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 2007年09月13日(木)

不思議な辞任ー安倍内閣の末路

●新幹線で東京に向かう直前に「安倍首相辞任」のニュースが流れた。臨時国会の所信表明演説を行って、参院選挙での「大敗」について反省をしたものの、「テロ特措法」の延長に政治生命を賭すると、大見得とも脅しとも取れるような発言をしたばかりであったので、「なにか新しい事態が発生したのだろうか」など思いつつ列車に乗り込んだ。
 移動中は殆ど新しい情報などはなく、上野に着くのが待ち遠しく、なにか推理小説のトリックの解明をまつ気分で列車を降りた。一瞬、いま書いている原稿(既にゲラになっているが)には「安倍内閣における道州制の位置」などの一文も含まれているので、「このままで行けるかどうかも判断が必要かな」などと思いつつ、ネットニュースをザッと眺めた。

●毎日新聞のニュースで、辞任表明の「全文」と「一問一答」を読んだのであるが、読んだ後に益々疑問が膨らんでしまった。内容が支離滅裂であることは「いつもの通り」なのであるが、アメリカに対し、自衛隊のインド洋における給油活動を停止してはならない(対米公約)、つまり「テロ特措法」の延長が自分が首相をやっていると円滑に行かないというのが「辞任」の理由らしい。
 しかも、「いつ決断したか」という質問に対し、小沢民主党代表に党首会談を申し入れたが実現出来なかったのでと述べている。辞任発表の当日だという。子どもの使いのような話しではあるが、参院選の大敗によって民意を代表していないと言われているので、自分が首相をやっていると党首会談も出来ないというような説明をしていた。全くもって不可解である。
 安倍晋三の「頭の中」はどうなっているのか。これは政治の問題ではなく「解剖学の対象だな」などと思いつつ、他のニュースに目をやると、なんと小沢民主党代表は「党首会談を申し入れられた事実はない」と述べているではないか。しかも、「自分は40年間、政治の世界にいるが、こんなことは初めてだ」とのべ、安倍首相が政権を放り出したことを「無責任」と口を極めて非難しているではないか。

●おぼろげに、分かってきた辞任の理由は、①アメリカとテロ特措法の延長を約束してきた②従って、一身を賭してこれを実現する③そのために参院選挙での大敗を反省して、民主党とも「腹を割って」一致点を探る?→党首会談→実現せず→従って辞任という「筋書き」だということである。安倍首相自身が語っているのは、これがすべてである。「局面の打開」などいう表現もでてくるが、要するに党首会談もやれない首相では「局面を打開できない」と言っているだけなのである。驚くべき「政治家」である。
 また、辞任の理由には、参院選挙で大敗した原因である「年金問題」であるとか、格差の拡大や地方の疲弊などは一切出てこない。参院選挙で、国民には全く問うていないアメリカの戦争支援=給油活動の話しだけなのである。
 これは一国の首相として、全くの本末転倒、思い違いも甚だしい由々しき事態であろう。マスコミは、現行法の継続ではなく、新法を出すにしても、参院で否決されて衆院に回り再議で三分の二の賛成で可決するのはかなり困難であり、また時期的にも間に合わない可能性が強いと報道していた。しかし、これまでの安倍首相の政治姿勢として、民主党を抱き込む方向を示しつつも、衆院の圧倒的多数を活用して事態の打開を図るのではないか、というのが一般的な見方であった。それが、党首会談を断られたという「だけ」で泣いて帰ってきてしまったのである。これはもう、殆ど病気の世界であろう。

●ここから「どうするか」を考えるのが普通の「政治家」というものだろう(笑い)。党首会談(実際に申し入れたのかどうかすら不明なのだが)を断られた程度で「やめる」というのは、どこかのブログに書いてあったが、小学生が「今日はお腹が痛いので学校を休む」というレベルである。
 しかも一方の党首は、「党首会談など申し入れられていない」と公式に発言をしている。更に、不思議なことは麻生幹事長は「3日位前に話しがあった」「健康問題が原因」などと記者会見で述べているではないか。辞任表明の直後のニュースでは、ある週刊誌が「脱税問題」で記事を書くが、内容に関する回答を求めていて、その期限が丁度2時だったという話しまで流れていた。
 辞任表明の一問一答などを読んでも、聞いている記者が納得していない様子がありありと見えるのであった。だから、健康問題とか16年も前の相続にまつわる問題などが「取りざた」されることになるのであろう(これ自体、実際の所は不明であるが)。

