2005年03月20日(日)
市町村合併「中間決算?」の視点②
前回、『都市問題』3月号の特集における菅沼栄一郎「住民が表舞台にー平成合併を追う」を素材として検討をした。
そこで批判的にふれたのが、市町村合併総括の視点としての「自治体の階層的再編」問題であった。合併した市町村数の行方それ自体も、問題ではあるが、明治や昭和の合併問題と比しての特徴として「階層再編」問題を押さえる必要があるという論点であった。
もう一つ、重要な論点が菅沼論文には欠けている。それは、今日の市町村合併を、単に「自治体の数」や広域再編として捉えるのではなく、自治体の質の変化、すなわち「民営化・市場化」の動向として把握する視点である。もちろん、短い論文に「欠けている」とか「足りない」という批判は筋違いとの見方もあろう。そこで、とりあえず、私の場合、現在の自治体の動向を「自治体構造改革」として把握し、広域再編と民営化・市場化の一体的な進行として見ていることを強調し、ここではこれ以上述べない。
なお、この「民営化・市場化」をどうみるかについては、4月発行の『自治と分権』誌の拙論をお読み頂くとして(この間のブログで、若干書いてきたが、断片的であり、まだ本格的に論じてはいない)、階層再編の問題について、もう少し述べておきたい。
今日の広域再編の「背景」を論ずると、必ず出てくるのが「少子高齢化」であり、また、自治体の「生き残り論」である。規模の拡大によって、「破綻」を先延ばしするといった、「消極的」な議論から、グローバル国際都市の形成といった「元気」な議論まで、バラエティに富んでいるが、多少とも規模の大きな自治体を創造するという議論においては、「グローバル」化における「地域競争論」が登場してくる。
このグローバル化における地域間競争の「呪縛」を、どうやって克服するのかが、労働運動・市民運動・政治運動等の課題になっていると言って大きな間違いではないだろう。資本のグローバル化によって、国民国家の「境界」(ボーダー)が希薄化し、法人に重い税を課せば、「国外」に逃げてしまうという「単純」な議論(法人の最適立地)によって、「租税引き下げ競争」が行われ、従来の民主的税制の基本といわれた「応能負担課税」が時代遅れになったと主張される。
大前研一の『地域国家論』などは、それを戯画化して極限にまで推し進めたものであろう。経済的な新自由主義(天皇も保守もでてこない、経済「合理的」な地域国家のすすめ)として理解をしておく必要があるだろう。もっとも、新自由主義にとって、「大国化」「国家権力の活用」というアイテムは必須のものであり、このペアを一対のものとして理解をしておくべきなので、大前の議論は、ナイーブであると同時に、あまり「憎めない」議論なのかも知れないが・・・
さて、資本のグローバリズムに対抗主体を形成するといった議論も、この数年「形」になってきた。一番リアリティがある大きな運動は「世界社会フォーラム」であろう。貧困問題への視点が弱いとか、EUでは国家レベルで参加しているので、アメリカの対する「対抗」戦略だとか、色々と批判があるのは事実である。しかし、そう言った流れが参加者を縛るわけでもなく、自分たちの議論を「グローバル化」し、言説を彫琢していける可能性も持っている。
アメリカについての議論も、「帝国主義」の復活論や「民主主義の帝国」、あるいは「帝国」にはなれないといったネグリ=ハートの議論など色々と出てきている。私自身については、現在の国際情勢のとらえ方として、アメリカを覇権国として階層的な「帝国主義」同盟が形成され、単純なレーニン型の帝国主義とは異なる姿になっていると理解をしている。
この点で、渡辺治氏らの議論に親近感を持っているが、主体という点からも見ても、諸議論が一つの収斂方向を示しているように思われる。単純に覇権国なき国際秩序(グローバルガバナンス)に向かっているという「おめでたい」議論にはつきあえないが、A・ギデンスがいうような「グローバル化時代における権力の変化」を上方統合と下方拡散という概念で説明する議論には、一定の真実があると思われる。日本に即して言えば、新自由主義的な「地方分権」とこれに対応する「大国化」=ある種の中央集権、という過程で捉えることが出来よう。
しかし、国民国家がグローバルな国際秩序を「帝国」として形成できるかというと、これには「ノン」と答えざるをえないだろう。この点で、ネグリ=ハートのいうように、アメリカはグローバルな主権形態としての「帝国」とはなりえないとも言えよう。
大分話しが課題とずれてきたが、話を戻すと、日本が進めている自治体の再編は、グローバル都市の形成という方向を含んでいるのであり、これは国際的な「圧力」を受けたものと理解をすることが必要である。内在的な、財政合理化論や「分権の受け皿」などという皮相な議論では、到底その本質を理解することはできないであろう。
ともかく、地域を統合しつつ、その「核」を(展望は不明だとしても)育成し、東京圏・大阪圏・名古屋圏などの「グローバル都市圏」を形成していくことに、今日の自治体再編の中心課題があると言ってもよいだろう。これが日本のグローバル企業の蓄積様式と合致する方向としてイメージされている。その反射として、「地方」は切り捨てられる。その中で、都市も地方も「上方統合、下方拡散」の結果としての「階層分化」、社会的なマイノリティの蓄積が生じてくる。パノプティコン(監視社会)化や教育基本法「改悪」、「自治体安心条例」などがその底辺の破綻を繕うことになる。
欧米の都市で先行しているように、ウイーン、ハーグ、パリをはじめ「外国人」の人口が3割、4割を占めるグローバル都市の増大が進行している。こういう空間の中で、マイノリティの「不可視化」の進行があるが、同時に、民衆のグローバリズムも進行する。こういったものの、一つの集約が「世界社会フォーラム」となっている。東京圏などを見ると、こういった構図とは無縁のように思われるが、既に日本経団連などは「移民」労働力への期待を隠していないのである。
こういった問題を考えて行くと、日本は対米従属で、「アメリカの牛を食えと言われれば食い、自衛隊を出せと言われれば、どこにでも出す」国になるのか、東アジアの中で「名誉ある平和主義」を打ち出して、その存在感を示すのか、地域間国際競争の「大枠」が規定されると言ってよいだろう。一般論で、グローバル化における地域間競争論などを論じてみても、牛の「糞」ほどの役にも立つまい。どのような「グローバル化」を推進するのか、その「質」が問われていると言い直してもよいだろう。
都市の内部構成を見ると、グローバル化と平行して、世界経済の構造変化によって、金融・対企業サービス等が先端産業として台頭し、グローバルな知識と情報リテラシー(information literacy )を駆使する上層部と、「異文化」をもつマイノリティ、下層部に分裂をして行く(サスキア・サッセン『グローバル空間の政治経済学』参照)。賃金は「能力主義」的(労働の質的な規定)に再編され、上下の格差はとてつもなく拡大し、「賃金とは労働力の再生産費」といった、従来のマルクス主義の賃金概念を根底から破壊する事態が進行する。
新たな市場秩序の形成と維持が「覇権国」の最大の「任務」となる。イラク戦争は、「石油」のための戦争と単純にいえるわけでもなく、言わば「世界市場システム」の攪乱や破壊を許さないという「強い使命感」が太い線で貫かれていた。これへの「対抗」は先に述べた通り、民衆のグローバリズム(反グローバリズム)であると言ってよいだろう。
こういった、グローバル秩序・都市内の「抗争」や「対抗」が、世界大で集約されていく時代に入って来たと言えるのであろう。

