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    <title>主任研究員備忘録-行方久生</title>
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    <updated>2007-09-12T20:16:28Z</updated>
    <subtitle>地方自治＝自治体論・財政問題・政治問題・労働経済・科学的社会主義・憲法問題・その他</subtitle>
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    <title>不思議な辞任ー安倍内閣の末路</title>
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    <published>2007-09-12T18:05:45Z</published>
    <updated>2007-09-12T20:16:28Z</updated>
    
    <summary>●新幹線で東京に向かう直前に「安倍首相辞任」のニュースが流れた。臨時国会の所信表...</summary>
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        <name>行方久生</name>
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            <category term="政治問題" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://jilg.jp/blog2/">
        <![CDATA[●新幹線で東京に向かう直前に「安倍首相辞任」のニュースが流れた。臨時国会の所信表明演説を行って、参院選挙での「大敗」について反省をしたものの、「テロ特措法」の延長に政治生命を賭すると、大見得とも脅しとも取れるような発言をしたばかりであったので、「なにか新しい事態が発生したのだろうか」など思いつつ列車に乗り込んだ。
　移動中は殆ど新しい情報などはなく、上野に着くのが待ち遠しく、なにか推理小説のトリックの解明をまつ気分で列車を降りた。一瞬、いま書いている原稿(既にゲラになっているが）には「安倍内閣における道州制の位置」などの一文も含まれているので、「このままで行けるかどうかも判断が必要かな」などと思いつつ、ネットニュースをザッと眺めた。

●毎日新聞のニュースで、辞任表明の「全文」と「一問一答」を読んだのであるが、読んだ後に益々疑問が膨らんでしまった。内容が支離滅裂であることは「いつもの通り」なのであるが、アメリカに対し、自衛隊のインド洋における給油活動を停止してはならない（対米公約）、つまり「テロ特措法」の延長が自分が首相をやっていると円滑に行かないというのが「辞任」の理由らしい。
　しかも、「いつ決断したか」という質問に対し、小沢民主党代表に党首会談を申し入れたが実現出来なかったのでと述べている。辞任発表の当日だという。子どもの使いのような話しではあるが、参院選の大敗によって民意を代表していないと言われているので、自分が首相をやっていると党首会談も出来ないというような説明をしていた。全くもって不可解である。
　安倍晋三の「頭の中」はどうなっているのか。これは政治の問題ではなく「解剖学の対象だな」などと思いつつ、他のニュースに目をやると、なんと小沢民主党代表は「党首会談を申し入れられた事実はない」と述べているではないか。しかも、「自分は40年間、政治の世界にいるが、こんなことは初めてだ」とのべ、安倍首相が政権を放り出したことを「無責任」と口を極めて非難しているではないか。

●おぼろげに、分かってきた辞任の理由は、①アメリカとテロ特措法の延長を約束してきた②従って、一身を賭してこれを実現する③そのために参院選挙での大敗を反省して、民主党とも「腹を割って」一致点を探る？→党首会談→実現せず→従って辞任という「筋書き」だということである。安倍首相自身が語っているのは、これがすべてである。「局面の打開」などいう表現もでてくるが、要するに党首会談もやれない首相では「局面を打開できない」と言っているだけなのである。驚くべき「政治家」である。
　また、辞任の理由には、参院選挙で大敗した原因である「年金問題」であるとか、格差の拡大や地方の疲弊などは一切出てこない。参院選挙で、国民には全く問うていないアメリカの戦争支援＝給油活動の話しだけなのである。
　これは一国の首相として、全くの本末転倒、思い違いも甚だしい由々しき事態であろう。マスコミは、現行法の継続ではなく、新法を出すにしても、参院で否決されて衆院に回り再議で三分の二の賛成で可決するのはかなり困難であり、また時期的にも間に合わない可能性が強いと報道していた。しかし、これまでの安倍首相の政治姿勢として、民主党を抱き込む方向を示しつつも、衆院の圧倒的多数を活用して事態の打開を図るのではないか、というのが一般的な見方であった。それが、党首会談を断られたという「だけ」で泣いて帰ってきてしまったのである。これはもう、殆ど病気の世界であろう。

●ここから「どうするか」を考えるのが普通の「政治家」というものだろう(笑い）。党首会談(実際に申し入れたのかどうかすら不明なのだが）を断られた程度で「やめる」というのは、どこかのブログに書いてあったが、小学生が「今日はお腹が痛いので学校を休む」というレベルである。
　しかも一方の党首は、「党首会談など申し入れられていない」と公式に発言をしている。更に、不思議なことは麻生幹事長は「3日位前に話しがあった」「健康問題が原因」などと記者会見で述べているではないか。辞任表明の直後のニュースでは、ある週刊誌が「脱税問題」で記事を書くが、内容に関する回答を求めていて、その期限が丁度2時だったという話しまで流れていた。
　辞任表明の一問一答などを読んでも、聞いている記者が納得していない様子がありありと見えるのであった。だから、健康問題とか16年も前の相続にまつわる問題などが「取りざた」されることになるのであろう（これ自体、実際の所は不明であるが）。

●さて、問題は「その先」、今後のことである。あるマスコミは、マスコミ界の大御所(多分、読売新聞のナベツネのこと）が、谷垣、津島、加藤紘一、古賀氏などを呼んで会合を持ったなどと報道していた。これは辞任表明前のことであるが、安倍ではもう持たないので、どうするかという相談だったらしい。そこで、見てきたような話しになるのであるが、福田康夫で一気に事態を解決したいと町村派（森喜郎元首相）に持ち掛けるというような話しになったというのである。
　この辺の話しは、どの程度信用できるのか不明であるが、安倍内閣の閣僚の不祥事が暴露されるプロセスを見ると、かなりの時間をかけて調べないと出てこないような情報も含まれている。山形出身のエンタケ（自称）農水相の農協への補助金がらみの問題などは、地元でも霞ヶ関でも知れていたことであろうが、安倍氏はこれを知らなかったのか。不思議な話である。しかし、暴露される事実は、かなりの調査が入ったものがいくつか含まれている点には注意を要する。つまり、支配層内部の矛盾・軋轢の存在である。総合すると、安倍辞任に向けて、かなりの「包囲網」が出来ていたのかもしれない。安倍には、党内調整が出来ているようで、出来てないというのが実態であったような気がする。

●安倍首相は、辞任表明の際も政治の空白をつくらないために、できるだけ早く総裁選挙を行って欲しいと述べていた。しかし、安倍首相が辞任した理由が、説明の通りであるとすれば、自民党の政権「たらい回し」は馴染まない。衆院を解散して、自衛隊のアメリカの戦争支援行動の是非＝テロ特措法の是非を巡って、民意を問うべきであろう。辞任の理由として、これしか挙げていないのであるから、当然の話しになろう。
　また、国民の立場から見ると、安倍首相が辞任の理由に敢えて挙げていない、国民生活に関わる諸問題もまた「争点」になるべきであろう。改憲の姿勢や消費税なども当然に争点である。
　つまり、安倍首相が辞任した後、誰が総裁になっても、その内閣は国民に対して説明責任を果たしていないことになる。

●こうった状況の下では、選挙管理内閣のような性格のもの以外はナンセンスになろう。
自民党の崩れ方は、ある意味不可逆的なものである。これに代わる「民主党」の方も、本来の新自由主義的な政策をペンディングして農政であるとか「生活重視」の姿勢を打ち出している。これ自体は結構な話であり、忠実に実現をして欲しい課題も多い。しかし、自民党が都市部でそれほど崩れていない現状や、新自由主義政党に「脱皮」していること、また、安倍内閣の推進力には、新保守主義的な部分が大きな存在になってきたことなど、政治力学を総合すると、日本における「二大政党制」がどういう形になっていくのか、歴史的な帰路に立っているように思われるのである。
　政界の再編(自民、民主をガラガラぽん）という方向もあり得るし、現在の野党が一致点で共闘して、それなりの成果を挙げるという「進歩的な」結果になる可能性もある。

●そこで、強調したいことは、「二大政党制」が確立して、どっちも同じであるとか、日本では「二大政党制」は定着しないとか、一般的に民主党は自民党より「ベター」であるというような「形而上学的」な解釈論に陥らないことである。安倍内閣が参院選挙で改憲を前面に打ち出し切れなかったのは、勿論、「消えた年金」などの直近の政治的問題で世論が形成されたこともあるが、なんと言っても3年にわたる「9条の会」などの憲法擁護の運動の「成果」という面が無視できないのである。
　つまり、大衆闘争、国民の要求に基づく運動が「まず」あり、これが複雑に入り組んで、今日の政治状況を形成しているという認識が重要なのだと思う。黙って見ていても、「落ち着くところに落ち着く」だけになるだろう。麻生か福田か、谷垣か、はたまたクレージー小泉の再登場か、などの議論はどうでも良い話しなのである。まあ、田舎芝居としては面白いかも知れないが･･･（未完というか、未定稿）
<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070912.jpg" width="400" height="300" alt="香港鯉魚門辺りの海鮮料理屋＝怖い所"></p>]]>
        
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    <title>日経グローカル記事「学長に前文科省次官、山形大学大揺れ」</title>
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    <published>2007-08-31T06:02:32Z</published>
    <updated>2007-08-31T07:16:43Z</updated>
    
    <summary>●地方自治・自治体の関係者以外はあまり読んでいないと思われる「日経グローカル」と...</summary>
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        <name>行方久生</name>
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            <category term="公務員制度・公務労働" />
            <category term="社会評論" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://jilg.jp/blog2/">
        <![CDATA[●地方自治・自治体の関係者以外はあまり読んでいないと思われる「日経グローカル」という専門誌に、私が勤務する山形大学の話しが出ていたので、これを紹介しておきたい。

　『日経グローカル』（2007年8月20日、82号）の記事は、「霞ヶ関レーダー」という、デスクの質問に記者が答える形式の、ちょっと暴露的な色彩の強い記事である。表題は、タイトルに記したように「学長に前文科省次官、山形大学大揺れ」といういかにもマスコミ的なものである。サブタイトルが「謎深まる“火中のクリ”の立候補」「大学再編など生き残りも苦難の道」となっており、関係者にとっては問題意識を共有できるものになっている。

　さて、１ページの短い記事なので、全文引用しても大したことはないが、著作権の問題もあるので、要点だけを拾って、私の「感想」（学長選挙問題については、今後も様々な視点から「総括」が必要であり、現時点で全面的に分析する能力・立場にないことが主要な理由だが）を述べておくことにしたい。

　まず、デスクの質問として「国立大学の山形大次期学長に文部科学省の結城章夫前次官が選出されたが、『中央からの天下り人事だ』とする学内の騒ぎはまだ収まっていないようだね。」と話題を振っている。新学長は9月1日付けの就任であるが、地元の山形新聞（編集長が学長選考委員会の委員になっており、何かと先行した政治優先の報道が目立ったが）に、今回の選挙において、最下位で落選した農学部長が新理事になるなどの報道もあり、今回の学長選挙の「裏」の事情なども、追々解明されていくように思う。従って「大揺れ」という表現が正確かどうかは分からないが、「学内の騒ぎはまだ収まっていない」という指摘は、あながち「外れ」とは言えないだろう。

　さて、「A」という記者の質問への回答に、「反対派（「派」というようなものが形成されたとは思えないがー行方注）が問題視しているのが選考方法」と指摘し、「国会開催中は次官クラスが辞任できないの慣行を考慮して選考日程を送られせた」「学長選考等規則を一部改正、教職員が学長候補者に投票する票数を非公表にした（今回は経過措置で公表）」など、首をかしげたくなる措置に反発する教職員も多い、と。
　この指摘は、正しいだろう。「多い」というか、医学部を除く5つの学部の反対決議もあがったものであり、誰が学長として適切かという判断以前の「民主主義」の問題であろう。グローカル誌の判断も、これらの措置に関する「反発」は当然という内容になっている。当たり前の話しではある。

　そこで、記事(質問、回答）のやりとりは、何で「次官が国立大学の学長か」という問題に移行する。「B」という記者の説明では、次官のこれまでの「再就職先」は、放送大学学園理事長、日本学術振興会、初代ユネスコ政府代表部大使（直近の次官から３代前まで）だということである。放送大学については、現在は政府の税調会長などを務めた石弘光氏が就任しているが、こういった従前の「ポスト」と無関係に、国立大学の学長という線が、どこから出てきたのか、というのが記事の問題意識である。
　これには共感できる、というか、実に不思議な感じがするし、これまでの学長だった仙道氏が「引っ張った」にしても、容易く応じられる話しではないからである。記事でも「国立大学の学長は博士課程を経て学位を取った研究者がなるのが通例。このために国立大学学長に手を挙げにくかったということもある」と、これまでの慣例について述べている。これも当然の指摘であり、そもそも「学長選考」の根幹に関わる問題と言えよう。

　このような事情から、記事においても「監督官庁トップである文科省次官経験者から国立大学の学長に就いた話は聞いたことがない」と紹介されているわけである。
　それで「天下り人事」と批判を受けるに決まっているにも拘わらず、何で学長か？という話題になって行く。私などは、学長候補の前の職業が何であろうとも、本当に「適切」な人材であり、学長に相応しい経歴をもっていれば、こだわる必要ないと思っているが、一般的に直前まで「次官」だった「当事者」＝国立大学の法人化の当事者が適切であるとは、思えないのであるが・・・

　さて、そこで、記事に出ている次の指摘に注目をした。「C」曰く「国立大学法人の合理化や効率化を完成させるために仙道学長の誘いに乗ったという説は考えられないか。官邸や財務省からは『国立大学をさらに絞れ』との要求が強まっている」と。
　これは、学内で流布されいた利益誘導説＝地元出身の候補者という期待と真っ向から対立する指摘である。もし、これが事実であるならば、今回の選挙で結城氏に投票した多くの教職員は期待を裏切られることになろう。実は、私は密かにこの記者と同じ意見を持っていたのであるが、官僚批判の陰に隠れて、彼が推進しようとする「政策」についての議論が、すっ飛んでしまっていたのは残念である。
　この「政策」不在の議論は、最後まで続き、小山工学部長と加藤前理学部長との「統一」に際しても、選挙までに実質的に間に合わなかったのである。

　政策問題で真っ先に問題にされるのが、運営費交付金の減額であり、配布方法の変更、そして教職員に関する人事評価問題、大学の再編成などの「淘汰」路線（一般的には「生き残り策」とか「地域間競争」と言われているが、選別淘汰＝再編というべきであろう）であった。

　記事では「山形大にしても教育学部系を宮城教育大に集約するために山形師範以来の伝統である教育学部を05年に地域教育文化学部に泣く泣く改組、この時の方針は文科省から出ていると言われる」と述べている。東北地方の大学では、例えば北東北の弘前大、秋田大、岩手大の三大学の統合問題などもあったが（結局、ご破算になったが）、教育系や農学部系の再編合理化が大前提として存在していたことは事実であろう。
　また、記事の「視野の広い」ところは道州制までも睨んで「道州制が実現すれば東北７国立大学の生き残りは厳しくなる。学長選挙も重要だが、生き残り策を新学長と教職員が一体となって具体化できるか、注意深く見守る必要がある」と結んでいる。

　実は、この辺が日経の「限界」であろうが、教職員の投票で２位であった結城氏が、選考委員会14名の投票で学長に当選したことへの「本格的」な批判はない。そして、大学の生き残り策に知恵を絞れという結論になっている。この生き残りの関係から言えば、結城氏は選挙に当たっての「政策」として、大学には教育機能と研究機能があり、山大についていえば「前者」に特化するのがよいということを述べていた。本当にこの二つの条件が分離できるものであれば、そういうことも可能かも知れないが、実際にはこの両者は分かちがたく結合していると見るのが常識であろう。
　
　大学の「生き残り策」とはなにか。再編の方向、国立大学法人の「見直し」のあり方など、大学を巡る論点は多岐にわたっている。この機会に、大いに議論をして見たいものである。
<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070831.jpg" width="400" height="300" alt="上海・席家花園酒家の清蒸肉蟹"></p>]]>
        
    </content>
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    <title>「ふるさと納税」の行方と問題点</title>
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    <published>2007-08-23T05:12:54Z</published>
    <updated>2007-08-27T16:45:20Z</updated>
    
    <summary>　菅総務相が提言した「ふるさと納税」制度について、少し感想を述べておきたい。 こ...</summary>
    <author>
        <name>行方久生</name>
        <uri>jilg.jp</uri>
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            <category term="地域経済" />
            <category term="財政・金融問題" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://jilg.jp/blog2/">
        <![CDATA[　菅総務相が提言した「ふるさと納税」制度について、少し感想を述べておきたい。
この「ふるさと納税」制度が提言された「背景」には、日本の社会的格差の一環としての「地域格差」やいわゆる「東京一極集中論」などがあり、地方の自治体が財政的な困難に陥っている現状と相俟って、これを「なんとかしたい」という雰囲気が存在していることであろう。

　現に、構造改革路線を一応踏襲した安倍首相は、この間の参院選挙において「安倍を選ぶか小沢を選ぶか」という選択肢を国民に「つきつけ」て見事に惨敗を喫したわけであるが、この原因として構造改革の負の側面（正の側面があるとも思えないのであるが）への「手当」を重視しなかったことが、自民党の内部からも指摘されている。
　そういう面から見ても、菅総務相の提起はそれなりに、構造改革の「負の側面」を地方を巻き込むことによって「克服」しようとする路線、流れであったと言えるだろう。主として地方の自治体から（特に地方の県）から「賛成」の声が上がり、地方格差の是正の要求をともなって、一定の世論を形成したことも事実であろう。同時に、首都圏や大都市部の自治体からは、一方的に自治体の課税権を奪い、大都市を狙い撃ちした荒唐無稽な議論であるという批判が展開された。
　様相は大都市部と農村部(地方）の対立となり、これを煽るといった不毛の議論となりつつあるが、総務相における「ふるさと納税」研究会は、なぜか未だに議論を継続している。

　この問題を、これまで取り上げなかったのは、単に私の「時間的な制約」の問題もあったが、税財政の専門的な立場から見ると、「議論に値しない、低次元」の話しということもあった。一応の専門家？を集め、なおかつ、ここまで議論が継続するとは到底理解できない（簡単にポシャると思われた）問題だからである。
　あるシンポジウムに出席した神野東大教授も、「この議論を表題にするシンポや講演には出ないつもりでいた」と露骨に「ばかばかしさ」について強調していたが、当然の意見である。

　この「ふるさと納税」制度に関する議論が、これまで継続してきたのは、一つには自民党の選挙政策に取り上げられたこともあるだろうが、経済財政諮問会議の2007年の骨太方針にもり込まれたこともあろう。そこで、「ふるさと納税」制度についての研究会の検討状況を若干見ることによって、それに対する私の見解をのべておこうと思った次第である。

**********************************
　総務省に設置された「ふるさと納税研究会」の趣旨は以下のようになっている。
　「最近、地方公共団体の長などから、都会に転出した者が成長する際に地方が負担した教育や福祉のコストに対する還元のしくみができないか、生涯を通じた受益と負担のバランスをとるべきではないかとの意見が、また、都会で生活している納税者からも、自分が生まれ育ったふるさとに貢献をしたい、自分と関わりの深い地域を応援したいとの意見が寄せられています。
　 このような「ふるさと」に対する納税者の貢献等が可能となる税制上の方策の実現に向け、幅広く研究するため、総務大臣のもとに研究会を開催します。」
　また、検討事項は次のようになっている。
（１） 「ふるさと」に対する納税者の貢献や、関わりの深い地域への応援が可能となる税制上の方策 
（２） 税理論上の整理 
（３） 「ふるさと」とすべき地方公共団体の考え方 
（４） 納税者の手続及び市町村の事務負担を考慮したしくみのあり方 
（５） その他実現に向けて検討が必要な事項 
**********************************