●さて、問題は「その先」、今後のことである。あるマスコミは、マスコミ界の大御所(多分、読売新聞のナベツネのこと)が、谷垣、津島、加藤紘一、古賀氏などを呼んで会合を持ったなどと報道していた。これは辞任表明前のことであるが、安倍ではもう持たないので、どうするかという相談だったらしい。そこで、見てきたような話しになるのであるが、福田康夫で一気に事態を解決したいと町村派(森喜郎元首相)に持ち掛けるというような話しになったというのである。
 この辺の話しは、どの程度信用できるのか不明であるが、安倍内閣の閣僚の不祥事が暴露されるプロセスを見ると、かなりの時間をかけて調べないと出てこないような情報も含まれている。山形出身のエンタケ(自称)農水相の農協への補助金がらみの問題などは、地元でも霞ヶ関でも知れていたことであろうが、安倍氏はこれを知らなかったのか。不思議な話である。しかし、暴露される事実は、かなりの調査が入ったものがいくつか含まれている点には注意を要する。つまり、支配層内部の矛盾・軋轢の存在である。総合すると、安倍辞任に向けて、かなりの「包囲網」が出来ていたのかもしれない。安倍には、党内調整が出来ているようで、出来てないというのが実態であったような気がする。

●安倍首相は、辞任表明の際も政治の空白をつくらないために、できるだけ早く総裁選挙を行って欲しいと述べていた。しかし、安倍首相が辞任した理由が、説明の通りであるとすれば、自民党の政権「たらい回し」は馴染まない。衆院を解散して、自衛隊のアメリカの戦争支援行動の是非=テロ特措法の是非を巡って、民意を問うべきであろう。辞任の理由として、これしか挙げていないのであるから、当然の話しになろう。
 また、国民の立場から見ると、安倍首相が辞任の理由に敢えて挙げていない、国民生活に関わる諸問題もまた「争点」になるべきであろう。改憲の姿勢や消費税なども当然に争点である。
 つまり、安倍首相が辞任した後、誰が総裁になっても、その内閣は国民に対して説明責任を果たしていないことになる。

●こうった状況の下では、選挙管理内閣のような性格のもの以外はナンセンスになろう。
自民党の崩れ方は、ある意味不可逆的なものである。これに代わる「民主党」の方も、本来の新自由主義的な政策をペンディングして農政であるとか「生活重視」の姿勢を打ち出している。これ自体は結構な話であり、忠実に実現をして欲しい課題も多い。しかし、自民党が都市部でそれほど崩れていない現状や、新自由主義政党に「脱皮」していること、また、安倍内閣の推進力には、新保守主義的な部分が大きな存在になってきたことなど、政治力学を総合すると、日本における「二大政党制」がどういう形になっていくのか、歴史的な帰路に立っているように思われるのである。
 政界の再編(自民、民主をガラガラぽん)という方向もあり得るし、現在の野党が一致点で共闘して、それなりの成果を挙げるという「進歩的な」結果になる可能性もある。

●そこで、強調したいことは、「二大政党制」が確立して、どっちも同じであるとか、日本では「二大政党制」は定着しないとか、一般的に民主党は自民党より「ベター」であるというような「形而上学的」な解釈論に陥らないことである。安倍内閣が参院選挙で改憲を前面に打ち出し切れなかったのは、勿論、「消えた年金」などの直近の政治的問題で世論が形成されたこともあるが、なんと言っても3年にわたる「9条の会」などの憲法擁護の運動の「成果」という面が無視できないのである。
 つまり、大衆闘争、国民の要求に基づく運動が「まず」あり、これが複雑に入り組んで、今日の政治状況を形成しているという認識が重要なのだと思う。黙って見ていても、「落ち着くところに落ち着く」だけになるだろう。麻生か福田か、谷垣か、はたまたクレージー小泉の再登場か、などの議論はどうでも良い話しなのである。まあ、田舎芝居としては面白いかも知れないが・・・(未完というか、未定稿)

香港鯉魚門辺りの海鮮料理屋=怖い所

 2007年08月31日(金)

日経グローカル記事「学長に前文科省次官、山形大学大揺れ」

●地方自治・自治体の関係者以外はあまり読んでいないと思われる「日経グローカル」という専門誌に、私が勤務する山形大学の話しが出ていたので、これを紹介しておきたい。

 『日経グローカル』(2007年8月20日、82号)の記事は、「霞ヶ関レーダー」という、デスクの質問に記者が答える形式の、ちょっと暴露的な色彩の強い記事である。表題は、タイトルに記したように「学長に前文科省次官、山形大学大揺れ」といういかにもマスコミ的なものである。サブタイトルが「謎深まる“火中のクリ”の立候補」「大学再編など生き残りも苦難の道」となっており、関係者にとっては問題意識を共有できるものになっている。

