改正に便乗して、前文に「地方分権」を書き込むことも提起しようとしている。自民党の新憲法草案は、地方自治の部分の書き換えにかなり執着しているように見える。

 これは、「この国のかたち」を変え、構造改革の進展に合致する、つまり社会保障の切り捨てや、地方歳出の合理化、貧しくとも「自立」する「地域」を目指すためには、どうしても地方制度を再編する必要があるという認識である。

●このように言っても、道州制特区をめざし、今国会に法案を上程する「予定」だった北海道においても、議論は自民党の熱意にも拘らず混迷を深めている。自民党も北海道・高橋知事も「乗り気」であるにも拘らず、なぜ、混迷しているか。
 理由は難しいことではない。北海道や沖縄は、一つの県で道州を目指す点で共通しているが、これは沖縄、北海道開発庁が存在してきたように、補助金の「嵩上げ」など、他の地域を上回る「国からの財政調整」や支援を得てきたことが背景にある。
 北海道にある、国の地方支分部局を「道」に下ろすことを要求している反面、北海道開発局の予算や人員を道州としての「北海道」に下ろすことは、負担が大きいし、また、上記の補助金嵩上げが維持できるかどうか、心許ないということである。
 道州制は、地域に「自立」を求めるものであるが、道州制を要求しながら、「自立」とはかけ離れた「補助金等の維持」を期待すること自体に無理があるわけだ。しかも、北海道では、道州制の「前提」になる「自立」した市町村=市町村合併による規模・能力の拡大も、極めて遅れている。
 多少の権限や財政の付与と引き替えに、財政危機を背負わされてはたまらないという、アンビバレントな感情が蔓延している。

●まずは、都道府県の意義や存在理由について、様々な角度から議論を深める必要がある。「中二階」なら必要ないのか、また、市町村との関係で改善すべき点はないのか、広域行政の単位として本当に適切ではないのか、等々。
 自治体労働組合を含めた、自治体関係者の英知を結集して、議論を深める必要があるのではないか。