　「ふるさと納税」というごとく、当初は、住民が自分の育った「ふるさと」などに「自主的」＝納税者主権？に納税できるように、都市部からの農村部への税源の「再分配」をも射程にいれた議論であった。ところが、上記の内容をみると、議論はするものの、最初からこの住民税等の税の納税地の「選択」という視点は希薄になり、納税者がふるさとを支援・ふるさとに貢献できるような「税制上の方策」などと、かなり曖昧化している。
　さらに、具体の「検討内容」をみると、「税理論上の整理」というように、「税」を念頭においた議論はするものの、実際には、「関わりの深い地域への応援が可能となる税制上の方策」などと、税以外の方法もあり得る（実際には税以外のやり方しかあり得ない）との考えが「行間」にあふれ出ているのが実態である。
　税や財政の専門家でなくても、少なくともこの研究会を主宰する総務省も、税としての議論が「無理筋」であることを重々承知している書きぶりである。
　そういう意味で、多くの国民の「誤解」を招いてしまったが、ふるさとと呼べる「自治体」を納税者が選択をして、自主的に「納税」する、納税地の選択権などという議論が入る余地はないのである。
　しかし、方向を曖昧にして「幅広く」ふるさとへの「貢献」「支援」を議論する研究会にしたからこそ、いきなりポシャることもなく、現在まで継続していると考えられる。
　さて、第3回の研究会あたりで、議論の整理を行っているが、ここで既に「方向性」が見えている。多少、煩雑な内容になっているが、正確を期すために、整理を全文引用しておこう。

*****************以下引用*****************
<B>｢ふるさと納税｣に関する主な論点.課題等</B>
<B>意義</B>
＊地方は都市部に入射などを供給するとともに､森林､農地などがもたらす公益を都市部の住民に提供しているとの意見
＊ふるさとに貢献したい･支援したいという個人の思いを税制上実現すべきとの意見
＊税の使い達や流れに関心が深まり.地方自治に対する参加意識が高まるとの意見
＊過去に提供した行政サービスに係る負担と､それに見合う還元の仕組みを実現すべきとの意見
＊都市と地方が良い関係をつくっていく契機となりうるとの意見
＊環境を守る意識と密接に結びついているのではないかとの意見
＊税収格差の是正問題とは峻別して考えるべきとの意見
<B>｢ふるさと｣の定義等</B>
＊｢ふるさと｣の定義
＊「ふるさと｣に封する貢献･支援という制度の趣旨との関係
＊要件の確認･認定等の事務手続
<B>租税の基本的考え方との関係</B>
○受益と負担の関係
･居住している地方団体から受ける行政サ-ビスに潜目して税を課すという住民税における受益と負担の関係
･納付先の課税の根拠
･時間軸(ライフ･サイクル)の中の受益と負担
○課税権に関係する課題
･住所地の地方団体の課税権と納付先の地方団体の課税権との関係
･滞納が生じた場合の対応
･条例の効力が及ぶ範囲と課税の関係
･選挙権を有しない地方団体からの課税及び納税
○納付先を任意に選べる仕組み
･納付先の任意性と租税の強制性との関係
○住民間の公平性
･住所地で受ける行政サービスと税負担水準との関係
<B>税制としての構成</B>
＊税又は寄附(所得控除･税額控除)
＊事務執行面の課題
＊納税者にとって使いやすい手続
＊納付先の確認･振り分けなどに要する地方公共団体の事務負担
＊特別徴収義務者に生じる事務負担
<B>その他の制度設計上の課題</B>
＊移転できる税額の割合
＊都道府県と市区町村の振り分け
＊所得税との関係
＊交付税制度との関係
<B>その他関連する論点</B>
＊選択する納税者の割合
＊税収見積りにおける予見可能性
＊使い途
＊地方団体の行動に与える影響
****************引用終了******************

　というわけで、内容的には「税又は寄附」という項目に象徴されるように、「税」ではなく「寄附」の話しに限りなく接近していく方向を示唆している。その後の研究会の状況を見ると、まさにそのようになっており、「ふるさと納税」として組んでいく方向ではなく、自治体に対する寄附に際する「控除」や「所得税」との関係など、確かに「税制」がらみの議論ではあるが、本来の「納税」とは無関係の議論に「発展」しているわけである。最初から「横路」に逸れているので、本来なら研究会を解散したらよさそうなものであるが、最初から「織り込み済み」で横路への逸れているという面を持っているわけである。
　議論を見ると「どうやってふるさとへの愛情を育てるか」「ふるさとという意識をもってもらうか」「できるだけ多くの人に寄附をしてもらうためにはどうするか」など（議事録が全面的に公開されていないので、詳細は不明であるが）が出ているようである。公費を使用してくだらない議論をする体のもので、「大きなお世話」であると言いたい。安倍首相の『美しい国』における「愛国心の涵養」などと同じで、「ふるさと」がぶち壊された原因も背景も全く解明されていない。結果として「地域格差」の原因への言及もなく、ふるさとから遠く離れて生活せざるを得なくなった「背景」などもすっ飛んでいる。

　さて、この程度の「批判」をもって、「ふるさと納税」についての批判とするならば、敢えてこのブログで取り上げるまでもなく、多くの人が好き勝手なことを書いているので、殆ど意味はないだろう。
　ここでは、「では、なぜ跡田氏のような一応の税財政の専門家も入った研究会で、こういったことを議論するのであろうか。彼らは何を考えているのか」という視点から、もう少し話を追って見たい。

　「ふるさと納税」を「税」として組むためには、当然のこととして税のルールに基づく必要がある。いわゆる「課税承認権」「支出承認権」などが、税制民主主義の基本として存在することは言うまでもない。国家権力による強制の作用を否定するものはいないだろうし、これが「納税の義務」として規定されていることも周知の事実であろう。
　また、税として制度を組む場合、住民税の場合課税権は自治体に存在するわけであるが、その自治体に居住していない「住民」に対する「課税」の根拠はどうなるのであろうか？課税の客体もそこには存在しない。また、選挙権もないわけであるから、その自治体の支出への承認権も機能しない。つまり、税を納めて貰う「自治体」の側が、それを「貰う」だけの根拠すら存在しないことになる。まして、「滞納」(笑い）の場合の徴収などは、どうなるのであろうか。どう考えても「憲法違反」のオンパレードであろう。「受益と負担」の一致がないなどという「地方税の原則」？に基づく、曖昧な批判以前の問題である。
　また、税として組めば、当然にその自治体の基準財政需要額に算入されることから、それに対応する分、地方交付税が減額され、自治体の歳入は「ふるさと納税」の増加分ほどは増えないのが現行制度の仕組であり、ナンセンスさは、増幅される（およそ、考えるだけあほくさい議論である）。だからこそ、地域間の財政調整機能を期待することは「できない」という議論が、最初から幅をきかせているのである。これに対する反論らしきものは、強いてあげれば「ふるさと重視の機運や地域格差への認識」を啓蒙するといったレベルのものである。

　さて、そこで、議論は税から「寄附」へとワープすることになる。
跡田氏は、ご存じの方もいると思うが、「寄附による投票」という制度を提唱し、長野県の泰阜村などで広く村内外の国民に泰阜村への「寄附」を呼びかけ（使用目的を高齢者福祉や環境の保全などいくつかの項目にわけ、寄付者がそれを選択することになっている。この間、障害をもつ高齢者の海外旅行などにその寄付金が活用され、村の広報にもそのことが記載されている）たことなどは、かなり知られた事実である。実は、私も泰阜村が「小さくても輝く自治体フォーラム」などで果たしている役割や、長野県の合併しない自治体への支援策などに共感して、この寄附を行ったのであるが、この「寄附による投票」という考え方にすべて賛同しているわけではない。

　現時点で、その自治体の自然環境保護であるとか、文化遺産の保護や、福祉の充実など「ふるさとへの寄附」も含めて、様々な内容の「寄附」が募られている。租税国家において、寄附が大きな歳入のウエイトを占めることは考えられないが、寄附行為そのものは、寄附する側の思いもあるし、される側のメリットも当然にあり、否定することはできない。
　しかし、「寄附による投票」という行為によって、例えば、自分が居住する自治体への「寄附」が、その自治体に特定の政策選択を促すことにつながる場合などは、「注意」が必要である。
　先に指摘した支出承認権は、狭い意味での納税者だけに限らず、住民全体の権利であり、生活保護を受けていようが、様々な給付を受けていようが、納税をしていなくても、なんの変更ももたらさない。国民＝住民としの「権利」なのである。

　もし、寄附という一定の「意思」や「金銭的余裕」によって、自治体或いは国家の政策が影響を受ける場合（政策の順位付けなどに活用されることも含め）、新しい形態の「利害誘導」になりうるし、また、「金持ち」による政策の「私物化」に帰結する恐れすらもたらされる可能性がある。「住民参加」や予算編成における新しい手法という一面だけで評価することはできない問題である。
　自治体等への寄附（これは当然に、自治体から、新しい「公共空間」としてのボランティアセクター、NPO等への寄附とも連動する可能性があるが）を通じて、どのような「控除」がもたらされるのかとも関連してくる。事実上の「節税」と、自治体等への一定の政策上のプレッシャーなどが、同時にもたらされる場合、これは新自由主義的な税制の歪みを生じさせることになろう。

　強者による節税と政策的な利害誘導などが、最悪の想定となる。自治体の方も、地方消費税の引き上げ（現在は５％の消費税の内、１％が自治体の取り分であるが、この比率を上昇させ税源の地方移譲に活用する議論や、消費税そのものの税率を上げることなどを含む）などに期待せず、消費税の逆進性に真っ向から立ち向かいつつ、同時に、企業優遇税制是正や累進課税の強化など、税制民主主義の「本道」に立ち返った議論をすべきであろう。

　こういった「勇気」をもつことが、実は、現在の更なる自治体再編の推進＝市町村合併の更なる「強制」「誘導」や、町村とりわけ人口小規模の自治体の「窓口町村」化＝自治体潰しに立ち向かうことと連動するのである。第29次地制調では、いよいよ、自治体潰しの手法としての「西尾メモ」の新バージョンの議論に入るだろう。「審議項目」を見る限り、これは杞憂ではなく、現実のものとなりそうである。これについては、また、日を改めて、論ずることにしよう。

<strong>注）</strong>「西尾メモ」とは、周知のように小規模町村(人口規模は明記されなかったが、自民党は１万人未満を主張した）について①他の自治体の「内部団体」にすること②都道府県などに事務の実施を補完してもらう「事務配分特例方式」という手法でもって、小規模自治体を「非自治体化」すること、つまり、「総合行政体」としての自治体ではない「窓口町村」にしてしまう提言であった。西尾氏自身は、その後の学会におけるシンポジウム等で、「西尾メモ」と個人の見解は異なるという表明をしている。また、上記の①②自体が「不可能」な手法なので、「西尾メモ」は不可能なことを提言したことから、実際には小規模自治体を潰すことを限りなく不可能にする「意味」があるという「善解」なども出ている。
　西尾メモ自体は、確かに当時の総務省の官僚の「作文」であろうが、やはり発表したのは西尾氏であり、「西尾私案」なのである。これに危機感をもった小規模自治体がその後、全国的ネットワークをつくり「小さくても輝く自治体フォーラム」などを開催してきたことは、この「私案」の歴史的意味を物語っている。第２９次地方制度調査会（なぜか、未だに「地方制度」を冠にしている不思議な審議会ではあるが）の「審議項目」を見ると、またもや、この「西尾私案」の亡霊が新バージョン化して「徘徊」する可能性が大である。

<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070823.jpg" width="400" height="300" alt="上海豫園・緑波廊の蟹味噌あんかけ豆腐"></p>]]>
        
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    <title>日本経団連「道州制の導入に向けた第１次提言」を嗤う</title>
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    <published>2007-03-29T15:04:46Z</published>
    <updated>2007-04-03T15:03:52Z</updated>
    
    <summary>●日本経団連が「道州制の導入にむけた第１次提言－究極の構造改革を目指して－」（0...</summary>
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        <name>行方久生</name>
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            <category term="地域経済" />
            <category term="地方自治全般" />
            <category term="市町村合併" />
            <category term="道州制・広域再編" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://jilg.jp/blog2/">
        <![CDATA[●日本経団連が「道州制の導入にむけた第１次提言－究極の構造改革を目指して－」（07年3月28日）を公表した。財界「大旦那」の出番とあって、大いに期待して読んだが、読後の感想は「？？？」であった。それは、資料を含めて「わずか」１７頁という貧弱・貧相さだけではなく、言い古された内容と迫力のなさ、安易な発想、タダひたすら「財界のための国際競争力ありき」という姿勢が、透けて見えてしまうからなのかも知れない。
　日本の「大番頭」として、もう少し、説得力のある「論陣」をはってもらいたかったと、やや拍子抜けした気持ちでこれを書いている。

　さて、「第１次提言」とあるように、当然「第２次」（最終）があるわけだが、

*****************************************************
・国、道州、基礎自治体それぞれの位置づけ、役割と権限
・中央省庁の再編
・道州間の財政調整のあり方
・道州制導入による経済波及効果の推計
・首都の位置づけ、大都市制度のあり方
・相対的に経済活性化が遅れている地域の取扱い
*****************************************************
　といった「もっとも重要かつ議論が困難」な問題が殆ど全て「先送り」されており、要するに「機運」を盛り上げるために今回の「第１次提言」がだされたのかも知れない。
　しかし、そうはいっても、なかなか「侮れない」部分もある。その辺を中心にして、感想を述べ「備忘録」としておきたい。

●提言は、これまでの「地方分権」（三位一体改革など）の評価や課題の分析の最後に「過疎化や高齢化の進行は、税収の減少と社会保障支出の増大を通じて、地方財政をさらに悪化させるおそれが強い。
他方、地方交付税交付金や補助金などを通じて地方財政に関与してきた国も、財政収支の悪化により、財政調整能力が著しく低下している。三位一体改革を経てもなお残るこうした課題を整理し、国と地方の関係にかかわる課題の解決に向けた手立てを講じることが急がれるが、道州制の導入は、それらを根本から解決に導く大きな可能性を秘めた改革であるといえよう。」と述べている。
　平たく言って、提言の副題にあるように「究極の構造改革」として位置づけられているわけである。

　「道州制導入の意義・目的」としては、「統治機構の見直しを通じた政策立案・遂行能力の向上」などをのべているが、要するに言い古された「地方分権」のタームである。曰く「もはや、全国画一的な政策のもとでは新たな活力は生まれず、これからは、多様性を容認しつつ、地域の自立のもとで新たな付加価値を生み出すことが必要である。一定の規模を有する広域的な地域がそれぞれの特徴、個性を踏まえ、独自性を発揮し、競争を通じて活力を高め、真に自立した地域となる努力を行う。　そのために、内政上の政策にかかわる企画・立案や意思決定、関連事務・事業について、国から地方公共団体へと権限を移すこと、すなわち統治機構を根本から見直すことが、『希望の国、日本』をつくり出す基礎をなすものであると確信する。」
　財界が「地域に独自性」を求めるのは自由であろうが、その前に「規制緩和」や「補助金」などによって、もっとも手厚く国からサポートを受けてきたのが、他ならぬ経団連傘下の大企業である点をホッカムリしてもらっては困るというものである。しかも、地域だけには「独自性」を要求しつつ、オノレは「成果主義賃金」とか「業績主義賃金」「能力主義賃金」などと、どこを見ても「金太郎飴」そのもので、なんの「独自性」も感じられない。そもそも、財界の中で意見が一致して「提言」などを出すこと自体が「気持ちが悪い」（笑い）。
　政府の分権改革推進会議でも「少数意見」くらいは公表していたが、この程度のことは、「日本の将来のために」にして欲しいと思う（爆。

●お義理に「地域における行政サービスの質的向上」などの項目も立てているようだが、「民間でできることは民間に」の理念に基づき、国・地方を通じて官の役割を必要最小限にとどめるとともに、国と道州、基礎自治体、さらには地域コミュニティとの間で、新しい時代にふさわしい適切な役割分担を実現する必要がある。」というように、新しい役割分担によって「自分のことは自分で」ということに帰結する。
　道州制は、提言を見る限り地方自治体のように見えるが、道州制間の競争や国際競争に打ち勝つことも道州の「役割」となっている。こうなると、地方自治体というより「国家分権」というか「連邦国家」をイメージしないと無理があるが、地域の過疎化や少子高齢化などの課題を道州やより拡大された市町村に「おしつけ」、国家のほうは、外交とか国防などに専念するという。

　こういった「囲い込まれた」自治体は道州であろうと、市町村であろうと、国のことに口出しできない構造になる。まちづくりや、住民生活でも例えば「米軍基地」問題などは重要な争点になるが、これは地方の選挙の争点には馴染まないということになろう。あくまで「身近」な、「些末」なことをやって、上手く生き残り「国際競争」にも勝ち残れる地方が出てくれば「それはそれで儲けもの」と言った気楽な発想が見てとれる。敗北すれば「自己責任」ということだろう。

●「道州制の導入によってかたちづくられる新しい国の姿」についても、古くさい。「個性ある地域づくりと分散型国土・経済構造の形成による国際競争力向上」だそうだ。こんなことは、今時分、どんな田舎の政治家でも口にする（田舎を差別しているわけではないので、誤解のないように）。
　これで、国は金も出さずに「長年の懸念となっている東京一極集中も是正の方向に向かおう」というノー天気である。なんで、市場原理に任せて「東京への一極集中」が是正されるのか理解に苦しむところである。そして、これに続けて「道州制の導入は、こうした状況を結果として是正していくことになるが、これは国際都市・東京の競争力を殺ぐことを目的とするものでは決してない。国際都市・東京は今後も、わが国全体の競争力強化の拠点として、整備していくことが必要である」と述べている。
　地方の独自性というのであれば、東京が「国際都市」を選択しようがしまいが、また競争力の拠点として「整備」しようがしまいが、住民の自由ということになるハズであるが、どういうわけか、ここだけには「整備して行くことが必要である」と、なにか国が金も口も出しそうな雰囲気である（笑い。

　こんな「回りくどい」ことを言うなら、東京の石原都知事のように「オリンピックを誘致」など、ハッキリと「国際都市」に結びつけるインフラ整備の必要性を述べたらよいと思うのだが、どうもそういうワザも欠けているようである。東京には「肩入れ」して、地方には「個性」や「独自性」の名の下に自立を求めつつ「地域間の経済格差が是正されることも期待される」と述べるに到っては、噴飯ものだろう。

●住民生活の方には、国や道州の力をできるだけ投入せずに（これが「補完性の原理」として説明されている）、地域コミュニティまで動員して自立自助でやれ！ということになる。言われなくても、日本の国民は自立自助でやるほかないのが実態なのだが・・・
　
　そして、要するに「国･地方を通じた行財政改革の実現」が道州制の大目的になる。究極の構造改革であり、都道府県「つぶし」（と言っても、現在の都道府県知事の大半は道州制賛成であり、私はこれを自虐路線と言っている）による、財政大合理化である。市町村合併などの「比」ではない、財政の合理化に結実することは、確実であろう。
　そこで、道州なり市町村なりに「競わせて」おいて、「企業もまた、各道州の努力や独自性を踏まえて、本社や工場等の立地および事業戦略を選択することができるようになる。」と述べている。

　私は、日本や地域を捨てて、海外に出て行く企業（もちろん、出て行ってもよいが、地域にはそれだけの落とし前をつけてから行けということである）について、「ドンドン、出て行けばよい。二度と帰ってくるな」と言っているのであるが（笑い）、こういう棄民・棄地域路線というのは、賞味期限の切れたお菓子を誤魔化して売っているような企業より、何百倍（笑い）も罪が重いと思っている。
　住民が福祉の充実した自治体を「選択」して、移住するのは当然であるが、企業が税の安い地域や優遇策を用意している自治体に移住するなど「１００年早い」。なにか、相当に勘違いしているようである。