 さて、1ページの短い記事なので、全文引用しても大したことはないが、著作権の問題もあるので、要点だけを拾って、私の「感想」(学長選挙問題については、今後も様々な視点から「総括」が必要であり、現時点で全面的に分析する能力・立場にないことが主要な理由だが)を述べておくことにしたい。

 まず、デスクの質問として「国立大学の山形大次期学長に文部科学省の結城章夫前次官が選出されたが、『中央からの天下り人事だ』とする学内の騒ぎはまだ収まっていないようだね。」と話題を振っている。新学長は9月1日付けの就任であるが、地元の山形新聞(編集長が学長選考委員会の委員になっており、何かと先行した政治優先の報道が目立ったが)に、今回の選挙において、最下位で落選した農学部長が新理事になるなどの報道もあり、今回の学長選挙の「裏」の事情なども、追々解明されていくように思う。従って「大揺れ」という表現が正確かどうかは分からないが、「学内の騒ぎはまだ収まっていない」という指摘は、あながち「外れ」とは言えないだろう。

 さて、「A」という記者の質問への回答に、「反対派(「派」というようなものが形成されたとは思えないがー行方注)が問題視しているのが選考方法」と指摘し、「国会開催中は次官クラスが辞任できないの慣行を考慮して選考日程を送られせた」「学長選考等規則を一部改正、教職員が学長候補者に投票する票数を非公表にした(今回は経過措置で公表)」など、首をかしげたくなる措置に反発する教職員も多い、と。
 この指摘は、正しいだろう。「多い」というか、医学部を除く5つの学部の反対決議もあがったものであり、誰が学長として適切かという判断以前の「民主主義」の問題であろう。グローカル誌の判断も、これらの措置に関する「反発」は当然という内容になっている。当たり前の話しではある。

 そこで、記事(質問、回答)のやりとりは、何で「次官が国立大学の学長か」という問題に移行する。「B」という記者の説明では、次官のこれまでの「再就職先」は、放送大学学園理事長、日本学術振興会、初代ユネスコ政府代表部大使(直近の次官から3代前まで)だということである。放送大学については、現在は政府の税調会長などを務めた石弘光氏が就任しているが、こういった従前の「ポスト」と無関係に、国立大学の学長という線が、どこから出てきたのか、というのが記事の問題意識である。
 これには共感できる、というか、実に不思議な感じがするし、これまでの学長だった仙道氏が「引っ張った」にしても、容易く応じられる話しではないからである。記事でも「国立大学の学長は博士課程を経て学位を取った研究者がなるのが通例。このために国立大学学長に手を挙げにくかったということもある」と、これまでの慣例について述べている。これも当然の指摘であり、そもそも「学長選考」の根幹に関わる問題と言えよう。

 このような事情から、記事においても「監督官庁トップである文科省次官経験者から国立大学の学長に就いた話は聞いたことがない」と紹介されているわけである。
 それで「天下り人事」と批判を受けるに決まっているにも拘わらず、何で学長か?という話題になって行く。私などは、学長候補の前の職業が何であろうとも、本当に「適切」な人材であり、学長に相応しい経歴をもっていれば、こだわる必要ないと思っているが、一般的に直前まで「次官」だった「当事者」=国立大学の法人化の当事者が適切であるとは、思えないのであるが・・・

 さて、そこで、記事に出ている次の指摘に注目をした。「C」曰く「国立大学法人の合理化や効率化を完成させるために仙道学長の誘いに乗ったという説は考えられないか。官邸や財務省からは『国立大学をさらに絞れ』との要求が強まっている」と。
 これは、学内で流布されいた利益誘導説=地元出身の候補者という期待と真っ向から対立する指摘である。もし、これが事実であるならば、今回の選挙で結城氏に投票した多くの教職員は期待を裏切られることになろう。実は、私は密かにこの記者と同じ意見を持っていたのであるが、官僚批判の陰に隠れて、彼が推進しようとする「政策」についての議論が、すっ飛んでしまっていたのは残念である。
 この「政策」不在の議論は、最後まで続き、小山工学部長と加藤前理学部長との「統一」に際しても、選挙までに実質的に間に合わなかったのである。

 政策問題で真っ先に問題にされるのが、運営費交付金の減額であり、配布方法の変更、そして教職員に関する人事評価問題、大学の再編成などの「淘汰」路線(一般的には「生き残り策」とか「地域間競争」と言われているが、選別淘汰=再編というべきであろう)であった。