●最後は「道州制導入に向けての道筋」ということになるが、なんと「政府によるイニシアティブ」が一番先に来る。エバッていたガキ大将が、突然「お母ちゃんに泣きつく」ような真似は見苦しい限りである（笑い。
　１９６０年代の学生運動ですら「カルチェラタン闘争」とか「解放区」とかを目指して「奮闘？」した位であるから、日本の番頭だったら、勝手に解放区でも作ったらどうなのか。
　自らは、宣伝やシンポなどで「機運」を高めるというような「レベル」で、政府主導を求める姿は痛々しい（笑い）が、結局、政府と「談合」でやろうというわけであろう。
　その昔、佐藤栄作元総理は、青島幸男に「財界の男めかけ」と言われて色をなしたが、いまの財界には、こういった「矜持」もないのだろうか（爆。
　
　経済同友会は、小泉首相の靖国参拝に対して意見を述べたが（もちろん、自分たちが進出している東アジアで割を食ったら「ソン」という打算が中心で、結局、小泉首相に「政治に商売を持ち込むな」と一喝されて腰砕けになったが）、日本経団連の方は、最初から腰が引けていた。

　そして、道州制への取組は「責任分担型の社会を目指した国民の意識改革」だそうである。
どうも、「ホワイトカラー・エグゼンプション」とか、労働者を労働時間に関係なく「ただ」で働かそうというような組織は、考えることがひと味違うものである（笑い。
　昔、「小さな親切運動」というのがあったが、私は「小さな親切、大きなお世話」と評価していた。今回は、ただの「大きなお世話」である。

●というわけで、道州制の話からかなり「逸れて」しまったが、私が悪いのではなく、日本経団連の提言の方が悪いのである。もう少し、シッカリと研究して、国民に「それらしい」説明をした方がよいと老婆心ながら思ってしまう。
　なんとか国民意識を変えたいがために、最後に「道州制憲章７ヶ条（試案）」というスローガンが載っている。これを、皆さんで味わってほしい。

*****************************************************
一、 国に依存せず、地域の個性を活かし、それを磨きあげる心が、日本全体に
活力をもたらす。
一、地域の自立は、そこに住まう住民の発意と熱意によって実現される。
一、日本に、そして世界に誇れる街づくり・地域づくりを進める。そのため、
住民全員が努力し、各々の責任を果たす。
一、地域を愛し、地域のために尽くす人材は、地域の宝である。
一、一人ひとりが、生涯を通して地域に根ざし、はつらつと生活し、学び、働
ける地域をつくりあげる。
一、多様なチャレンジの機会にあふれ、全ての人々が切磋琢磨する社会をつく
る。また弱者には手が差し伸べられる。
一、家庭を基本的単位とし、住民が相互に支えあう地域をつくりあげる。
*****************************************************

　なにか、現代版「ほしがりません勝つまでは」という感じ（爆）ですが・・・センス古いですね～。
電通とか使った方がよいかと思ってしまいますが･･･
　我々の方も「シッカリ」と、地方自治のありようについて、考える必要があるということだけは、「提言」を読みつつ、「ひしひし」と感じた次第です。

<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070329.jpg" width="400" height="300" alt="六義園のしだれ桜"></p>]]>
        
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    <title>秋田県「子育て新税」の怪</title>
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    <published>2007-03-25T13:39:00Z</published>
    <updated>2007-03-26T08:07:08Z</updated>
    
    <summary>●秋田県の寺田知事が固執している「子育て新税」というのをご存じだろうか。地元秋田...</summary>
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            <category term="政治問題" />
            <category term="財政・金融問題" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://jilg.jp/blog2/">
        <![CDATA[●秋田県の寺田知事が固執している「子育て新税」というのをご存じだろうか。地元秋田では「大問題」になっており、今回の地方選挙に立候補している「大半」の候補者が「反対」をし、しかも、県議会で「拙速である」という反対決議すらあがっているのである。しかし、寺田知事は「めげる」こともなく（今回の地方選挙では秋田の県知事選挙はない･･･）、「子育て新税」の導入を主張しているのである。
　　
　地元では、世論の反対にも拘わらずこれだけ粘着するのはなぜなのだろうか。どうして、他府県でも導入していない「子育て新税」を「秋田」でということになるのか。また、財政危機や赤字の後始末を県民に負担させるということはどういうことなのか、など批判と疑問が渦巻いている。

　さて、「子育て新税」とは、最初の構想と現在の構想がかなり変化しており、その面での「いい加減さ」も指摘しておかなければならないのだが（それはさておいて）、当初は「目的税」として、少子高齢化が全国屈指の秋田において、子育て支援や教育費に「目的」を限った税を導入するプランが公表された。このプラン作成と並行して、「住民アンケート」なるものが実施され、「子育てや教育に関して、充実させるための増税」についての賛否を問うている。このアンケート自体、かなり「誘導尋問」的なものであり、財政が赤字になって少子高齢化がこれ以上進むと、取り返しがつかないので、「やむを得ない」というような雰囲気に「囲い込もう」という意図が「見え見え」のものであった。
　しかし、そのアンケートですら、総じて「反対」の方が多く、賛成は少数派であった。寺田知事は、マスコミ報道によれば、反対が多くても「やる」という意気込みで、３０％位の賛成があれば、議会に提起するという姿勢を示していた。

●この辺りから、「とのご乱心」という雰囲気はあったが、住民団体や労働組合などが機敏に立ち上がった。世論の反対が圧倒的であると見るや、知事は「目的税」から「住民税引き上げ路線」に転換し、最終的には（まだ、最終ではないが）、住民税の一定所得以上の納税者に0.4％程度の税率の上乗せを行うというプランを示した。比例税であるので、一定の所得以上層では１万円を超える増税となるし、住民税課税所得に達していれば、かなりの「低所得層」でも「増税」となる。

　当初案の「目的税」は、かなり「危ない」ものであり、現在「少子高齢化対策費」や「教育」に使用している財源との関係の整理が着かない。細川内閣の時に「福祉目的税」として消費税を引き上げるプランが夜中に公表され、あっという間に世論の反対で「没」になった経緯があるが、この事実を想起させるものであった。自治体の財政危機は事実であるが、別に「福祉」や「少子化」対策費だけが不足しているわけでもなく、全体のバランスを考慮した予算編成が必要であることは常識であろう。
　日大の北野弘久名誉教授は、常に「日本国憲法の下においては、全ての税は福祉のために使用されるべきであり、軍事費などは憲法違反であり、また、『福祉目的税』なども憲法の想定している税の性格を歪める憲法違反のものである」と主張されてきた。憲法論として、突き詰めて考えれば「当然」のことであろう。

●それで、私が「全労連」の機関紙にこの問題での「談話」などを出したこともあり、秋田からお呼びがかかった次第である。「<a href="http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2007/03/20070325t41005.htm">子育て新税学習会」</a>（秋田県革新懇、子育て・教育支援を考えるネット主催）が開かれ、財政を中心とした話を行った。
　私が強調したのは、何点かあるが、

①自民党の改憲案にある「地方自治の章」の「改正」プランは、かなり多くの条項がある。まず「自分のことは自分でやる」という国や都道府県の役割の「後退」を前提にし、できるだけ市町村に「身近な（些末な）」ことを行わせ、負担分任制度（受益者負担の強化）、自治体の財政の健全化を憲法で義務付け（リストラの事実上の強制によって、自治体を夕張市のような「植物自治体」にする）、そして地方特別法に関する住民投票を廃止するというものである。今回の「子育て新税」は、こういった安倍政権の下での「改憲」プランに合致するものである。

②「地方分権」「地方分権」とことあれば強調されているが、現在の「進行方向」は地方の裁量度の拡大の名の下に「自由な増税」と歳出の削減が目指される状況になっており、この点でも「子育て新税」は方向性が合致している。

③秋田県は、子育て支援や高齢化対策を他府県に比べて重視して来たと、寺田知事は述べており、その上で、「なお重視」「足りない」部分は、県民の負担でという主張である。秋田県の民生費や、少子高齢化対策費は人口一人当たりで、確かに多い方ではあるが、実は「人口密度」と「少子高齢化対策費」をクロスさせて４７都道府県の分布図を見ると、全体の分布の近似曲線より「下」に秋田はある（つまり、「並」以下）。
　また、高齢化率と一人当たりの「少子高齢化対策費」の分布を見ても、これは秋田県は、近似曲線のかなり「下」にある。
<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070325-1.jpg" width="400" height="300" alt="高齢化率と少子高齢化対策費の分布図"></p>
　他方で、歳出に占める「土木費」「投資的経費」の水準は、全国的にかなり上の方になっている。また、秋田県の長期的財政支出の傾向を見ると、教育費が一番減少しており、投資的経費も９７年をピークに確かに減少しているものの、減少率は全国水準以下になっている。そして、その投資的経費の「後払い」である「公債費」は０４年にピークになっているのである。
　しかも、交付税が減らされている中で、投資的経費に占める「単独事業」（県の一般財源持ちだし）の比率は結構高い方なのである。
　以上をまとめると、秋田県は現時点でも「教育大県」でも「少子高齢化対策費大県」でもなく、むしろ「土木大県」的な財政構造を維持していると言うことができる。

④このようにみてくると、これまでも少子高齢化対策を重視し、なおかつ今後もこれらの支出が増嵩するので、「予め」増税を県民にお願いするというような「大前提」がそもそも成り立たない、ということなる。

⑤しかも秋田県の人口一人当たりの住民税は、全国最低レベルであり、この面からも、住民税への上乗せは、もっとも避けるべき手法である。

●というようなわけで、当日は資料を配布して「事実」に基づいて、以上のことを立証しつつ、私の見解を述べた。今回の「子育て新税」の対象には、当初は学校の建設などのハードの部分も潜り込まされており、さすがに、議会の追及などでこれは撤回したが、全く「油断も隙もない」とはこのことである。
　
　そこで、どうしても強調しておきたいことは、「地方分権」「地方の裁量権の拡大」「自由と責任」というような流行のフレーズが一体なにを意味しているのか、と言う問題である。
　私は、小泉構造改革における「地方分権」などの方向は、自治体に福祉の切り捨てを事実上「強制」する「福祉国家破壊型の地方分権」であると主張しているのであるが、「子育て新税」は、この「税」の面における一つの典型方向である。
　同時に、全国的にみて、「行政サービス制限条例」のようなものがかなりだされており、また、国保証の「取り上げ」や「生活保護申請の水際排除（北九州方式）」などが跋扈している。
　これは、負担をしない（実際には「できない」）住民に課罰的な仕打ちを行い、その地域の中で発生する受益をその地域内で（実際の受益とは関係なく）負担させるという路線になる。

●受益と負担の関係は、地方税にあっては、「応益負担」説が優勢にみえるが、実はこの「応益」とは課税の根拠（応益のない事象に対する課税はあり得ない）であり、負担の配分とは異なる論理だというべきであろう。つまり負担の配分は、地方にあっても「応能負担」が憲法の負担原理であり、地方にも適用されるべきなのである。

　秋田県は「自殺大国」であり、もう１０何年も一位を続けている―近年「自殺対策基本法」なども制定され、秋田県下の町村の自殺対策での「成果」にも目が向けられているが（本橋豊『自殺が減った町ー秋田県の挑戦』）―全国一の人口減少県でもある。
　秋田市も、この間の合併がなければイオンなどの郊外展開型のＳＣにおされ、「中心街」の空洞化も拡大し、下手をすれば中核市の用件である３０万人割れも現実のものとなる可能性すらあったのである。
　日本の自殺は９８年から急速に拡大し、３万人を超える水準を保っているが、「自殺対策基本法」が正しく述べているように「自殺は個人的なものだけではなく、社会的なもの」である。
　中高年の自殺率の高さ、特に９８年以降はこれが拡大している。同時に、注目すべきは（多分、常識とは異なって）、自殺は農村部の方が多い。これは高齢者の方が自殺率が高いということから、ある程度の相関関係はあるが、しかし、それだけでもない。最新の自殺率は、秋田、青森、岩手、山形と東北地方が多い。農業の衰退と人口の過疎化、地域産業の地盤沈下などが「総合的」に作用し、「鬱病」などの拡大と共に、自殺の背景になっている。自殺する中高齢者には、一人暮らしよりも家族との同居の方が多いのも、特徴である。これも常識と反するかもしれないが、家族間の生活様式、意識の違いなどが「軋轢」となり、自殺の背景を形成していることも想像に難くない。

●自治体とは、住民の「平和的生存権」を守ることにその「存在意義」があるのであって、地域を活性化させるための、住民の様々な取組、ＮＰＯやボランティア組織などの運動の重要性と共に、統治体としての自治体の果たすべき「政治」というものがある。
　これを忘れて、住民に不要な負担を強い、福祉や教育を後退させることは「自治体の自殺行為」である。自殺の多い秋田県で、自治体まで「自殺」をしてどうする！？というのが、私の話の「落ち」であったが、少しブラックジョーク過ぎたと「反省」をしているところである。

<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070325.jpg" width="400" height="300" alt="秋田県のいたるところに展開するイオングループ"></p>]]>
        
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    <title>読売「統一地方選・首長アンケート」（３月１５日）を読む</title>
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    <published>2007-03-15T21:38:55Z</published>
    <updated>2007-03-15T23:04:46Z</updated>
    
    <summary>●読売新聞（３月１５日付け）が「『小泉改革で中央・地方に格差』…読売首長アンケー...</summary>
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        <name>行方久生</name>
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            <category term="地域経済" />
            <category term="地方自治全般" />
            <category term="政治問題" />
            <category term="財政・金融問題" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://jilg.jp/blog2/">
        <![CDATA[●読売新聞（３月１５日付け）が「『小泉改革で中央・地方に格差』…読売首長アンケート」という記事を掲載した。ネットに配信されたものはわずかであるが、まず引用をしておく。

************************以下引用***********************
　「４月の統一地方選を前に、全知事、市区町村長の計１８８２人（２月１日現在）を対象に読売新聞社が行った「全国自治体首長アンケート」で、全体の９割が「小泉改革」によって中央と地方の格差が広がったと感じていることがわかった。
　選挙の争点となる重要政策課題では、財政再建や地域経済の活性化が上位に挙げられるなど、厳しい財政、経済事情の中、やりくりに苦悩する首長の姿が浮かび上がった。
　アンケートは、インターネットの画面で回答する方法で、１月末～２月末に１７１８人から回答を得た。
　統一地方選で争点になると考える重要政策課題（複数回答）で、一番多かったのは、公的介護保険や医療、少子化対策などの「福祉政策」（６４・８％）だったが、「地方財政の再建」（６３・７％）、「雇用・景気対策など地域経済の活性化」（５７・６％）がわずかな差で続いた。
　三位一体改革や規制緩和などの「小泉改革」で、格差が広がったかとの問いには、「そう思う」が５４・８％で、「どちらかと言えばそう思う」と合わせると８９・２％に上った。格差を感じる首長の割合は、人口規模が小さいほど高く、５０００人未満の自治体では９６・２％が格差の広がりを認めたが、５０万人以上では７５・９％にとどまった。
　また、地域経済の実感に対する質問では、「上向いている」との回答は２１・２％。これに対し、「悪化している」が２７・５％、「変わっていない」が５０・７％を占め、冷え込んだ地方経済のてこ入れに腐心していることをうかがわせた。」
************************引用終わり**********************
　
<strong>Ⅰ）格差とはなにか。格差は拡大しているのか。</strong>

　さて、実際のアンケートに関する記事は２面ぶち抜きという大変に大きなものであるが、まず引用部分の内容について若干のコメントを行っておきたい。首長アンケートは、あくまで首長の印象といったものであるので、実際の自治体の姿とは「若干異なる」かも知れない。しかし、上記の内容は、恐らく「実態」をかなりの程度「反映」しているように思う。
　特に、三位一体改革や規制緩和などの「小泉改革」によって、地方間格差が広がったという認識を多くの首長が共有している点は、重要であろう。約９割の首長、小規模自治体に限っていえば96.2％であるから、殆どの首長が格差拡大を認識していることになる。

　この「格差」については、この１年～２年の間にすっかり「社会的」用語になってきた。所得格差、社会格差をはじめ、ワーキングプア、ヒルズ族など格差を象徴する流行語もかなり多くなった。
　ところが、この「格差」について、その実態や評価をどうみるのかということになると、意外に難しい問題になる。今回のアンケートは、あくまで「印象」であるから、何を指標にして格差が拡大したとみるのか、各首長によって、その把握内容は異なると思われる（それでも、なおかつ「格差拡大」を認識しているという「共通項」の存在は重視すべきであるが）。

　この「地方格差」については、自治体運営という視点からみれば、かなり真実に近いと思う。また、地域ごとの所得格差などをみれば、全体の格差が拡大していることを反映して、かなり実態に近いと思う。最近では、<a href="http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070306-00000134-mai-bus_all">毎日新聞（3月6日付け）</a>にこの問題が掲載されていた。
　「内閣府が6日公表した04年度の県民経済計算によると、都道府県民１人当たりの県民所得は、全国平均では297万8000円（前年度比0.3％増）で２年連続で前年度を上回ったものの、地域間の格差を示す「変動係数」は3年連続で上昇し、15.57％となった。01年4月に誕生した小泉政権下で、地域格差が拡大していたことを示している。･･･」と。

　また、<a href="http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/etc/kakusa/">同紙２月４日付け</a>では、「99～04年の全国の市区町村の納税者１人あたりの平均所得に関し、格差の度合いを示す『ジニ係数』を年ごとに割り出したところ、02年を境に上昇したことが３日分かった。ジニ係数は毎日新聞が東京大大学院の神野直彦教授（財政学）の協力を得て割り出した。平均所得の最高値と最低値の差は３・４０倍から４・４９倍に拡大、小泉純一郎前政権の間に地域間格差が開いたことを示した。神野教授は『感覚的に論じられてきたものを初めて定量的に示せた』と指摘しており、地域間格差は４月の統一地方選の主要争点になりそうだ。」と指摘をしていた。読売のアンケートでも、こういった現状が追認されたと言えるかもしれない。

　ただ、上記の「格差」という認識で、誤解しないようにすべきことは、都市部の「住民」の生活が地方の「住民」の生活より、「豊である」「豊かになった」というものとは異なるという点である。「平均所得の上位はほとんどが大都市部。０４年には東京２３特別区のうち９区が上位２０自治体に入った。これに対し、下位は軒並み高齢化の著しい町村部。最高値と最低値はそれぞれ、９９年は東京都港区の７５１万円、秋田県東成瀬村の２２１万円で、０４年が港区の９４７万円、北海道上砂川町の２１１万円だった。」という記事からも理解できるように、あくまで「格差」は「平均値」の拡大によって裏づけられた数字である。
　港区のように、六本木ヒルズをはじめ高額所得者が集中し、ガイジンなども多い地域でも、高齢者が豊かな老後を送っているかどうかという事などを調査すれば、それが「妄想」であることが理解できるだろう（この点は、『自治と分権』２５号の対談：唐鎌直義×河合克義「いま、国民生活・自治体はどうなっているか」 などを読んで頂ければ幸いである）。

　また、都市部と農村部（地方）の物価をはじめとする「生活費」（生活スタイルの差からくる出費）の「格差」も大きい。いわゆる「東京一人勝ち論」などは、こういった大都市部の住民の生活苦などの視点が「スッポリ」と抜けた議論であり、都市と農村の「対立」を煽る議論に利用される恐れすらあるわけである。
　というわけで、ジニ計数などに基づく「格差論」には注意が必要である。このことを前提にすれば、神野教授等の作業は正しいと思われるし、政策的対応が必要な事も明確だろう。

<strong>Ⅱ）国と自治体の財政関係ー自治体財政の逼迫</strong>

　多くの首長は、自治体経営が一層困難に陥りつつあることを、正確に認識しているようである。特に、小規模自治体の首長にあっては、深刻である。読売のアンケートで「なるほど」と思ったのは、日本全体で、財政状況「厳しい」と回答した首長の割合が、「90％以上」「80％～90％未満」･･･「60％未満」という分類で、日本地図が色分けされているのであるが、最後の60％未満は東京だけである。そして、その一つ上のランク「60％以上７０％未満」は神奈川から愛知までの「太平洋ベルト」地帯のみ。そして、それに新潟や岐阜、北関東などが続くという「色分け」になっている。地域経済の状態について「悪化」という認識は、北海道が一番高く60％を超えている。これに四国や九州が続く。
　常識と見事に「一致」しているのではないだろうか。これは、ある意味で小泉構造改革の「たまもの」である点が重要である。つまり地域経済の状態→自治体の財政状態→自治体経営の困難化という「三位一体」現象が強化されたということであろう。従前は、この「→」（矢印）は地方交付税や補助金の配布によって、地域間の所得再分配によって、ある程度「緩和」されてきた面がある。
　しかし、小泉構造改革は３兆円の税源移譲に伴って、約６兆円の地方の財源の「召し上げ」を行ったのである（多少、景気回復による交付税額の低下という「客観的」な側面が伴うが）。この点については、拙稿<a href="http://jilg.jp/blog2/cat8/post_117.html">地方財政の変容―構造改革の帰結と問題点①</a>を参照して欲しい。

　案外、国は「ちゃっかり」と地方を犠牲にして、自分の歳出を確保しているのである（と言っても、社会保障関係は目の敵であったが）。

　首長アンケートを見ると「地方分権を進める上で不可欠な条件」という質問があり、トップは「税財源の充実」86％、続いて「国と地方の役割分担」「地方への権限の移譲」となっている。なんのことはない、役割分担や権限の移譲などを通じても、地方への財政圧迫は貫徹されるから、分権が進めば進むほど、地方の財政、台所は苦しくなるという「だけ」の話になっている。これが「地方分権」の真の姿ならば、地方分権などは「いらない」ということになるだろう。なおかつ「分権推進」というなら、この大前提を覆す必要があるわけだ。その前提なしに、「分権」だけを主張することは、まさに「自虐的」発想であろう。
　ところがこの「自虐的」発想をし、推進している勢力もある。全国知事会などがそれに該当する（今回は、深く触れないが）。

　読売の今回のアンケートについて、北川正恭氏がコメントを寄せている。「自立促進がポイント」であると。「自立」した瞬間に「死」に到る自治体が多い中で、結構なコメントである。いい加減に「自立」の大安売りはやめた方が良い。地方交付税や国庫支出金を貰っているからと言って「自立」していないわけではない。所得がない障害者から負担金を取り、「支援」と言い、「自立」を迫る国であるから、「自立」というタームは余程、時の支配層にとって都合のよいものなのだろう。

<strong>Ⅲ）その他、気づいたこと。</strong>

　読売アンケートは大変に面白かった。統一地方選挙の争点では「福祉」「財政再建」（実は「福祉」とバッティングしてしまうのであるが）「地域の活性化」（財政再建とバッティング）の次に「教育」が高く、45％となっている。これは、国が教育への介入を強めようとするなど（ある知事は「文科省の焼け太りだ」と吐き捨てるように述べた－その通りだろう）、地方の警戒心が強まっていること。また、小泉構造改革の犠牲者が子どもであったことが、客観的に（主観的には違うが）示されている点に興味を持つ。

　談合については、悲観的である。公務員制度改革については「実力主義の貫徹」と。マスコミの影響の強さを示すアンケート結果になっている。道州制について、「賛成」19.5％、「どちらかといえば賛成」28.6％と双方で48％になっている状況は、ちょっと「恐ろしい」ものを感じる。それだけ、現在の地方自治の実態が閉塞しているということだろう。具体的な「広域行政」のあり方への提起が求められているように思う。その他にもおもしろい論点が沢山あるが、今回はこの辺で。

<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070316.jpg" width="400" height="300" alt="土佐清水市の漁港＝市場"></p>]]>
        
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    <title>地方財政の変容―構造改革の帰結と問題点②</title>
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    <published>2007-02-27T12:44:41Z</published>
    <updated>2007-02-27T15:45:55Z</updated>
    
    <summary>★地方財政の変容―構造改革の帰結と問題点①につづく。 　以下は、「建設政策」に掲...</summary>
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        <name>行方久生</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://jilg.jp/blog2/">
        <![CDATA[★地方財政の変容―構造改革の帰結と問題点①につづく。
　以下は、「建設政策」に掲載した同名の論文の後半部分である。


<strong>Ⅱ）2007年度地方財政計画と住民生活</strong>
　安倍内閣の2007年度予算と地方財政計画をみると、上記のように国から地方への負担の転嫁と地方財政の縮小が続いている。2007年度地方財政計画の特徴をみると、概ね以下の諸点を指摘できる。

①地方財政計画はほぼ前年並みの83兆を確保したものの、地方一般歳出は△1.1％の減となっている（８年連続の減少）。これは、社会保障関係を中心にして約5000億円の増加要因があるにもかかわらず、教職員の減や、給与関係費の減（合計4300億円）、投資的経費（単独事業）の3％（3000億円）の減がこれらを上回るためである。

②地方税が15.7％増加見込みの中で（5兆4700億円の増収見込みのうち、従前の所得譲与税の皆減分3兆円をさし引いても、2兆5000億円近い増収見込み）、地方財政計画と「決算」との乖離是正を加味すると、一般行政経費△0.9％、投資的経費（単独事業）△3.0％とするなど、デフレ型の歳出構造を維持している。

③さらに、地方交付税については、交付税特別会計からの新規借入を廃止し、6000億円近い過去の借入の償還を行っている（18年度補正予算より）。地方財源不足額は、対前年比で半分程度に減少し、４兆4200億円であるが、財源対策債と臨時財政対策債等でカバーし、国の折半負担は新たに生じない状況になっている。全体として交付税は、△4.4％の15兆2027億円と対前年比で7000億円以上減少している。これは、地方税収の伸びの要因もあるが、地方財政計画全体の縮小路線が貫かれており、一般財源が過小に見積もられている要因が大きいだろう。

④国も地方も税収増への対応は、国債や地方債の圧縮など「借金返済」にあて、市場化への対応を強化している点に特徴がある。「財政再建重視」と「市場化重視」のスタンスである。

⑤自治体では、以上の結果として、住民サービスの切り捨てや職員削減＝事務事業のカット、行政の民間化・市場化が飛躍的に推進されることが予想される。

<strong>Ⅲ）地方分権と地方財政危機―戦後最大の危機に直面する地方自治・住民生活</strong>
　国の歳出面における小泉「構造改革」（三位一体改革に対応）の結果は、歳出抑制が追求され、2004年度には年金制度、医療制度（診療報酬・薬価切り下げなど）、生活保護の見直しが進められ、2005年度には介護保険における利用者負担の見直し等、国保制度への都道府県負担の導入、2006年度には医療制度における利用者負担の増大、後期高齢者医療制度導入や介護報酬改定による医療費抑制などが実施されている。
　先に、国と地方の歳出純計の図によって、国の実質的歳出が地方への負担転嫁によって行われていることをみたが、社会保障費の「自然増」に対する本格的な切り込みが、今後予想される。これが「歳出入一体改革」の本質であり、プライマリーバランス黒字化の本質である。
　公共事業の一層の「抑制」に国民の関心が高いことは、相次ぐ知事の談合汚職などへの怒りが背景にあるが、日本の公共事業の対GDP比はフランスなどと大差ない状況に既に至っている。小泉内閣時代に発行した国債の大半は「赤字国債」であり、経常経費を削減しない限り（増税による対応もあり得るが）、これを減らすことはできない構造になっている。
　自治体の方はと言えば、夕張市にみられるように、財政「破綻」をきたす例が既に発生し、「夕張ショック」などと言われている。夕張市は、確かに様々な特殊事情（旧産炭地で人口が１９６０年代初期には１０万を超えていたものが、国の産業政策の転換などによって、現時点で人口１万３０００人であるとか、国のリゾート開発から観光重視まで、多くのミスリードと自治体自身の「粉飾」決算を指弾されるなど）があったが、財政問題としてはごく「例外」ということもできない。
　今後予想される、自治体財政危機の「早期是正」制度などによって、新しい「指標」（実質赤字比率、連結実質赤字比率、実質公債費比率、将来負担比率）が導入され、これの一つの指標でも国の「指定基準」をオーバーした場合、夕張市が再建計画に盛り込もうとしているような、住民生活の切り捨てによる「財政再生計画」や外部監査が強制されることになる。そういう意味で、「第２の夕張にならない」というスローガンは、財政の健全性を守るスローガンにみえつつ、実際のところは、住民生活を「切り捨てる」リストラのスローガンになりつつあるのである。

　こういった「恐怖」による自治体管理は、「財政再生制度」確立の名の下に、総務相による予算変更勧告すら予定されており、実質的に「地方自治」とは名ばかりのものとなる。
　元来、「地方財政危機」というのは、財政収支のバランスが崩れ、赤字が発生するというような「現象」によって、その本質が現れているわけではない。現に、夕張市においても、現実の赤字決算転落には、観光事業などの「過大」な投資のツケが累積したというだけではなく、国の三位一体改革によって、地方交付税が大幅に減少するという「政治的・政策」的な対応を「契機」としている。
　財政危機の本質は、「地方自治」の後退であり、住民生活の危機である。地域産業など地域の経済的基盤が低下・崩壊し、所得が減少し住民生活の低下や負担の増大がみられるなど、その基盤が危殆に瀕することなのである。
　そうであるならば、財政危機のからの早期是正や「再生」の名の下に、更なる負担を住民に転嫁する方式は、財政危機の「深化」以外のなにものでもないということになる。「本末転倒」とは、こういうことをいうのである。

　このような状態が「三位一体改革」や地方分権の「帰結」であり、いま自治体は、市町村合併→道州制などの「自治体再編」と財政危機対応の行政民間化の双方による「自治の空洞化」に直面しているのである。筆者が「戦後最大の地方自治の危機」と述べるのは、以上のような認識をベースにしている。
　夕張市の問題が、実に「タイミングよく」、政府の「財政再生制度」の策定に見合った時期に発生したことは、単なる偶然ではなく、この政策方向に具合よく事態を流し込み、全国の自治体を萎縮させる効果をもつ。いま、自治体は本来の機能を取り戻し、住民生活の「砦」としての役割を一層強くはたす方向をめざすべきなのである。

<strong>蛇足</strong>
　夕張問題については、筆者は、『自治と分権』第２７号（４月発売）に、「夕張市『財政破綻』問題の論点と自治体の危機」という小論を書いたので、参照してほしい。現在、夕張市の住民を励ます視点から、様々なボランティア活動、カンパによる成人式、映画祭の実施などが全国的な関心の下にすすめられている。政府は、こういった事態の下で、あまり「見せしめ的」に夕張を活用できない状況になっているが、同時に、こういった「支援」によって財政危機を克服できるものでもない。それは、やや性質の異なる問題群なのである。政治・政策的に引き起こされた「財政危機」「破綻」は、やはり政治的に解決をしなければならない。小規模自治体を「非自治体化」する方向が示唆され、現実に、市町村合併の一層の強制や、道州制の導入などが喧伝されている現在、「自治」の単位を守り、住民生活を守る姿勢を堅持する必要がある。旧来の農村共同体などの「再生」など、地域コミュニティの再生は地域を再生していくベースになるものであるが、財政危機に対応する手段ではない。もし、これが財政危機に対応した危機「打開策」となれば、それは「小さな政府」「小さな自治体」「非自治体」をめざす政府の掌中に陥ることになる。
　「財政危機」からの脱却は「小さな政府」をめざすなかからは展望はでない。反対に、本格的な福祉国家をめざす路線への転換なかで、その財政政策として、脱却の方向を見定める必要がある。
　ボランティアや様々な支援の活動が活発化するにつれ、それが政治的にどういう方向にむかっていくのか、十分な検討が必要になってくる。
　ある意味で、夕張問題で一番重要なのは、この点かも知れない。
<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070227.jpg" width="400" height="300" alt="うしろからみた足摺岬のジョン万次郎像"></p>

*****************************************************
　写真は、足摺岬にある<a href="http://www.city.tosashimizu.kochi.jp/john/default.htm">ジョン万次郎</a>の銅像です。かれが作成した「英会話」の辞書（本邦初）も写真に撮ってきましたので、そのうち公開をします。

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    <title>地方財政の変容―構造改革の帰結と問題点①</title>
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    <published>2007-02-25T15:55:22Z</published>
    <updated>2007-02-25T16:22:01Z</updated>
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://jilg.jp/blog2/">
        <![CDATA[★この拙稿は、『建設政策研究』に掲載した論考に一部手直しを加えたものである。「三位一体改革」について、アバウトな総括を行い、②において、2007年度の「地方財政計画」のポイントについて、批判的に検討し、安倍内閣の下で推進されている「地方分権」の怪しさについて検討を加えた。ごく、短い論考のため、若干「詰めて」かいてあるため、わかりにくい点があるかも知れない。ご海容をいただきたい。

*****************************************************
<strong>はじめに</strong>
　本稿では、最近の地方財政の変容、とりわけ小泉構造改革によってどのような変化が生じ、また安倍政権がこれをどのような形で継承しようとしているのかについて、「三位一体改革」の評価や地方財政計画等を中心にして、問題点を簡単にサーベイすることにする。
　事実関係を中心にして検討するが、「構造改革」＝新自由主義政策のもとで、「地方分権」が様々な勢力によって無批判に追求されていることが、「地方」をして住民生活をカットする「マシーン」と化し、同時に国が医療・年金などの社会保障改悪に本格的に「専念」できる条件を醸成しているという問題意識を背景にしている。すなわち、新自由主義的「地方分権」の本質が、「分権型福祉破壊国家」を促進する重要な要因になっているという認識である。
　全国知事会などが、自己否定とも受け取れる「道州制」を論じ、自己決定、地方の裁量度の拡大、自由度の拡大、自立と責任などを標榜しつつ、自民党の改憲構想に「便乗」して、地方制度を「改革」しようとする姿勢などは、以上の状況に対応した危険な動きである。
　これらの状況から、実践的に導き出される結論は、憲法擁護の運動と地方自治、住民生活の擁護を一体的に推進し、憲法の「平和的生存権保障」を担う自治体への「転換」を、住民運動やオルタナティブの提起によって追求することの重要性である。

<strong>Ⅰ）三位一体改革の「結果」をどうみるか</strong>
　いわゆる「三位一体改革」は2002年の「骨太方針2002」に登場し、「骨太方針2003」によって、方向を決定づけられたものである。そのポイントについては「『官から民へ』、『国から地方へ』の考え方の下、地方の権限と責任を大幅に拡大し、国と地方の明確な役割分担に基づいた自主・自立の地域社会からなる地方分権型の新しい行政システムを構築していく必要がある。このため、事務事業及び国庫補助負担事業のあり方の抜本的な見直しに取り組むとともに、地方分権の理念に沿って、国の関与を縮小し、税源移譲等により地方税の充実を図ることで、歳入・歳出両面での地方の自由度を高める。これにより、受益と負担の関係を明確化し、地方が自らの支出を自らの権限、責任、財源で賄う割合を増やし、真に住民に必要な行政サービスを地方自らの責任で自主的、効率的に選択する幅を拡大する。同時に、行政の効率化、歳出の縮減・合理化をはじめとする国・地方を通じた行財政改革を強力かつ一体的に進め、行財政システムを持続可能なものへと変革していくなど、『効率的で小さな政府』を実現する。」と述べられている。
　また、その改革の「望ましい姿」として①地方の一般財源の割合の引上げ②地方税の充実、交付税への依存の引下げ③効率的で小さな政府の実現が指摘さている。
　「三位一体改革」は、一般的に税源移譲と国庫補助負担金の削減をセットで実現し、合わせて地方交付税改革を行うことと言われているが（自治体の市場化を促進・決定づける地方債の市場化＝自治体の市場原理主義的運営を含むが）、上記引用にもあきらかなように「地方交付税の削減」が明確に述べられている点が注目されるべきである。
　さて、2004年～2006年の３年間（実際には2003年の「改革」を一部含めるが）に「補助金改革」（国庫補助負担金の削減と補助金の交付金化）として4兆6661億円が削減された。これは、「国の関与の最大の根拠」と言われてきた補助金を削減することによって、国の地方への関与を縮小すると説明されている（もちろん、そういう側面があることは当然である）。そして、これに対応して、3兆94億円の税源移譲が行われた。
　国庫補助負担金の削減の内容をみると、2004年度に「公立保育所運営費等」が一般財源化し、2440億円の税源移譲が行われた。また、同年に「義務教育費国庫負担金」の一部（退職手当、児童手当分）が一般財源化＝税源移譲の対象化となった。2005年度には「国民健康保険等」「義務教育費国庫負担金」の合計1兆1160億円が税源移譲の対象となった。2006年度は、2005年度と同様の手法で6269億円が税源移譲の対象となり、2005年11月の政府・与党合意において三位一体改革の最終結論として、以上に加えて「児童扶養手当、児童手当、施設整備費」が税源移譲の対象（一般財源化）となり、6106億円の移譲となった。
　これらが、「国庫補助負担金の削減」の内容であるが、義務教育費国庫負担金の削減（補助率二分の一から三分の一へ）や児童扶養手当・児童手当の削減は、多くの議論を呼び、国の「ナショナルミニマム保障」の後退であると批判をされたことは記憶に新しい。
　義務教育費国庫負担金の削減を「補助率の削減」という手法で行ったことへの批判も大きかった。ただ、地方６団体の補助金削減要求のリストに「地方分権促進」の立場から、義務教育費国庫負担金の削減があげられていた点は、内部での議論が割れたことも含め、十分な総括が必要であろう。地方の中には、義務教育が地方の「自治事務」であることを強調し、地方教育委員会の廃止や首長の権限強化などと共に、義務教育費の財源を地方に全面的に移譲することを要求する潮流も大きい。ここでは詳細は省くが、少子高齢化の進行の中で、小中学校の統廃合が進行し、地方によっては義務教育費の逼迫が予想される中で、国が財源も含めてどのような「保障」を行うべきか、真剣に議論する必要があろう（この点については、拙稿「義務教育費国庫負担金の一般財源化と自治体再編─公教育費の動向と『三位一体改革』─」、『自治と分権』第17号、2004年10月を参照）。
　注目すべきことは、以上のような補助金削減→税源移譲に関する国＝地方の「協議」の中で、生活保護費国庫負担金の削減（補助率削減）などが繰り返し持ち出されたことである。また、地方が要求もしなかった児童扶養手当の削減などが実際に行われたことや、国民健康保険に都道府県の財政が投入されるようになったことなども、今後の「一層の地方分権」の行く先をみる上で看過できないものがある。
　さて、補助金改革等が４兆6661億円であるのに対し、税源移譲が3兆94億円であるのは、補助金の交付金化を別にすると、自治体のスリム化＝税源移譲の伴わない補助金の削減が約１兆円ほどあることによる。つまり、税源移譲と補助金等の削減は「見合う」ものではなかった（当初より義務的なものは１０割、任意のものは８割とされていた）のである。
　次に「交付税改革」について述べておきたい。先に指摘しておいたように、地方交付税は「削減」が目標となっていた。交付税の削減は「地方財政計画」の縮小をベースにして、つまり地方の財政支出の縮小によって、これを担保する地方交付税を削減するという手法がとられた。
　小泉政権になって以降、2002年度は小規模自治体への「段階補正」「事業費補正」（公共事業対応の地方債の後年度交付税への措置）の縮小で0.8兆円の減少、2003年度は県の留保財源率の引き上げ（20％→25%へ、一般的には都市部自治体が有利と言われる）等で1.5兆の減少、2004年度は三位一体改革の初年度であるが、これが衝撃的で1.2兆円の削減（臨時財政特例債を含めると2.9兆円の一般財源の縮小ということになる）、2005年度はその反動で総額維持（臨時財政特例債は１兆円の減）となったが、2006年度は地方財政計画における予算と「決算」の乖離の縮小などを含め１兆円の減（臨時財政特例債を含め1.3兆円の減）となった。つまり、三位一体改革中に総額（一般財源）で５兆円以上の減少となっている（臨時財政特例債は一般財源「等」に含まれる）。
　このようにみてくると、三位一体改革中に国から自治体への移転財源は6兆円を超える「減少」となったわけである。
<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070226.jpg" width="440" height="300" alt="国と地方の歳出純計の推移ー図－１"></p>
　そこで、以上の状況と国と地方の歳出純計の推移（図－１）とを純計連動させて考察してみると、小泉内閣が実際に予算編成を行った2002年度から、地方の歳出純計が減少しており、2004年度まで継続している。また、国の歳出純計は小渕、森内閣にかけて公共事業の拡大を伴ってかなり増大し、その反動から2001年には縮小している。小泉内閣は「小さな政府」を目指したハズであるが、実際には国の歳出純計は殆ど減少しておらず、反対に2004年度は増大を示している。実質的に三位一体改革が開始された（芽出し）2003年以降は、地方財源への圧迫によって、国の歳出純計を維持・拡大している様子が見てとれる。
　2005年と2006年は、厳密な数字は公表されていないが、地方財政の縮小傾向は加速している。2003年から2004年以降は地方税収は拡大しているにもかかわらず、こういった状況を示しているわけで、明らかに政策的な地方財政「緊縮」＝歳出削減の「強制」であると言って差し支えないだろう。2007年度の国の予算と地方財政計画を比較すると、国の一般歳出の伸びが1.3％であるのに対し（国債依存率が37.6％から30.7%に低下している中で）、地方財政計画の一般歳出は△1.1％となっている。
<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070226-1.jpg" width="400" height="300" alt="高知市「司」のカツオのたたき定食＋ヒラメとタイの刺身"></p>]]>
        