 記事では「山形大にしても教育学部系を宮城教育大に集約するために山形師範以来の伝統である教育学部を05年に地域教育文化学部に泣く泣く改組、この時の方針は文科省から出ていると言われる」と述べている。東北地方の大学では、例えば北東北の弘前大、秋田大、岩手大の三大学の統合問題などもあったが(結局、ご破算になったが)、教育系や農学部系の再編合理化が大前提として存在していたことは事実であろう。
 また、記事の「視野の広い」ところは道州制までも睨んで「道州制が実現すれば東北7国立大学の生き残りは厳しくなる。学長選挙も重要だが、生き残り策を新学長と教職員が一体となって具体化できるか、注意深く見守る必要がある」と結んでいる。

 実は、この辺が日経の「限界」であろうが、教職員の投票で2位であった結城氏が、選考委員会14名の投票で学長に当選したことへの「本格的」な批判はない。そして、大学の生き残り策に知恵を絞れという結論になっている。この生き残りの関係から言えば、結城氏は選挙に当たっての「政策」として、大学には教育機能と研究機能があり、山大についていえば「前者」に特化するのがよいということを述べていた。本当にこの二つの条件が分離できるものであれば、そういうことも可能かも知れないが、実際にはこの両者は分かちがたく結合していると見るのが常識であろう。
 
 大学の「生き残り策」とはなにか。再編の方向、国立大学法人の「見直し」のあり方など、大学を巡る論点は多岐にわたっている。この機会に、大いに議論をして見たいものである。

上海・席家花園酒家の清蒸肉蟹

 2007年08月23日(木)

「ふるさと納税」の行方と問題点

 菅総務相が提言した「ふるさと納税」制度について、少し感想を述べておきたい。
この「ふるさと納税」制度が提言された「背景」には、日本の社会的格差の一環としての「地域格差」やいわゆる「東京一極集中論」などがあり、地方の自治体が財政的な困難に陥っている現状と相俟って、これを「なんとかしたい」という雰囲気が存在していることであろう。

 現に、構造改革路線を一応踏襲した安倍首相は、この間の参院選挙において「安倍を選ぶか小沢を選ぶか」という選択肢を国民に「つきつけ」て見事に惨敗を喫したわけであるが、この原因として構造改革の負の側面(正の側面があるとも思えないのであるが)への「手当」を重視しなかったことが、自民党の内部からも指摘されている。
 そういう面から見ても、菅総務相の提起はそれなりに、構造改革の「負の側面」を地方を巻き込むことによって「克服」しようとする路線、流れであったと言えるだろう。主として地方の自治体から(特に地方の県)から「賛成」の声が上がり、地方格差の是正の要求をともなって、一定の世論を形成したことも事実であろう。同時に、首都圏や大都市部の自治体からは、一方的に自治体の課税権を奪い、大都市を狙い撃ちした荒唐無稽な議論であるという批判が展開された。
 様相は大都市部と農村部(地方)の対立となり、これを煽るといった不毛の議論となりつつあるが、総務相における「ふるさと納税」研究会は、なぜか未だに議論を継続している。

 この問題を、これまで取り上げなかったのは、単に私の「時間的な制約」の問題もあったが、税財政の専門的な立場から見ると、「議論に値しない、低次元」の話しということもあった。一応の専門家?を集め、なおかつ、ここまで議論が継続するとは到底理解できない(簡単にポシャると思われた)問題だからである。
 あるシンポジウムに出席した神野東大教授も、「この議論を表題にするシンポや講演には出ないつもりでいた」と露骨に「ばかばかしさ」について強調していたが、当然の意見である。

 この「ふるさと納税」制度に関する議論が、これまで継続してきたのは、一つには自民党の選挙政策に取り上げられたこともあるだろうが、経済財政諮問会議の2007年の骨太方針にもり込まれたこともあろう。そこで、「ふるさと納税」制度についての研究会の検討状況を若干見ることによって、それに対する私の見解をのべておこうと思った次第である。

**********************************
 総務省に設置された「ふるさと納税研究会」の趣旨は以下のようになっている。
 「最近、地方公共団体の長などから、都会に転出した者が成長する際に地方が負担した教育や福祉のコストに対する還元のしくみができないか、生涯を通じた受益と負担のバランスをとるべきではないかとの意見が、また、都会で生活している納税者からも、自分が生まれ育ったふるさとに貢献をしたい、自分と関わりの深い地域を応援したいとの意見が寄せられています。
  このような「ふるさと」に対する納税者の貢献等が可能となる税制上の方策の実現に向け、幅広く研究するため、総務大臣のもとに研究会を開催します。」
 また、検討事項は次のようになっている。
(1) 「ふるさと」に対する納税者の貢献や、関わりの深い地域への応援が可能となる税制上の方策
(2) 税理論上の整理
(3) 「ふるさと」とすべき地方公共団体の考え方
(4) 納税者の手続及び市町村の事務負担を考慮したしくみのあり方
(5) その他実現に向けて検討が必要な事項
**********************************