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    <title>憲法・観光・漁業の元気な町ー土佐清水市</title>
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    <published>2007-02-22T08:17:28Z</published>
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    <summary>●『自治と分権』の首長インタビューで、四国の最南端の土佐清水市(西村伸一郎市長）...</summary>
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            <category term="憲法問題" />
    
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        <![CDATA[●『自治と分権』の首長インタビューで、四国の最南端の土佐清水市(西村伸一郎市長）に行ってきました。インタビューの詳細は『自治と分権』２７号をご覧になって頂くとして、少し、印象などをのべておきたいと思います。
　
　土佐清水市は、「足摺岬」と言えば知らない人はいないと思いますが、四国の最南端です。インタビューを申し入れた際に、東京からは一番遠い（つまり時間がかかる）所ですよ、と念を押されました。高知の自治労連の書記長に「高知でいま、元気な取組を行っている自治体を紹介して」とお願いしたところ、土佐清水市が良いのでは、ということでお伺いした次第です。
　確かに、時間はかかり（松山空港からレンタカーでかなりとばしました）、足摺岬の国民宿舎足摺テルメ（元は市の直営だったものですが、現在は「指定管理者」で市の１００％出資会社が運営ー担当者も全国から公募した）には日が暮れたころ到着をしました。
　この宿で、じつは美味しいと評判の「清水さば」を食べようと思っていたのですが、不運にも当日入荷しなかったということで、地元の「たびえび」（ぞうりえび）をしょくしました。
　<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070222-1.jpg" width="400" height="300" alt="テルメの夕食"></p>
　上の食事の左上と右上の方にあるのが「足袋エビ」です。これがなかなか身が締まっていて美味しく、また、温泉も良質でお薦めの国民宿舎です。

●さて、翌日の午前中は、市長の秘書課の係長さんに市内を案内して頂きました。ご両親が漁師ということで、最初に案内されたのが、魚市場です。「清水サバ」を生け簀にいれた漁船が、列をなして荷揚げを待っています。漁船から市場内にある大きな「生け簀」まで、若い職員が網に「清水サバ」をいれて、全力疾走します。私たちがみている間にも、何往復もしておりましたから、かなりの運動量（笑い）です。
　市場内には、私のみたところでは、鯖はもちろんのこと、かなり型のよいタイ、ブリやヒラマサ、ハタ、イカなどが荷揚げされており、大きなヒラメの競りなどを行っておりました。
　土佐清水市だけで、１６（？）の漁港があるということで、入り組んだ地形に小さな漁港が沢山あり、自然の良港です。
　
●「海の駅」にも案内をしていただき、ジョン万次郎の活動がわかる記念館もありました。秘書課の方が残念がっていたのは、ジョン万次郎の研究や宣伝が遅れており、沖縄の方が進んでいる。NHKの大河ドラマなどで取り上げてくれるように、働きかけもしているけど、その果たした役割ほど、全国的に名がしられていないということでした。
　ジョン万次郎は貧しい漁師の息子でしたが、船が難破した際にアメリカの船に救助され、その才能を見込まれて一人だけアメリカに「留学」したということですから、余程、あたまが良かったのでしょう。土佐の坂本龍馬や後藤象二郎などとの交友や（英語やアメリカの民主主義、国際情勢などを熱く話し合ったようです）、福沢諭吉の英語の先生でもありました。
　市長にインタビューを行った際も、ジョン万次郎のことが出てきました。土佐の自由民権にアメリカの民主主義を導入した、と。
　英会話の辞書なども自作しており、「海の駅」に展示されておりました。また、アメリカの捕鯨船の船長が倒れた際に、選挙で副船長になったという展示もありましたから、人望や国籍を問わない統率力もあったのでしょう。いまでこそ、なにか四国の最南端で「こんなところから、偉人が輩出しているのか～」と思いがちですが、黒潮が真っ先に接岸する地方だからこそでもあったと思われます。
<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070222-2.jpg" width="400" height="300" alt="清水サバの昼食"></p>
　今回は大サービスで、「清水サバ」の昼食の写真も提供します。これは、「関サバ」より美味しいと地元の人がいうだけあって、確かに大変美味しいものでした。東京ではちょっと食べられないリッチな雰囲気を味わいました（すみません）。

●さて、肝心のインタビューですが、西村伸一郎市長のお話は、漁業振興や農業振興に真剣に取り組まれていること、三位一体改革による財政困難の下でも、経営努力を職員が一体となって行い、介護の一部負担金への補助を継続していることや、中学校までの医療費の無料化（両方とも、四国では土佐清水市のみ）など、福祉に力をいれ、また、教育に力を入れていることを強調されておりました。
　農業では、他の地域と同じようなものをつくっていては生き残れないので、営農指導員を全国から公募して、パイナップルやキャベツ（あまおとめ）の育成や農家指導などを、行政主体で行っていることを述べておられました。
　お話では、「官から民へ」の流れの中で、行政がやることへの批判もあるけれど、漁業や農業の振興は自治体が責任を持たないと、発展できないとキッパリと仰っておられました。実は、秘書課の方にこのパイナップルやキャベツのハウスに案内をして頂き、美味しいキャベツ（小さなキャベツで、そのまま食べると甘い香りがします。当然、その日の夜に美味しくいただきました＜笑い）などを頂戴しました。この場を借りて、御礼を申し上げます。

●西村伸一郎市長のお話の『圧巻』は、憲法や民主主義のお話でした。三橋代表委員（静大教授）が憲法について質問をしたところ、市長室に掲げてある歴代の市長の写真を指さしながら、元市長も「９条の会」の呼びかけ人で、署名も住民の過半数を集めた。憲法擁護、特に９条はこれから国際的にも発展させて、広めていく必要がある。高知県の「勤評闘争」の話まで出て、うれしくなりました。
　ここでも高知の歴史の重みや、ジョン万次郎のアメリカ民主主義の導入などについて力を込めてお話になっておりました。教育も地元でのジョン万次郎について教えるなど、自分たちの地元に誇りをもつ必要を述べておりました。
　今回のブログの題名を「憲法・観光・漁業の元気な町」としましたが、実にバランスが取れており、財政的なやりくりも「巧み」で、行政の手練れという印象を持ちました。
　ぎょろっとした目（失礼）は、一見するとちょっと怖そうな感じがしますが、漁業振興や農業振興、ジョン万次郎などのお話をする際は、目尻がさがり、笑顔が素敵です。
　最後に職員のことについて、若い人を採用して育てることの重要性。住民のために働くことの尊さなどを強調され、給与カットを行っていないのは、四国では自分のところだけだと述べておりました。ここには、行政への自信、職員への信頼が見てとれ、とても頼もしく感じました。
<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070222-3.jpg" width="400" height="300" alt="足摺岬のさま"></p>]]>
        
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    <title>自治シンポジウム―自治体改革は幻想か？―改革再興への道筋</title>
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    <published>2007-02-17T16:12:37Z</published>
    <updated>2007-02-23T01:48:52Z</updated>
    
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            <category term="議会改革" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://jilg.jp/blog2/">
        <![CDATA[●上記シンポジウムが２月１０日に、江東区の清澄公園・大正記念館で開催された。「鼎談」という形式で、松本克夫（前日本経済新聞社論説委員）をモデレーターとして、五十嵐敬喜（法大教授）、片山義博（鳥取県知事）の三名の話であったが、午后１時半から４時までたっぷりと質疑も含めて行われたので、非常に充実した内容であった。
　主催は自治創造コンソーシアム（NPO)であった。シンポジウムの趣旨は「地方分権が進展するとともに、市場主義導入とコスト至上主義が加速する中で、昨年、福島県、和歌山県、宮崎県等の談合問題や岐阜県の裏金問題など「県」を舞台とする不祥事が相次いだ。このような問題は、地方行政への住民の不信感を益々増大させ、分権の逆風となっている。自治体改革は失速してしまうのか。汚職・不祥事の根幹は何処にあるのか。統一地方選挙を間近に控えた今、分権と市民自治の推進に向けて、信頼回復のための改革再興への道筋を考えたい。」ということであった。

●この間の「地方分権」の結果が、「市場主義導入やコスト至上主義」に帰結しているという認識は、全くその通りであり、これを批判しているスタンスは「なかなか」のものと言って差し支えない。同時に、こういった現象が分権改革の障害になっており、分権改革とは「相容れない」ものであること、従って、自治体を舞台に繰り広げられた「汚職や不祥事」などの分権への逆風を「克服」して、更なる分権推進に邁進すべきであるといういう主張を展開している。
　この後者の視点は、かなり「ありきたり」のものであり、何故、分権改革が市場主義やコスト至上主義に帰結しているのか、それは必然的なのか、偶然なのか、或いは、政治的に歪曲されたが故なのか、という視点からの「切り込み」はない。分権は本来、官僚主義や政治的腐敗を根絶する「決め手」になるハズであるという思いこみが前提になっており、分権への反省的分析の視点が欠如している点は、残念である。

●と言っても、自治体におけるこの間の汚職や不祥事それ自体の「原因」を探ることは、実践的には正しいものであり、分権それ自体の「善し悪し」は別にして、この実践的な考察から得るものは大きいと思われれる（一面的な分析に留まらなければ、という前提つきであるが）。
　シンポの内容はこのようなものであり。
①最近の自治体の不正事件の根本を探る。
②自治体の信頼回復の道筋―改革の論点整理
③自治体は真に分権の受け皿たり得るか―改革の提言
　というシンポの組み立てになっていた。
　
　まず、司会の松本氏がは次のように述べた（概略）。
　「去年は自治体に取って厄年だった。３人の知事が相次いで逮捕された。９３年のゼネコン汚職や官官接待を通じた裏金問題があり、いわゆる改革派の知事が出てきて、色々な改革が行われたハズだった。ところが、実際には卒業できてなくて留年したのが実態だった。この１０年間の改革はなんだったのか。朝日新聞が、知事の汚職問題等で何でそうなるかについてアンケートを取ったが、一番多かった回答が「業者との付き合い方」であり、次に「個人の資質」「入札制度の欠陥」「費用のかかる選挙」などであった。日経新聞もアンケートを行った。ここでは、「個人の規範意識」というのが３２人でトップであった。その次に「選挙に金がかかる」「情報公開が遅れている」などとなっていた。まず、お二人のこの辺から感想を伺いたい。」

●これに対し、片山知事は、三人の知事の逮捕、夕張市の財政破綻などの自治体の失敗は、１０年前に卒業したハズであると言われたが、起こるべくして起こった事件であると思う。まともな改革は行われていなかった。官制談合など巷間言われていることは、いずれも議会の承認を得ている。一件ごとの承認を得られないと契約は結べない。つまり、議会は、おかしいと思えば「ノー」といえる。議会でマトモに審議してない、できないことが最大の問題であり、自治法ではチェックのバックアップ機能を持っているはず。
　これが機能していない。だから、アンケートの結果などは表面的な話になっている。夕張の問題でも、借金の３５０億円は、多いけれどもとてつもなく多いというものでもない。問題は「粉飾」を行ったことである。誰がみても予算書をみれば分かるハズ。議会チェックをしてないことが問題。総務省が危険信号をつくるというけれども、議会再生法制でなければならない。自分は、この視点から議会のチェック機能の回復に取り組んだつもり。「根回し」はしないで、イヤなら反対をしてください、説明責任は果たしますということで。

　片山知事の発言では、分権云々の前に、議会の機能という、現行地方自治制度の基本的問題が出てきた。全くその通りであり、国と地方の「分権」などという前に、自治体内の「分権」というか、二元代表制と言われる制度が、議会の麻痺状態のために機能していないという点を、正確に指摘された。
　この背景には、「オール与党体制」などと言われる、地方には保守も革新もないというようなイデオロギーであるとか、また、利益の配分機能さえあれば、知事へのチェック機能など問題にならないという「プラグマティズム」などが地方には蔓延していることが指摘されよう。
　この間の長野県政などに代表されるが、議会と首長の「対決」が始まると、それぞれが「返り血」を浴びることになるが、それなりに（というか、泥試合にもなるが）緊張した関係が構築され、住民から知事も議会も注目されるという「結果」をもたらす。
　こういった議会と首長との緊張関係やチェック機能の発揮が殆ど行われないという「慣行」は、片山氏が述べる通りであろう。分権や地方自治の「根幹」の問題として議会問題を取り上げた「慧眼」は流石であろう。

●さて、五十嵐氏は、公共事業などをめぐって、過去に３回のショックがあった。一回目は、９３年の金丸ショック、宮城、茨城など、政権交代もあり、建設業法について問題指摘をしたが、建設省幹部は「できない」と。二回目は、自治労の全国大会で挨拶をしたが、自治体は共犯者に近い。これを直さないと自治労はつぶれる」と述べてブーイングをかった。三回目が今回の問題。和歌山など、どう考えればよいのか。知事レベルでどうにもならないのであれば、これは構造問題であるが、内部告発（ちくり）で問題が発覚する。宮崎県は警察が動いた。

　というように、お二人は、それぞれの立場から「構造的」な問題を指摘された。これを受けて、松本氏は、「お任せ民主主義」の問題として、中央集権で国から金を持ってきて談合へというパターンを指摘した。自分たちの金が地域で使われているのではなく、補助金、借金のもとでは「ソンした」と思えない体質。国から金、事業を「もってくる」という意識。これがグローバリズムの下で、会社の保障が弱体化して、自治のことを考える必要が出てきた。痛い目に遭わないと改革は起きていない。夕張はその典型でないだろうか。私は「甘い」と言われるけれど、切っ掛けさえあれば、改革はできるという甘い考えをもっている、と。

　そこで、議会と知事の関係について、松本氏は数字をだしていたが、知事の出した条例案が全部通ったのが、２４府県。否決や修正が一番多かったのが、３０件の長野県。２位は１０件の鳥取（爆笑）。三位は９件の高知、香川。５位は７件の岩手。というものであった。
　議員提案は、２００５年でみると鳥取は５件あるが、５０％は３件以下になっている。こういう中で北海道の栗山町の「議会基本条例」などが出てきている。

●その後、色々な話に飛んだが、片山氏の一貫した主張は、地方分権とは究極的には、国がきめたことを自治体で決めるようになることこと、つまり議会で決めることであり、条例を作ることである。金の配分についても、中央から予算で決める。地方議会で決める、これが地方分権であると。
　この主張は、新自由主義的な「地方分権」が、独裁首長のトップマネジメントであったり、思いつきであったりするのと対照的に、議会という組織が首長をチェックしつつ、条例＝制度に基づいて、住民の意思を確認しつつ進めることであるという議論につながる。全くの「正論」であろう。
　日本の地方自治は町村における「総会」を認めている。ギリシャの直接民主主義に似ている。「小さい自治体」で合併しなかったところは、それをやったらいいとそそのかしたが、のって来なかった（笑い。
　議会の選び方、選ばれ方もワンパターン。国民の大半は、被雇用者であるにも拘わらず、議会は殆ど自由業、農業、土木建設業になっていて、大半の人は代表されていない。それに、サラリーマンや公務員は、議員はやれない。もっと、色々な職業をもった人が議会に出られるようにしないと。学校の先生も出たらよい（ここで日野郡民会議の話）。

　片山氏の話は、現在の職業的議員（と言っても、町村の議員は他に職業がないと、食っていけないが）よりも、様々な人が気楽に議員になれるようなヨーロッパ的な議員のあり方を念頭に置いているように思えた。これは大変に難しい問題であろう。何よりも、働き方、生き甲斐、そして、政治を「身近」なものと感じることや、政党のあり方についても関連する。氏は、地域政党を作ってもよいとまで述べていた。

●実は昨年、全国知事会が行われた際に「官製談合等公共調達に係る不正の根絶宣言」（１２圧１８日）が発表されたが、片山知事は、こんなもので根絶できるということは世間の人とたぶらかすことになるので、自分１人だけ署名をしてないと述べていた。また、当初は「決別宣言」であったとも述べていた。

　以上のように、このシンポジウムの目的から「逸れた」のかもしれないが、公共事業や議会と知事の緊張関係などを中心に議論が進んでいって、巷間よくある「一層の税源移譲が地方分権の更なる前進に繋がる」とか、権限の移譲を一層進めるというような、既に国によって地方が絡め取られた古い様式の、「一層」の前進という話にならなかったことは、片山氏（並びに五十嵐氏の）見識の高さだったと思う次第である。

　考えてみれば当たり前のことではあるが、首長が「独裁」的な権限をふるっている自治体に、国の権限や財源を移譲していみても、「ロク」な結果にならないだろう。教育委員会を廃止したり、職員のリストラをやり放題とか、実にくだらない話になることは必定であろう。
　現在の地方分権は、残念ながら、「分権型福祉国家」志向ではなく「分権型福祉破壊国家」志向になっている。「格差」の拡大が拡大再生産され、それが固定化して行けば、成果主義や能力主義の先に、旧態依然たる、かつての学歴主義の再生産すら起こりうるかもしれない。

●「地方分権」などという自由主義的な議論については、よくよくその実態を吟味しつつ、検討を進める必要がある。直接参加や民主主義のあれこれの形態、そして国民主権の実態を拡大しつつ、「自治」という自己統治への道は、まだまだ遠いのであろうか。はたまた、かなり近くに接近しているのであろうか。
　中々含蓄のある問題ではある。

<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070210.jpg" width="400" height="300" alt="自治シンポジウムー自治体改革は幻想か？"></p>]]>
        
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    <title>「そのまんま東」現象と自治体のめざす道</title>
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    <published>2007-02-10T02:36:32Z</published>
    <updated>2007-02-12T12:53:14Z</updated>
    
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            <category term="社会評論" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://jilg.jp/blog2/">
        <![CDATA[●最近、マスコミからの取材やインタビューを受けることが増えている。内容は様々であり、夕張の財政破綻問題や財政問題などが多いが、この前は、あるテレビ局から「そのまんま東・宮崎県知事が選挙を闘った相手の一人である持永哲志氏を副知事にしようという動きがあるが、これについてどう思うか。また、副知事とはそもそもどういう存在なのか、法律や実際はどうなっているか」と言ったことについて、インタビューに応じて欲しいという依頼があった。中々面白そうな企画だとは思ったものの、私自身、持永哲志氏が本当に副知事になるのかどうかなどを確認できる立場にないし、「可能性」の次元の時点で「あれこれ」論評しても実際にそうなるとは限らず、研究者として話すことは一般的な議論にとどまらざるを得ない（政治評論家などの出番か？）と思い、お断りをした。

　さて、案の定、これを書いている時点で持永哲志氏の線は消えたらしく、総務部長の「昇格」などが取りざたされているのが「現段階」である。しかし、もし持永哲志氏を副知事に本当に就任させた場合、これをどのように「評価」するのか、については色々と考えるべきことが多いことは事実だろう。

　テレビのニュース番組を見ていたら、町中の通行人へのインタビューでは、「度量が大きくてよい」という評価組と「相手に取り込まれる」「公約を守れない」という否定組とに別れていた（どちらかというと、否定派が多かったように見えたが）。本当のことろ、どの程度のウエイトで賛成・反対が別れていたのかは不明であるが、ともかく双方の意見があることだけは確かであろう。
　そこで、引き続き番組を見ていたら、「学者」や「前副知事経験者」などが登場していた。栃木県の元知事などは、自分は議会との関係で立場の異なる人を副知事にしたが、仕事を一緒にしているうちに情も移り、随分と本音で付き合ったが、その次の選挙では、完全に裏切られて対立している方を推した。バカをみた、というような話であった。
　また、東京都の副知事経験者は、副知事は実際の「回し」を行っており、非常に重要なポストであると強調していた。その通りだろう。因みに副知事を複数おいた場合（条例事項）、その「順位」を明確にしておく必要がある。順位が明確でない場合、年齢順とかちょっと法律らしからぬことが地方自治法には書いてある。東京都の場合はＶ１～Ｖ３まで順位があり、担当する仕事も労務担当とか、担当局の割り振りとかも決めてある。

●さて、こんなことを前提にして、「一般論」にとどまるが、少し考えみたい。まず、自分が「敵」として闘った相手を、自分の最大の味方である「ハズ」の副知事（法的には、知事に事故ある時はこれを代理し、日常的には補佐する、ということになっている。１人が原則であるが、おかないこともできるし、条例で数を増加させることもできる。また、今回、持永哲志氏の副知事登用が取りざたされたのは、副知事が議会の承認を必要とするという法的な位置づけになっていることと関係しているように思う）に登用するというのは、「本来」はおかしいハズである。
　しかし、いまカッコ書きでのべたように、議会の承認を得ることが必要なため、本当に自分の腹心を副知事にしようとする場合などは、結構、議会からチェックを入れられることが多い（議会へのある程度の「妥協」も必要ということになる）。
　もちろん、石原東京都知事のように、自分の年来の「ブレイン？」をいきなり副知事にもってこようとするような「ブレイン政治」などは敬遠されるし、実際に様々な問題を惹起してきたので、議会のチェック機能は、当然のことながらある程度必要であろう。同時に、どう考えても議会の「嫌がらせ」としか思えないような否決の仕方も散見される（この辺の「綱引き」が今回も注目されたということかも知れない）。

　ここまで言うと、「どっちもどっち」ということになるが、自治体の場合、知事と議会の二元代表制を原理としているので（自治体を「代表」するのは知事であるが）、緊張関係は必要である。問題はその「中身」であろう。田中元長野県知事のように、議会を「守旧派」の「敵」と見立てて、意識的に対立関係を構築して自分への支持率が高まる「手段」にするようなスタンスすらあるわけである。議会と円滑にやろうとすることを、極度に重視すると、実際には自分がやろうとしている（或いは選挙に当たって掲げた公約に違反せざるを得ない事態もある）ことができなくなる可能性も強い。
　東国原知事が、この「どちら」に該当するのか、また、取り込まれるのか取り込むのか、と言った憶測は現時点であまり意味がない。様々な政治的な要因が作用するし、個人の資質もあるし、何よりも彼を支持した有権者の意識も重要な要因となるだろう。

　ところで、最近流行している「マニフェスト」などは、当選したとしてもそれが全部住民から支持されたわけでもなく（当然であるが、マニフェストを緻密にすればするほど、実際には支持されていない政策部分も多くなるわけである。それを選挙で勝利した＜場合によっては１票差でも＞したことをもって、マニフェストが住民に認められたという主張などは、虚構の上に虚構を重ねるものであろう。）、「二大政党制」を前提にした「違い探しゲーム」という次元で割り切った方がよいだろう。
　だから、マニフェストの「すり合わせ」によって、一致出来る点があれば、対立候補であった人を副知事にしてもよい、というような議論もあまり意味がない。元々、五十歩百歩の政策だったということが露呈するだけのものであろう。むしろ、たった一つの争点で（小泉郵政選挙を想起！）、他の部分は殆ど変わらなくても、その争点だけで自民党をパージすることすら可能なのがマニフェストだということにもなる。そうなると、一点でも異なっていることが「絶対的な」な「差異」となるわけであり、むしろマニフェストの役割は、そういう部分にあると言っても過言ではない。

●そういうことで、インタビューは遠慮させてもらって良かったと思っているが、実際問題としては、自分の政敵とまでは言わなくても、「反対勢力に位置する」人を副知事なり助役に据えることは結構ある。結果としてではあるが、現職の知事とその副知事が、選挙戦を戦うケースというのは、かなり存在する。その場合、選挙になる前も一貫して「対立」していたかといえば、そうでもなく、やはり副知事の「職務」としては本当に「補佐」していることの方が圧倒的に多いのである。だから、順序は逆になるが、選挙で対立した人間を副知事に据えることもそれほど「奇異」なことではない、ということになろう。
　少し状況は異なるが、この間、多くの市町村が合併し、その結果、首長の数は大きく減少したわけであるが、新しい市町村長の選挙に当たって、根回しをして、ある首長が長となり、その他の首長は、助役や収入役、或いは教育長などに据えるという「談合」ばりの実態も、全国のあちこちにみられた姿である。
　
　こんな「談合」選挙は「あり」なのかと言えば、やっている方からみると、結構「安全パイ」であり博打をして落選するより「よりまし」ということになる。しかし、住民からみると、これでは合併も出来レース、選挙も出来レースということになり、新しい自治体の将来像をめぐる「選択」などができなくなる。
　もっとも、こういうケースは、合併をめぐって住民投票であるとか、熱心に地域における議論が進んでなかった場合に、より多くなると想像される。
　住民が合併や自治体の将来に大きな関心をもち、様々な運動に立ち上がらないと「談合」成立という危険性が増すという構図であろう。
　また、実際には、選挙戦になっても、それぞれの「地域」を代表して選挙戦になったようなケースでは、地域間の「しこり」を残さないようにという「配慮？」から、落選した候補者を助役などに登用するケースもそれなりに存在してきた。これなどは、ある種の「知恵」と言えないこともないが、やはり「談合型」人事の一例と言ってよかろう。

●そういうわけで、結局は、「どういう県政をめざすのか」という公約レベルや政策レベルの姿勢が、問われるべき最大の問題ということになる。ただ、反対勢力とも議会運営等をめぐって上手くやろうというような発想では駄目なのである。　
　そういう点で「取り込まれる」か「取り込む」かいった力関係もさることながら、最初の政治姿勢の「あり方」が一番重要になるわけである。
　東国原英夫氏が、当選したのは、宮崎県における自民党の「談合体質」が極限まで到達し、しかもこれに対して、「二大政党」であるハズの民主党が対立候補者すら立てられない中で、消去法として浮上した側面と、もう少し積極的に彼の「しがらみのなさ」とか「郷土愛」などの主張に共鳴をした部分と、分類すれば二種類プラスαの対応が基本にあったように思う。
　自民党は余裕をかましていたために（県議会の勢力などでは圧倒的多数が自民）、分裂をして（つまり利害のより直接的な関係を新しい知事に託するということだが）選挙戦に入ってしまったことに、「まんま」と付け込まれたということもできるだろう。

　東国原知事は、宮崎県綾町で行われた「小さくても輝く自治体フォーラム」に挨拶に来て、「秘書からこんなのが来ていますが、どうしますか」と聞かれ、「是非、参加させて欲しい」と述べたと会場で話していた。また、自治体というのは「民主主義の学校だと大学で教わった」とのべ、大きな拍手に包まれていた。時々、笑いをとっていたものの、話の内容は極めて正論であり、真面目な性格・人柄であろうと思わせるものがあった。
　今後、どういう方向に県政が進むか、これはやはり彼の「がんばり」だけではなく、彼を選出した県民が、どういう県政を求めるのか、「参加」型の政治を志向していくかどうかにかかっている。こういった運動なしに、「タレント候補」がその「マニフェスト」を実現できるような基盤はないし、また、県民の要求を正面から捉えることもできないだろう。

　試練に晒されているのは、東国原知事だけではなく、県民こそが試練に晒されているのである。この点が重要であろう。住民の要求と運動こそが、自治体の将来を決定づけるものであり、これは一般論ではなく、具体的な問題なのである。知事には、県民が期待をしている問題に鋭い嗅覚をもって対応して欲しいと思う。少なくても、現時点でその要素はもっていると思っている（冷ややかにみるつもりはない）。

　知事という職業が、住民からいまほど良くも悪くも注目されている時代はない。これは、自治体の将来をめぐる岐路にさしかかっている現在の情勢を反映した、特殊な局面なのである。この自覚が自治体関係者や住民運動に携わっている人たちにも共有される必要がある。そういうわけで、副知事が誰になるかは知らないが、東国原氏が知事になったことや、現状では議会は「野党」が圧倒的多数である下で、どういったイニシアを知事が発揮できるのか、様々な視点から考えてみた次第である。

<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070209.jpg" width="400" height="300" alt="自治体フォーラムで挨拶する東国原英夫・宮崎県知事"></p>]]>
        
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    <title>どこに行く全国知事会=全国知事会の「迷走」</title>
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    <published>2007-01-23T12:55:58Z</published>
    <updated>2007-02-20T15:01:30Z</updated>
    
    <summary>●全国知事会が１月１８日、道州制に関する議論を行い、「道州制に関する基本的考え方...</summary>
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            <category term="地方自治全般" />
            <category term="憲法問題" />
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        <![CDATA[●全国知事会が１月１８日、道州制に関する議論を行い、「道州制に関する基本的考え方」という文書を確認をした。今回の知事会は、道州制のみについて議論するというふれこみであり、事前に色々な憶測があったものの、知事会の事務局ですら、一体どういう議論になるのか予想が立たないというような状況であったらしい。
　まず、全体の目次を示しておくと以下のようである。

*****************************************************
１．はじめに
２．道州制の検討に当たっての全国知事会の立場
３．道州制の基本原則
①道州制は地方分権を推進するためのものでなければならない。
②道州は、都道府県に代わる広域自治体として、地方自治体は道州と市町村の二層制とする。
③国と地方の役割分担を抜本的に見直し、内政に関する事務は、基本的に地方が一貫して担うことで、地方において主体的かつ総合的な政策展開が可能となるものでなければならない。
④役割分担の明確化に当たっては、事務の管理執行を担っている「地方支分部局」の廃止は当然のこと、企画立案を担っている「中央省庁」そのものの解体再編を含めた中央政府の見直しを伴うものでなければならない。
⑤内政に関する事務について、道州に決定権を付与するため、国の法令の内容を基本的事項にとどめ、広範な条例制定権を確立しなければならない。
⑥道州が地域の特性に応じ、自己決定と自己責任のもとで政策展開できるよう、国と地方の役割分担に応じた、自主性・自立性の高い地方税財政制度を構築しなければならない。
⑦道州の区域については、国と地方双方のあり方の検討を踏まえて議論されるべきものであり、枠組の議論ばかり先行させるのではなく、地理的・歴史的・文化的条件や地方の意見を十分勘案して決定されなければならない。
４．地方分権皆生区の推進
５．道州制検討の進め方
①国と地方が一体となった検討機関の設置が必要である。
②国民意識の醸成が必要である。
６．具体的な検討課題
①国のあり方及び国・道州・市町村の役割分担
②税財政制度の在り方
③大都市圏との関係
④市町村との関係
⑤住民自治のあり方
⑥首長・議会議員の選出方法
⑦条例制定権（自治立法権）の拡充・強化
⑧道州の組織・機構のあり方
*****************************************************

●以上のような項目が立てられているが、マスコミの報道を総合すると、道州制そのものに対する「反対」や「時期尚早」という議論もでていたということである。明確に道州制に反対をしていた福島県の佐藤栄佐久前知事などが、公共事業の談合汚職にかかわって逮捕され、また、最も元気よく推進をしてきた木村和歌山県前知事も逮捕されるといった複雑な状況のもとで、全国知事会も大きく揺れてきたことは事実であろう。
　もっとも、これは、いわゆる「改革派」知事が、引退したり（北川元三重県知事、浅野元宮城県知事など）、次回の選挙で立候補しないことを言明していたり（増田岩手県知事、片山鳥取県知事など）ということで、全国知事会が「地方分権」目指して「たたかう」姿勢を後退させているといったような「ありふれた」分析とは異なる。
　もっとラディカルな部分で、全国知事会は「変貌」しつつあると、私はみている。少なくとも、道州制については、過去において最も先鋭的に反対をしてきたのが知事会であったことを思い起こすと、いつ、どういう情勢の下で、どういう「主張」を伴って、道州制の容認或いは推進に変化したのかが問われる必要がある。

●こういった状況については、これまでも何回かこのブログを含めて、自説を述べてきたので、ここでは、ごく簡単に「おさらい」と最近の状況だけを指摘しておくことにする。

①従前の道州制は、都道府県の区域を超えた広域的レベルにおける「効率的開発行政」の規制緩和や許認可の簡略化など、主として経済効率性を求めての財界等の要求をベースにしたものであった。怒濤府県の立場からみると、これは「存在の否定」に結びつき、当然のように自己の存在理由を強調する立場から道州に反対をしてきた。
②１９９０年代の半ば以降の、資本のグローバリゼーションとそれに適合的な地域形成という視点から、地方自治法レベルにおいて、都道府県合併も市町村合併と同じ手法で行うことができるようになったが、従前の道州制論との最大の違いは、道州の根拠が「経済効率性」から「地方分権」に変化してきたことであった。
③地方分権を「それ自体」として肯定的に推進する立場からは、こういった道州制論に反対する理由は見出しがたい面がある。また、地方分権の中には、都道府県から市町村への「分権」という政策も含まれるので、国からの「分権」（地方支分部局の道州・都道府県への「分権」）と都道府県行政の市町村への分権という二つの流れから、道州制を分権改革のある種「必然的」結果として把握する議論が強まってきた。
④第２８次地方制度調査会では、道州制論に関するイニシアの発揮を求めて、総務省サイドから、「地方自治体」としての道州制という発想が強まり、答申においても、地方自治体としての道州制と、道州と市町村の「二層制」という考え方が示された。
　付け加えておくと、そのためには、市町村合併の一層の推進、人口１万人未満の自治体の「非自治体化」や、人口２０万人から３０万人とういう規模への自治体の再編、全国３００自治体（市）という構想などが、公然と或いは非公然に唱えられる状況が出現してきたのであった。
⑤道州制は、単なる都道府県の合併とは異なり、「この国のかたち」に関わる問題群として把握され、例えば最近の日経社説でも道州制の導入と国の省庁再々編成とを一体的に行うべきであるという主張が行われている。北海道の道州制特区などをみると、国の地方支分部局の道州への一方的な吸引という知事会の主張も、現実性からみると「怪しい」部分が多く、国の職員が残るのか、都道府県＝道州の職員が残るのかも不明である。（国の職員が地方公務員になるというならば、道州が地方自治体であることに一定の接近を示すが）
⑥現行の都道府県を憲法上の「地方公共団体」としてみるか、単に地方自治法に規定されている「地方公共団体」としてみるかによっても、状況は異なってくる。この辺の議論は省略するが、自治法によって規定さえすれば、新たに地方公共団体を廃止をしたり、創出したりできるという考え方にはくみできない。
⑦現実に、道州が国と地方自治体の「中間的団体」であろうと、地方公共団体であろうと、「三位一体改革」の現実が示してきたように、現行都道府県の財政的なリストラには一層拍車がかかることは明白であろう。現在、志向されているのは、分権ではあっても「分権型福祉国家」ではなく（小泉構造改革以降）、「分権型福祉破壊国家」としての側面が強い。このような時に、都道府県の自己決定かどうかは知らないが、自己否定＝自虐的自己観を前面に押し出すことは慎重でなければならならいだろう。

●ごく簡略に、現在の道州制を志向する議論をみてきたが、道州制の導入によって、国民生活＝住民生活にどのような「肯定的な影響」があるのかについては、殆ど全く議論の対象になっていない。
　こういった「分権改革」論の怪しさについては、拙論（『自治と分権』２６号）を参照して欲しい（「戦後最大の危機に直面する地方自治・自治体」）。

　さて、全国知事会の「道州制の基本原則」なるものは、第２８次地方制度調査会答申の「焼き直し」である。つまり、地方自治体でなければならないという「前提」をおいて、その存在を「合理化」しているのであり、では、地方自治体とは言い得ない道州が導入される可能性についてはどうみるのか。身体を張って反対するのかどうかなども不明である。
　三位一体改革のように、知事会が要求もしていない補助金の削減〔一般財源化）などが行われた場合は、どういう抵抗を示すのか、この辺も詰めた議論が必要であろう（「前提」が崩壊した際の身のこなし）。

　全国知事会の「基本原則」には、国と地方の役割分担というタームが出てくるが、問題はそう簡単ではない。役割分担とは、法令用語としては地方分権推進法などに出てくるものであるが、日本におけるこれまでの事務配分は、シャウプ勧告による、横割り的な事務配分が実質的に機能できず、いわゆる「機能分担」として、国と地方の相互依存・協力による多層的事務配分として行われてきた。
　役割分担とは、こういった実情を透明かつ簡単な事務配分にするという「含意」をもつものだろうが、実際には、事務と財政の関係も連動性をもっていないし、役割分担の明確化に基づく地方の自己決定権といっても、基地問題など、住民生活に密接に結びついている問題を「外交」問題オンリーに順化し、国の専管事項として、役割を明確化するというのも納得できるものではない。
　自己決定というならば、こういった地域における全ての問題に、住民自治の原理が働く必要がある。それをないがしろにして、「内政」を司ると言っても、実質的には「些末などうでもよい日常的」な問題の尻ぬぐいをするというイメージしか出てこないのである。

●全国知事会が、道州制の反対勢力から推進勢力に変化したことの意味は大きい。
　私もこれまで、様々な視点から道州の問題や、それをめぐる政治配置についてのべてきたが、機会を改めて、グローバリゼーションと地域再編の問題を、日本の地方の衰退問題と合わせて論じてみたい。

<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070209-2.jpg" width="400" height="280" alt="真鶴うに清舟盛り"></p>]]>
        
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    <title>自治を究める『読書法』（ガバナンス１月号）に寄せて</title>
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    <published>2007-01-08T13:55:05Z</published>
    <updated>2007-01-08T13:56:49Z</updated>
    
    <summary>★新春なので、「軽い」話題を。『ガバナンス１月号』にスキルアップ特集として「自治...</summary>
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            <category term="書評" />
            <category term="社会評論" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://jilg.jp/blog2/">
        <![CDATA[★新春なので、「軽い」話題を。『ガバナンス１月号』にスキルアップ特集として「自治を究める読書法」が掲載されている。これは「対談」の部分と３１人の識者アンケートからなっており、「自治体職員にお薦めの３冊」ということで、３１人の識者が、それぞれ３冊づつお薦めの書籍を紹介しているものである。
　なお、このお薦めの言葉は印刷物としての『ガバナンス』には掲載されておらず、「ぎょうせい」の<a href="http://www.gyosei.co.jp/home/topics/gover07010.html">「ガバナンス」</a>のＨＰにのみ掲載されている。
　詳細は、これをご覧いただきたい。ここでは３１人の「選び方」には論評を加えないが、その内訳は学者が１２人、首長が１４人（知事が６人、市長が８人という組み合わせ）、ジャーナリスト等が４人、官僚が１人となっている。ただ、学者でも元自治体の首長であるとか、自治体職員、ジャーナリストなどが含まれており、「純粋」な学者は数字ほど多くはない。これは、これらの「業界」が最近では、かなり錯綜して、人的にも交流が激しいことを物語っている。
　また、学者も色々な立場の方が含まれているが、政府の審議会や、地方団体関係の研究会、各自治体の政策立案などに関係している方が多い。つまり、自治体に何らかの関係をもって「仕事」をしている人を３１人選出していることになる。

★ざっと、こんなことを頭にいれて、それぞれの「３冊」を一瞥して欲しい。これを読みながら、「自分だったら何を紹介するかな～」と考えると結構悩ましい。専門の立場からレベルが高いと思った「学術書」は、自治体の職員への紹介であるから、相応しくないが（しかし、平気で一般の自治体職員にはちょっと読みこなせないだろうと思われる本を紹介している方もいる＜笑い）、地方自治とはあまりに範囲が広いので、一般向けとなると焦点が定まらないことになる。
　そういうわけで、立場の相違を超えて、それ以上にご推薦の「３冊」が共通していない。逆にいうと、この１年間をリード（推薦はこの１年に限られないが）したような「自治関係」の書物が意外に少なかったということなのかも知れない。
　この数年間は「地方分権」とか「三位一体改革」とか、ともかく自治体の性格や運営が大きく変わろうという時代であることは間違いないので、このような内容で「ぴたっと」情勢にフィットした書籍があれば、多くの人が共通して推薦していることだろう。逆説的だが、既に述べたように、共通した認識が形成されていないということが各人の推薦書がかなりバラけていることに示されているのではないだろうか。

★と、我田引水的に、「地方分権論」や「三位一体（痛い）改革」への共通の理解がないという持論に引きつけておいて、全体を眺めてみる。
　憲法書はともかくとして、『街道をゆく』（司馬遼太郎）、『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』などは、私も読んではいるが、恐らくこういうものを推薦することを「期待」されていないと判断してパスするだろう。つまり、こういう本をあげている方は、自治というより、もっと広く人間の組織の在り方や運動の教訓を自治体或いは自治は、吸収すべきだというようなメッセージを伝えたかったのであろう。『小説　上杉鷹山』なども、江戸時代の財政再建と「なせばなる、なさねばならぬ何事も、ならぬは人のなさぬなりけり」（このフレーズは子どもの時から、祖母にイヤという程聞かされ、耳にタコなのであるが）というような人生訓と財政運営の極意を時代を超えて考えるというメッセージであろう。と、善解しておく（笑い。
　『貞観政要』とか『全訳　為政三部書』などは、私はマトモに読んだこともないので、何で、こういったものがあげられているのか理解もできない（苦笑）。

　さて、そうは言っても、推薦された著者のレベルで見ると、一番多いのが<strong>松下圭一</strong>であることに驚かされる。未だに大きな影響をもっていることだろうか。取り上げられている本は、色々であるが、かつての革新自治体の理論的なリーダーの一人として、大きな役割を果たした松下氏の議論が今日の段階で、なお「新鮮さ」を失っていないのであろうか。それとも、大きな視点で歴史的に今日の自治体の水準、到達点を俯瞰する議論をできる学者が少ないということなのだろうか。
　という私も、松下氏の著作については１９６０年代から始まってかなり読んでいる。大衆社会論やシビルミニマム論などは、ある意味で時代を「先取り」した議論であり、マルクス主義や社会主義の「現状」への理解をベースとしてもっていただけに、今日の議論に示唆を与えるものも少なくない。当時の「マルクス主義」の側からの批判の方が、色がうせ、また事実の前に説得力がないことも、氏の議論の意義を浮き立たせているようにも思う位である。
　最近の著作では、１９９６年の『日本の自治・分権』などを見ると、かつて『シビルミニマム論』において、
「都市が全般的生産様式となった工業社会における社会主義は、『自由の王国』である個人自立の物質的基礎としての『必要の王国』におけるシビルミニマムの確立なくしてありえない。賃金プラス社会保障・社会資本・社会保健の水準上昇なくしては、コンミューン論ないし疎外論も空転するのみである。生産力の増大がもたらす市民的自発性と、科学を前提としたシビルミニマムの保障あるいは基準上昇を追求することによって、はじめて哲学は政策となることを見逃してはならない」というような議論からは、かなり遠ざかっている。時代の変化の反映であろうか。
　最近の著作で松下氏が「分権」という用語を、かなり気楽に使用していることも気になっている。上記の『シビルミニマム論』の「直接民主主義の論理と社会分権」の節に見られるように、「分権」という用語を、単に国の官僚支配に対する自治体への「分権」というような平板なものではなく、「社会分権」という概念で民主主義の分節化の文脈で捉えていた。つまり、「国家主権」に対する「社会分権」であり、国家に抵抗するものは、自治体のみではなく、労働運動や市民運動、大学、職業団体なども含めた大衆組織の活性化（直接民主主義）に対応した「社会分権」だったわけである。

★さて、１９９９年の『自治体は変わるか』は、何人かが推薦書にあげているが、この辺になると、理論と実践を合わせ提起するという松下氏の議論の作法も多少変化をして、かなり「実践的」に今日的な自治体運営についての発言が強まっているように思われる。「都市型社会における成熟改革」が分権改革なのであり、熟柿がおちるように実現するという理解から、国際化における都市間競争まで肯定されているので、かつてのシビルミニマム論とどのように理論的に繋がっているのか、よく理解できない行論になっている。
　そこで、『自治体再構築』（２００５年）における「シビルミニマム再考」の章を見ると、７０年代に提起した頃の議論の状況や今日との時代の差異について述べられていて、それなりに面白いのであるが、「２０００年分権改革後の今日も『市民自治』から出発する『自治体基本条例』の策定・実効による官治・集権から自治・分権への転換という発想がなお未熟なため、法学者や自治体職員の発想もいまだに国法基準を絶対とみなし、わずかにこの上乗せ・横出しをはかるという、かつての考え方の水準にとどまりがちとなっています。」と述べられているように、依然として明治の官治・集権からの脱却が中心課題として設定されているようである。マニフェストや政策評価などの一面性の批判などは氏の議論のメリットを示しているように思われるが、ミニマムの指数づくりの具体化に当たって、自治体基本条例→自治体計画という分脈が強調されに留まり、その設定の課題は「人口の限界」「経済の限界」「財源の限界」「政治の限界」「人材の限界」などに拡散され、これらを踏まえた「指数の作成・公開」といった問題として捉えられていくことになる。

　ここでは、シビルミニマム論の（むしろ）メリットとして認識されるべき「国への対抗」だけではなく、制度の限界も踏まえつつも、さまざまな社会的分権や参加によって、ナショナルミニマムという国基準を超えたシビルミニマム設定の「現実性」が、かなり後退しているように思われて仕方ないのである。
　
★これで、今日のグローバリズムに基づく地方分権論や、自治体の「裁量権」、或いは財政危機を踏まえた「政策評価」などへの対抗軸を打ち出して、福祉政策拡充のためのシビルミニマム論のメリットを、現実政治・自治体運営の中に活かすことができるのであろうか。はなはだ疑問である。
　ただ、松下氏は色々と微妙なことも言っており、上記は私の「誤解」も含まれている可能性があるので、結論として述べるというより、現時点での「疑問」として提示をしておきたい。

*****************************************************
　さて、松下氏への言及が長くなってしまったが、新自由主義的改革を進める自治体の「長」が、神野直彦氏の著作を推薦していたり、土居丈朗氏が何故か本間正明氏の著作を推薦して「いなかった」り（笑い）、よく理解できないことも多いが、ハッキリいって、新自由主義的改革を進めている自治体の長が推薦している「実践的」な改革の書などは、読む必要もないレベルの低いものが多い（失礼）。

　それに引き替え、松本克夫氏（日経論説委員）があげている３冊には、正直うなった。日本社会の本質に迫る著として私などもそれなりに「感銘」を受けたものであったからである。自治体改革については、フランスの改革を紹介した書籍の一人勝ちになっているが、これは、恐らく今日の日本の自治体再編の大きな問題の一つが人口１万人未満の自治体をつぶすという政府や財界の「方針」との関係で、コミューンや広域自治体の自由な組み合わせや、集権国家から分権国家への「見事」な変貌としてフランスの改革例が認識されていることにあると思われる。

　意外なことにスウェーデンについては、中学校向けの教科書が紹介されていた程度である（だが、この教科書は必読ものだと私も思っている。神野氏の紹介によって、読んだのであるが、「なるほど」とその成熟度に感心をしたものであった）。
　
★この間の分権改革は様々な立場の人が、様々な思惑で進めてきたが、神野直彦氏の著作も３人程度が推薦している。ちょっと物足りない感じがするが、神野氏の最近のスタンスを見ると、どっちに走っているのか、よく見えない場合が多い。この辺を反映しているのかもしれない（失礼）。

　うれしかったのは、潮谷熊本県知事が『住民参加のシステム改革』をあげていることである。これは、私ども研究機構の研究会で出版した論集である。幸い、多くの読者を得て、増刷をするといううれしい「誤算」もあり、市民活動家にそれなりに影響を与えたのではないかと思う。
　こういった「本格的」な学術書（読みやすいが）が、自治体の職員にも多く読まれることを願ってやまない。と、落ちがついたところで、筆を擱く（笑い。

　追補）木佐茂男氏が推薦している『武富士対山口組』というのは、大変に面白い本である。ご自分の著作をさしおいて、この著を推薦していることに好感をもった。

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<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20031105.jpg" width="400" height="300" alt="札幌時計台"></p></p>]]>
        
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    <title>戦後最大の「危機」に直面する地方自治・自治体②</title>
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    <published>2007-01-03T05:16:31Z</published>
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    <summary>★戦後最大の「危機」に直面する地方自治・自治体①からの続き― ＊「地方分権」とは...</summary>
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        <name>行方久生</name>
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        <![CDATA[★戦後最大の「危機」に直面する地方自治・自治体①からの続き―

<strong>＊「地方分権」とは一体何なのか？</strong>
　知事会をはじめとする地方団体や、首長の多くの人たちが強調していた「地方分権」とは何だったのか。改めてその「総括」を反省的に行う必要があろう。上記のような「事件の発生」によて「地方分権改革自体をストップさせてはならない」というような批判も出るだろうが、そういう無内容な「分権論」こそ、筆者が「改憲的地方分権」と呼ぶ流れそのものに収斂するだろう。
　「地方分権」そのものは、１９９３年の細川非自民連合政権の下で「第三次行革審最終答申」という形で、政治の表舞台にのぼってきた。自民党一党独裁政治の弊害が、自民党の利益誘導政治と経済のグローバリズムとの矛盾の顕在化の中で自覚され、小沢一郎氏の自民党の「破壊」＝分裂行為によって、自民党は政権党から「転落」をした。
　その自民党が「本来」期待されていた「政治のプログラム」が「地方分権」や「官から民へ」という行政の民間化・市場化であり、公務員制度の「改革」であり、強い内閣主導の政治であった。小泉構造改革のプログラムは、先駆的或いは端緒的に、行革審答申に大筋で組み込まれていた。自民党がこれらのプログラムの実行部隊として「相応しくない」「実行不可能」であるという苛立ちが、経済界・財界を含めて拡大し、ついに自民党の分裂劇とともなった政変によって、推進の主体を得たのであった。
　さて、途中を大幅に省略するが、この第三次行革審答申を踏まえて、地方分権推進法が成立し、地方分権が国政の場で、はじめてオーソライズされた。地方分権推進委員会は、「地方の自己決定権」というキーワードを確立し、任期の延長も伴って、複雑な状況の下ではあったが、機関委任事務制度の「廃止」や自治体の事務の分類を「自治事務」と「法定受託事務」「国直轄事務」に仕分けするという、戦後の自治制度改革なかでも、注目すべき提言を行ったのである。地方の条例制定権なども、一定の制限下ではあるとはいえ、強化されたことも事実である。
　しかし、現実のプロセスとして、橋本６大行革の中で、「地方分権」はデフォルメされ「実行可能なこと」（つまり、中央省庁の了解を得られる範囲内）に矮小化された。これが中央省庁の「抵抗」（抵抗勢力）によるものであるという「俗説」が、マスコミや学者の議論を席巻し、地方分権×中央省庁の抵抗という「図式」も、国民の間に広がっていった。ここで「俗説」と敢えて述べたのは、中央省庁の「抵抗」がなかったという意味ではなく、抵抗は当然に存在していたが、この構図によって「地方分権」＝善、「中央省庁」＝悪（官僚支配の打破の必要性）が当然のこととみなされ、それによって「地方分権」そのものの意味や、地方自治、民主主義との関係など、本来、一層緻密かつ厳密に考察されるべき問題が希釈されて行ったという歴史的「事実」を含意している。
　さて、地方分権推進委員会は、地方分権改革推進会議に取って変わられたが、ここでは、地方分権をめぐって、「税源移譲」のあるやなしやという問題が、最大の焦点になっていった。総務省と国の財政再建を最優先する財務省の鞘当ての中で、推進会議の最終報告では、税源移譲という言葉は出ず、国と地方の役割分担や税源再配分のあり方というような、税源移譲については玉虫色の結果になった。その最後の局面において、小泉首相が重視してきた官邸主導行政の目玉であった「経済財政諮問会議」において、税源移譲の必要性が述べられ（「骨太方針」）、推進会議の答申に反対をしていた４人の議員（神野直彦氏など）は、歓喜をしたのであった。神野氏は雑誌『世界』の論文で「女神はほほえんだ」とのべ、経済財政諮問会議の提起に最大限の賞賛を与えたのであった。
　それでは、新自由主義改革の象徴ともいえる小泉構造改革＝経済財政諮問会議は、地方自治の前進にとって「女神」だったのであろうか。

<strong>＊「地方の自己決定権」から「裁量度の拡大」「地方の自由度」「自由と責任」「自由と自律」への変遷</strong>
　「自己決定権」という言葉は、近代において「個人」が確立してきた歴史の中で、なかなか魅力あるタームではある。同時に注目して置く必要があることは、自立した個人と個人の関係において、各人に「自己決定権」が確立される状態を保障することは、「他者の自由」と競合する。従って、社会的な関係の中において「自己決定権」とは自ずから限界を持っていることになる。
　今日のミクロ経済学では「常識」になっているが、「個人の集合体としての社会の選好の集計方法、選択ルールの決め方、社会が望ましい決定を行なうようなメカニズムの設計方法」は社会選択論（social choice theory）と言われる。
　ところが、この社会選択論の先駆者であるＫ．アローは、次のような４つの民主的な条件を満たす社会厚生関数が存在しないことを「証明」した（アローの「不可能性の定理」）。つまり個人の選好の自由を前提としてその「総和」としての社会的選好を民主的に行うことは不可能である定理である。
①人々の選好についてはいかなるものも許される。
②パレート原理（ある社会に属する個人全員がＹよりＸを好む選好があれば、社会的にもそう判断するのが適当である。
③無関係な選択対象からの独立性（異なる選択肢ＸとＹについての社会的選好は、その２つについての個人の選好のみによって決まり、第３の選択肢（Ｚなど）とＸ或いはＹについての選好にはよらない。
④独裁者がいないこと（個人が選好する選択肢が社会的にも選好されるような個人の存在）
　注）入門書として、佐伯胖『「きめ方」の論理』（東大出版会、1980年）
　さて、以上の話しはそう単純な議論ではなく、①～④のいずれかを犠牲にするとか、或いは前提を変えるなどの方法によって、様々な「克服」の方策が考えられてきたのであるが、本論とは関係ないので省略する。問題は「自治体としての自己決定」の話しであった。
　個人の「自己決定」についても、その集合としての社会を考えると「不可能」とも言えるわけであるが、まして、自治体は単なる「集合」ではなく、「統治体」である。「統治体」が個人を「離れて」自己決定権をもった方がよいというような議論は、元来ナンセンスである。住民の「自己決定」とも等値できない。恐らく、自治体論として国際的にみても非常に珍奇な部類に入るのではないだろうか。
　単に国の過度の干渉を排して、住民本位の行政を行う条件を拡大するというような「一般論」＝民主主義論であれば、肯定される課題であろうが、「自治体の自己決定権」の必要性が、税源移譲や国から自治体への権限や事務の移譲を「正当化」する議論として、中心的な存在になっていった。
　その「自己決定権」がどのようにして「自由度」であるとか「自由と責任」などに「転化」」していったのかについて、その「経過」については、省略する。
　ここでは、「自己決定権」からさらに羽目を外し、「裁量権の拡大」「自由度」「自由と責任」であるとか「自由と自律」などというおよそ、統治体としての自治体のあり方とは無関係な恣意的な議論に転化をしてきたという事実を指摘するにとどめておく。　
　自治体の「自由度」とは何だろうか？今回逮捕された知事たちは「自由度が大きかった」というのであろうか。それとも、自治体の「自由度」とは、知事などの「トップ」の話しではなく、住民の裁量権の拡大だというのであろうか。
　このように見てくると、「自治体の自由度」とは、無内容なものであり、「生活保護の切り捨ての自由」であったり、「イジメを放任する自由」であったり、「国歌や日の丸を強制する自由」であったりする可能性もないとは言えないのである。しかし、財政破綻に陥った夕張市には、自己決定権や自由はないのであろうか。住民は、住民税の引き上げ、特養ホームの廃止など、およそ憲法25条に抵触する再建案を受け入れない「自由」はないのであろうか。

<strong>＊戦後最大の危機に直面する自治体・地方自治</strong>
　現在の自治体が「戦後最大の危機に直面」しているという岡田知弘氏（『経済』11月号のインタビュー）の指摘は正鵠を射ている。その具体の内容についても「地方自治の制度基盤の空洞化」「道州制問題」「三位一体改革から地方財政リストラへ」「人件費の削減、市場化テスト法の導入」「小さくて強い政府づくり」などを指摘しており、住民自治空洞化の危険について述べている。拙論では、こうった個々の内容については、福祉問題を中心とした各論に譲り、地方自治をめぐる大状況の描写を目指してきた。
　この間の「地方分権」は平成の大合併に帰結し、３２００余りの自治体が１８００自治体に減少し、人口１万人未満の自治体を、他の自治体の内部団体にするとか、都道府県などに「補完性の原理」に基づき事務委託を行うなど、事実上の「非自治体化」の議論が出てきた点に大きな特徴がある。人口２０万人とか３０万人の「基礎自治体」づくりが、グローバル地域競争を根拠として進めらようとしている中で、まさに自治体の存亡に関わる事態である。「存続」した自治体も、「存続」を自己目的化する中で行政の民間化が進行し、「自治体」とは言い得ない状態になることとセットになる。道州も先に指摘したように、完全自治体としての道州などは絵空事となり、都道府県行政のだるま落とし的な「中抜き」＝財政リストラと道州制の確立が一体的に追求されるだろう。「自治体としての道州制」論は、国の出先を中心とした地方支分部局のリストラと再編に飲み込まれ、国・自治体関係の再編に帰結して行く危険が一層強まることになる。
　しかし、自治体関係者の議論をみると、危機感は希薄かつ目先の問題に集中し、三位一体改革では、４兆円、５兆円という「持ち出し」を強いられたにも拘わらず、税源移譲が「不十分」であったからとして、「本格的」な税源移譲を実現することが、「第２次分権改革」とあるというような倒錯した議論が蔓延している。
　地方団体の中でも利害の錯綜と意見の違いは顕在化しつつあるが、岩手県の増田知事は、もう地方ごとの議論の差異を無視して「団結」だけを言う時代ではなく、地方交付税のあり方をはじめとした議論の「違い」に決着をつけるべき時期に来ていると主張している。地方の格差拡大は、確実にやってくる。新しい国土政策は、地方ごとの「核」を形成して、地方ごとに「自立」を強制することになるが、これも地方ごとの浮き沈みを拡大する。
　このような状況において、地方が主張すべき中心的な事柄は、国の責任の明確化と国と地方の財政関係や財政移転を通じて、ナショナルミニマムが住民に確実に保障される「自治制度」の確立であろう。交付税による一般財源保障はその根幹をしめるが、交付税の「廃止」「縮小」や、地方債の自由化をベースとした「自治体の自立」の強制は、自治の破壊であり、住民生活の破壊に帰結する。
　各論で展開されている、自治体や住民をめぐる「新しい困難」を直視し、「格差の拡大」「ナショナル・ニミマムの崩壊」への道をストップさせ必要がある。地方制度の改革は、改憲や国民投票法などを阻止する中から展望が生ずるものである。改憲に便乗した地方制度改革などに未来はないことを明確にしておきたい。

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<p><img src="http://jilg.jp/blog2/pic/20070103.jpg" width="400" height="300" alt="葛飾北斎日暮れの富士">]]>
        
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    <title>戦後最大の「危機」に直面する地方自治・自治体①</title>
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    <published>2007-01-02T07:13:30Z</published>
    <updated>2007-01-02T13:35:04Z</updated>
    
    <summary>★はじめに―本稿は『自治と分権』第２６号に掲載された同名論文の「もと原稿」である...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://jilg.jp/blog2/">
        <![CDATA[★はじめに―本稿は『自治と分権』第２６号に掲載された同名論文の「もと原稿」である。多少、印刷物とは異なるので、引用等は、ＨＰからと明記されたい。
　さて、「第１次地方分権」の総括が色々な形で始まっている。同時に、「第２次地方分権」の課題についても、視点や課題設定など旺盛な議論が展開されてようとしている。筆者は、それらの大半を読んでみて、極めて不満というか、「ずれている」という印象を拭うことができなかった。
　というのは、そもそも「地方分権」というのは、何を求めて、何を克服する目的を持って始まったのか、或いは、始めようとしたのか、という原点が曖昧になり、なにか「地方分権それ自体」という概念があり、その概念或いは理念に向けて、それぞれの論者が「勝手な」議論を展開しているように見えて仕方ないのである。
　何回もこのブログで強調してきたが、例えば戦後の福祉国家は中央集権的政府＝行政と一体不離の関係にあった。これは、それ以前の「分権的」国家形態に比して、明らかに「歴史の進歩」であり、既存の社会主義の影響のみならず、先進的資本主義国の「労働者」＝勤労国民の政治的影響力が戦争による国家・国力の疲弊（ある種の国家の弱体化）という側面と相俟って、国際的にみても、国別の特徴を持ちつつも「福祉国家」（社会国家など）という名称でくくれるような様相を呈してきたのであった。
　この「福祉国家」は、１９９０年代の旧社会主義の崩壊、或いは、これと密接に関連した経済のグローバル化＝多国籍資本の蓄積様式への政治体制の再編によって、変形を強いられてきた。いわゆる「新自由主義的」デフォルメである。もともと、福祉国家なる用語は、マルクス主義全盛期には、資本主義を美化する「イチジクの葉っぱ」として冷たい目で見られ、また旺盛な資本蓄積を目指す、資本主義サイドからは、財政悪化や国力の浪費として見られるなど、その存在は「鬼子」のような扱いを受けてきた経緯もある。

★日本の場合、ヨーロッパ大陸などとは明らかに異なった政治体制であり、福祉国家という規定より「企業主義」「日本型企業社会」というように、企業が福祉国家の果たすべき役割を企業内に労働者を閉じこめておくことを前提に、一定の福利厚生などを保障するという形で、「実現」してきた特殊性がある。この辺の議論はここでは省略するが、議論の蓄積があるので、それぞれの立場から検証して欲しい。
　こんな状況を踏まえて、今日、日本の政治・経済を再編する一つのキーワードが「地方分権」であり、これが、論者によるイメージの差異を超えて、歴史的な役割、すなわち、日本的な福祉や地方自治（社会保障や福祉を実際に住民の身近な場所で実現する）を破壊するモメントになっているように思われる。
　つまり地方分権対中央集権というような、相対的な政治体制の差異を超え、地方分権論は一人歩きを始めているのである。

★地方分権と中央集権は、「地方自治と官僚制」などと対比され、地方分権＝善、中央集権（官僚）＝悪などと戯画化され、地方分権を主張しさえすれば、何でも可能とういような「分権ファシズム」的な雰囲気が漂って来ている。元来、中央集権と地方分権は、全く対立する概念でもなく、弁証法的に相互浸透する関係である。特定の行政を中央に集中することによって、広範な地方分権が可能になるというような事態を想定すれば、理解にかたくないが、要するに、相対的な概念なのである。
　中央集権だけの国家などは、歴史的も存在しなかったし、地方分権だけの国家も国家の成立以降は、存在不可能であった。軍事や情報の国家集中は、かなりの地方分権の実現を技術的に可能にする。
　第１次地方分権で、機関委任事務制度が廃止され、これが国家の地方自治への悪しき干渉のモデルであったため、条例制定権の拡充を含め、地方分権が「前進」したとされている。
　同時に、米軍の国際的再編の磁場である沖縄を見れば明確なように、自治体に「条例制定権」も「自主決定権」も存在しない。国家の専権事項と規定されれば、地方分権の「発展」の下でも、住民に身近な自治体が「身近な」ことを決定できないでいる。否、むしろ、第１次地方分権の結果、こういった傾向が強まったと言えるのである。こういった状況を「全体」として把握し、「第１次地方分権」と言われているものの総括を行う必要があるし、また、三位一体改革における補助金削減（国の自治体への関与の度合いの象徴としてみられてきた）、税源移譲（当初は自主財源主義が強調された）の度合い、そして、これらと共に、地方交付税や地方債の動向などが、分権の度合いを計る物差しとして活用されてきた。

★こういった「物差し」で実際に、分権の程度が計れるのか。また、分権とはそもそも、地方団体が強調するように一般的「善」なのか。こういった面からの総括も要求されているように思われる。
　今回の拙論は、あまり具体の数字などを扱ってないが、こういった考え方について、筆者なりに整理し、今後の実証的な分析の基礎をつくりたいというおもいがある。

　というわけで、以下はその前編である。
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　<strong>戦後最大の「危機」に直面する地方自治・自治体</strong>


<strong>はじめに―地方自治・自治体の現状をどうみるか</strong>
　　拙論は、特集「いま、自治体はどうなっているか」のいわば「総論的」な位置づけを持っている。従って、個々の行政分野別の自治体における「実態」等は、各論及び「河合・唐鎌対談」を参照して頂くとして、ここでは細かい数字等を省略して、できる限り「骨太」に現在の地方自治・自治体が直面している事態の「性格」「本質」を解明しておきたい。結論を先取りして言えば、現在の地方自治・自治体が直面している事態は、「地方分権の流れが変わってしまった」とか「財政危機によって個別の行政課題の運営が後退している」「税源移譲さえ十分にあれば、第2次分権改革が前進する」などというものではなく、小泉構造改革と日本の大国化（両者を総合して、「この国のかたち」の改変）によって、日本の地方自治と自治体は、戦後にその制度が確立して以来、「最大の危機」に直面しているという認識に立っている。この認識は、安倍内閣発足後の様々な地方自治をめぐる「提言」「報告」などによって変化するものではなく、むしろ、その危惧を強くするものである。

<strong>＊安倍内閣の「改憲的地方分権」論</strong>
　自民党は2005年の11月に『新憲法草案』を発表し、民主党も、同時期に『憲法提言』を行っている。また、全国知事会も、10月に『中間報告』を発表している。自民党の『新憲法草案』は、政治情勢との関係から憲法9条の改正とその手続きに最終的に的を絞ることになったが、地方自治に関してはかなり広範な改正を盛り込んでいることは周知の通りである。全国知事会などが、憲法改正を前提として、地方自治の「充実」を図る「改憲条項」を提起すること自体、その「政治的姿勢」を批判されなければならないだろうが、その内容についても、積極的意義があるという単純な評価を下すことができない。
　この拙論は、諸改憲案の地方自治に関する議論を解明することに目的があるわけではないので、ごく簡単に自民党の『新憲法草案』についてのみ、その問題を指摘しておくに留めたい。そこで、『新憲法草案』について、首長の直接選挙という現行の制度は維持するとしている（新93条の１項、２項）部分など、現行憲法の規定をほぼそのままにしている部分を除き、「改変」「廃止」などに絞って、その問題を列記しておく（本質規定の記述ではなく、特徴列記方式で締まりがないが）。
　第一は、「地方自治の本旨」の「読み替え」である。一般的通説として「団体自治」と「住民自治」を含むとされるこの「地方自治の本旨」が、憲法上「明確」な内容を規定されていないことを「補充」し、「住民自治」を「住民参画」というパートナーシップ論＝住民協働（ガバナンス或いは「新しい公共空間」論）に置き換えていることが指摘できる。こういった議論の日本における嚆矢は、日本における「地方自治の本旨」なる概念の曖昧さを指摘し、ヨーロッパ地方自治憲章に見られるような「補完性原理」など、住民に近い基礎的自治体の役割を重視・明確化し「本旨」に内実を付与するという、西尾勝氏らの議論であった。この議論自体、ヨーロッパにおける「地方自治拡充」の議論の歴史やその意義に照らして様々な角度から検討される必要があろうが、少なくとも日本においては、この「補完性原理」が、1990年代広範以降、「自分でできないことは家族で」「家族でできないことはコミュニティで」などと、自治体とその上位団体との関係を律する議論としての位置づけを「逸脱」し、公私の役割分担をも規定する「大原理」へと昇華されていった（ヨーロッパにおける「補完性原理」そのものが、こういった傾向を本来的に有するか否かについて、証明をする能力は現時点で筆者にはないが）。こうなると、小さな自治体がその財政力等の弱さを「補充」するために、一定の行政施策を都道府県等（広域自治体・連合等）に自主的に委ねる意味から使用していた「補完性」という概念を一気に乗り越え、地方自治の原点そのものが「個人」や「家族」といった統治機構以前のアトムに還元されることになる。統治体＝統治機構としての自治体との緊張関係を失った「住民」概念は、近代的地方自治における「主人公」としての「住民」とは異なる存在ということになる。これが「住民参画」の怪しさの背景である。
　第二は「住民は、その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し、その負担を公正に分任する義務を負う」という、「負担分任原則」（応能性を否定した受益負担）への逆戻りである。地方税原則として「受益者負担」を一つの理念として掲げる潮流が根強く存在してきたことは事実であるが、地方税といえども受益は、課税の根拠であり、具体の負担配分は応能であるべきあり、これが現行憲法の素直な解釈でもあろう。
　第三は、自治体の種類を基礎地方自治体と広域地方自治体の二つにし、広域自治体の機能を、基礎自治体の「補完」に限定していること、即ち、「都道府県」に代えて「道州」を広域自治体する方向を考えている。これは「実践的」には、都道府県の二極分解（道州と市町村）につながるものであり、前者が純然たる「自治体」と規定できるだけの内実を伴った存在となるかどうか、また、後者が小規模自治体の「非自治体化」即ち「自治体つぶし」に帰結するかどうかも危惧をぬぐえない。この「制度設計」が改憲と結合すれば、現在の「住民の福祉の増進」、平和的生存権の保障を本質とする「自治体」の、根底からの「変質」に帰結しよう。安倍内閣が「改憲」や道州制の導入を政権構想として掲げて発足している現段階において、従前の新自由主義的地方分権（小泉構造改革）が「改憲的地方分権」としての色彩をおびてきている点に注目すべきであろう。
　第四は、「国及び地方自治体は、地方自治の本旨に基づき、適切な役割分担を踏まえて、相互に協力しなければならない」としているが、この間の米軍基地と自治体の関係一つをとってみても、国の「専管事項」扱いになっている一方、国の教育や福祉に関する役割、とりわけナショナルミニマムの保障が、国の責任から「解除」される方向に向かっていることである。また、国民保護法制（有事体制）下において、「相互協力」規定は自治体の有事体制への協力に帰結する。
第五に、あまり一般的に論じられていないが、現行憲法には規定のない地方財政に関す規定が導入されていること、及び、「財政の健全性の確保は、常に配慮されなければならない」という国の財政規定の自治体への準用規定が盛り込まれている。現在、夕張市の準用再建団体指定（財政再建法による）問題を一つのテコとして、自治体財政の破綻への対応＝再生法制の確立が急がれているが、財政「破綻」を口実とした福祉、医療、教育の後退、民営化や住民負担増が憲法上に根拠を持つようになることの意味はあまりにも大きい。
　最後に、地方特別法に関する、住民投票による過半数の同意なくしては「国権の最高機関」である国会といえども法律を制定できないという規定の削除が指摘できる。「地方分権」が喧伝されるようになった1990年代後半以降の、地方自治の「発展面」の多くは、この住民投票（条例による住民投票や、アンケート方式など様々であるが）などをはじめとした、住民参加の強まりであった。地方自治に関する立法権の「制限」という、ある意味で日本の地方自治の「画期的側面」の廃止である。
　以上のような『自民党新憲法草案』の内容と、安倍内閣下で進行する現実の自治体運営の危機を重ね合わせると、「地方分権」の推進と言われていることの内実は、「戦後最大の危機に直面する地方自治・自治体」という認識を実証するものとなるであろう。

<strong>＊地方６団体の提言と地方分権改革推進法（新分権法）の成立</strong>
　2006年12月8日に、「地方分権改革推進法」が共産党を除く政党の賛成で成立した（95年の地方分権推進法には共産党も賛成した）。その「基本理念」は地方分権推進法２条の「地方分権の推進は、国と地方公共団体とが共通の目的である国民福祉の増進に向かって相互に協力する関係にあることを踏まえつつ、各般の行政を展開する上で国及び地方公共団体が分担すべき役割を明確にし、地方公共団体の自主性及び自立性を高め、個性豊かで活力に満ちた地域社会の実現を図ることを基本として行われる」と似通った表現になっているが、「地方公共団体が自らの判断と責任において行政を運営」することとしている。
　その一方で、「判断と責任」を担保する財源については、「（権限移譲に伴う－筆者）地方公共団体に対する国の負担金、補助金等の支出金、地方交付税、国と地方公共団体の税源配分等の財政上の措置の在り方について検討を行うものとする」となっており、付帯決議がついたものの、「税源移譲」等の具体の担保は何もないと言ってよい。
　こういった状況を見ると、小泉前内閣時に設置された「地方分権21世紀ビジョン懇談会」の最終報告にもられた「国の地方への過剰関与と、地方の国への依存を止め、地方が自由と責任に基づいて自立し、住民にとってムダのない効率的な地方財政の姿を実現」するとう路線の「延長線上」に、今回の新分権法がイメージされていることは明確であろう。現実問題として、「新しい地方財政再生制度研究会」の最終報告(12月8日)が提起した、自治体の財政悪化に関する「早期是正措置」や国・都道府県が関与する「再生手法」の導入などは、事実上自治体の自主的な運営を制限し、必ずしも自治体の責任であるとは言えない「財政悪化」の克服を口実として、住民の負担増強や福祉・医療・教育などの水準低下を強要する恐れが強いものである。
　また、ここでは詳しくふれないが、旧地方財政再建法にもとづく「準用再建団体」となった夕張市への「過酷」な財政再建のための手法を「地獄絵」として財政危機状態に陥っている自治体や住民に見せつけ、「こういった状況にならないため」に早期是正＝地方行革（自治体リストラ）への受容を求めるという手法が取られている点も重大である。
　夕張市の財政危機は、いわゆる「やみ起債」などの不法・不当な財政運営が行われていたこととも関連し、有無を言わさぬ再建手法が合理化されようとしている。市当局の責任は免れないが、国や道の責任はある意味でそれ以上のものがあると言う議論も否定できない状況下で、「特養ホーム」からの老人の追い出し、市職員の定数半減・給与30％削減、保育園・図書館の廃止などが、憲法25条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」ことを謳った「先進資本主義国＝日本」で行われることは、絶対にあってはならないことであろう。こういう事実に抗することもなく、「地方分権の一層の推進」などを主張することは、欺瞞であり、かえって「地方分権論」の怪しさを浮き立たせるものになろう。
　地方６団体は、11月27日に憲政記念館において「地方分権改革推進全国大会」を開催し、①地方分権改革推進法の今国会成立（注－既に成立済み）②地方交付税の総額確保③国から地方への権限移譲・二重行政の解消④公営企業金融公庫廃止後の新組織への財政基盤の全額承継などを要求する「決議」をあげている。地方交付税の総額確保などは当然の要求であるが、既にのべたように、現実に進行している自治体の危機を打開する要求としては、一般的かつ迫力のないものになっている感は否めない。更に率直に言えば、そもそも「地方分権」の名によって推進されてきた小泉前内閣の「三位一体改革」の総括などがまともに行われておらず、「税源移譲が不十分なだけ」であるとか「功罪相半ばする」などの認識がバックボーンにあり、「この国のかたち」をかえる「地方分権」そのものに関する反省的総括が決定的に不足している。この点については後述する。
　地方６団体が設置した「新地方分権構想検討委員会」（神野直彦委員長）は、11月29日に「最終報告」を発表したが、今後の事態の推移を「第２次分権改革」と位置づけ①分権改革への地方の参画②地方への税源移譲、「地方共有税」（地方交付税は地方の固有財源）の創設③国と地方の二重行政の解消④住民参加の促進と地方議会の機能強化などを提言した。「国と地方の協議の場」の法定化や「地方行財政会議（仮称）」の創設などは、十分に支持できる内容であるが、「三位一体改革」の延長線上、すなわち、補助金の削減とそれに対応する税源移譲の一層の推進という方向は、地方交付税の改革の具体の内容にも依存するが、かなり「無理」な路線であり（この間の義務教育費国庫負担金の補助率削減や生活保護費補助率削減の厚労省による提起など、「ナショナル・ミニマム」を保障する国の重要な財政責任の放棄と「地方の責任」強化を一体処理する流れを助長するだろう）、地方財政計画による地方歳出の抑制とプライマリーバランス論による歳出削減・起債抑制の攻撃と正面から対峙できないものとなっている。小泉内閣は国債30兆円以内を標榜しつつ、史上最高の国債発行＝累積赤字の積み増しを行ったが、小泉内閣における国債発行の大半は「赤字国債」であり、これを抑制すれば当然ではあるが、公共事業（建設国債及び道路特定財源などによる）ではなく国民生活に直結する歳出の削減を強化することになる。
　小泉前内閣の下で行われた、福祉・医療・教育の歳出削減は、国の負担を地方に転化し、同時に国民の負担率を上昇させるものであった。特に、重視する必要があることは、介護保険導入以来の社会保障・社会保険の市場化・民営化であり、都道府県にその財政運営を委ねて行く流れである。三位一体改革に付随して行われた国保財源の都道府県責任の強化や医療における「健全化計画」における都道府県責任などは、その一例である。
　都道府県の「上下二極分解」（道州制と市町村への事務・権限の移譲など）の方向は強まっており、かつては道州制に猛反対をしてきた全国知事会の様変わりは、今日の都道府県の位置を象徴している。神野委員会自体、道州制について「第２期地方分権改革が実現した後」の課題として提起している程である。
　今後、税源移譲による自治体間の不平等拡大の顕在化や、地方交付税の算定方式を人口と面積に「単純化」する方式の拡大（規制緩和と一体で推進）がもたらすアンバランスなど、地方自治体の「団結」を阻害し、共通する要求での運動を困難化させることが予想されるが、三位一体改革の延長線上での税源移譲の更なる要求は、上記の問題を致命的に拡大することになる恐れが大きい。

<strong>＊知事の汚職や信用失墜行為の連続は何を意味するのか</strong>　
　　この間、約50日の間（毎月一人）に三人の知事が「談合」等に絡む贈収賄事件等の疑いによって逮捕された。異常な事態である。全国知事会の動向の中では、異色の存在であった福島県の佐藤栄佐久元知事の逮捕、改革派の旗頭を自認し、道州制検討会をリードした和歌山県木村良樹知事、そして安藤ただひろ宮崎県知事である。また、全国知事会長でもあった梶原拓元知事も、岐阜県の「裏金事件」によって、大きく自治体への信用を失墜させた。
　トップの逮捕や不祥事が連続し、また、程度の差はあっても、岐阜県と同様の「裏金事件」の発覚も続いている。このような事実群を単なる「偶然」であると見ることは適切ではないだろう。背景には、地方の景気後退と公共事業の縮小という「せっぱ詰まった」事態と、積年の「談合」入札などがあるが、さらに、アメリカの年次対日要望書などで強く主張されてる談合の廃止と、アメリカ資本の建設事業への参入要求などもあるだろう。ここでは、このような「背景」の分析は省略するが、知事会などの主張してきた「地方の裁量度の拡大」とか、「情報公開」など、「地方分権」のキーワードとなってきたものが、住民を欺いたことを強調しておきたい。事件の具体の内容は様々であるが、「多選」や「天下り」などに解消できない深刻な地方自治の「退廃」である。このような「事件」の多発を横に置いて、「自治体としての道州制」（道州と基礎自治体＝市町村合併によって規模・能力を拡大した市町村）への再編などは、まず不可能であろう。

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