 「ふるさと納税」というごとく、当初は、住民が自分の育った「ふるさと」などに「自主的」=納税者主権?に納税できるように、都市部からの農村部への税源の「再分配」をも射程にいれた議論であった。ところが、上記の内容をみると、議論はするものの、最初からこの住民税等の税の納税地の「選択」という視点は希薄になり、納税者がふるさとを支援・ふるさとに貢献できるような「税制上の方策」などと、かなり曖昧化している。
 さらに、具体の「検討内容」をみると、「税理論上の整理」というように、「税」を念頭においた議論はするものの、実際には、「関わりの深い地域への応援が可能となる税制上の方策」などと、税以外の方法もあり得る(実際には税以外のやり方しかあり得ない)との考えが「行間」にあふれ出ているのが実態である。
 税や財政の専門家でなくても、少なくともこの研究会を主宰する総務省も、税としての議論が「無理筋」であることを重々承知している書きぶりである。
 そういう意味で、多くの国民の「誤解」を招いてしまったが、ふるさとと呼べる「自治体」を納税者が選択をして、自主的に「納税」する、納税地の選択権などという議論が入る余地はないのである。
 しかし、方向を曖昧にして「幅広く」ふるさとへの「貢献」「支援」を議論する研究会にしたからこそ、いきなりポシャることもなく、現在まで継続していると考えられる。
 さて、第3回の研究会あたりで、議論の整理を行っているが、ここで既に「方向性」が見えている。多少、煩雑な内容になっているが、正確を期すために、整理を全文引用しておこう。

*****************以下引用*****************
「ふるさと納税」に関する主な論点.課題等
意義
*地方は都市部に入射などを供給するとともに、森林、農地などがもたらす公益を都市部の住民に提供しているとの意見
*ふるさとに貢献したい・支援したいという個人の思いを税制上実現すべきとの意見
*税の使い達や流れに関心が深まり.地方自治に対する参加意識が高まるとの意見
*過去に提供した行政サービスに係る負担と、それに見合う還元の仕組みを実現すべきとの意見
*都市と地方が良い関係をつくっていく契機となりうるとの意見
*環境を守る意識と密接に結びついているのではないかとの意見
*税収格差の是正問題とは峻別して考えるべきとの意見
「ふるさと」の定義等
*「ふるさと」の定義
*「ふるさと」に封する貢献・支援という制度の趣旨との関係
*要件の確認・認定等の事務手続
租税の基本的考え方との関係
○受益と負担の関係
・居住している地方団体から受ける行政サ-ビスに潜目して税を課すという住民税における受益と負担の関係
・納付先の課税の根拠
・時間軸(ライフ・サイクル)の中の受益と負担
○課税権に関係する課題
・住所地の地方団体の課税権と納付先の地方団体の課税権との関係
・滞納が生じた場合の対応
・条例の効力が及ぶ範囲と課税の関係
・選挙権を有しない地方団体からの課税及び納税
○納付先を任意に選べる仕組み
・納付先の任意性と租税の強制性との関係
○住民間の公平性
・住所地で受ける行政サービスと税負担水準との関係
税制としての構成
*税又は寄附(所得控除・税額控除)
*事務執行面の課題
*納税者にとって使いやすい手続
*納付先の確認・振り分けなどに要する地方公共団体の事務負担
*特別徴収義務者に生じる事務負担
その他の制度設計上の課題
*移転できる税額の割合
*都道府県と市区町村の振り分け
*所得税との関係
*交付税制度との関係
その他関連する論点
*選択する納税者の割合
*税収見積りにおける予見可能性
*使い途
*地方団体の行動に与える影響
****************引用終了******************

 というわけで、内容的には「税又は寄附」という項目に象徴されるように、「税」ではなく「寄附」の話しに限りなく接近していく方向を示唆している。その後の研究会の状況を見ると、まさにそのようになっており、「ふるさと納税」として組んでいく方向ではなく、自治体に対する寄附に際する「控除」や「所得税」との関係など、確かに「税制」がらみの議論ではあるが、本来の「納税」とは無関係の議論に「発展」しているわけである。最初から「横路」に逸れているので、本来なら研究会を解散したらよさそうなものであるが、最初から「織り込み済み」で横路への逸れているという面を持っているわけである。
 議論を見ると「どうやってふるさとへの愛情を育てるか」「ふるさとという意識をもってもらうか」「できるだけ多くの人に寄附をしてもらうためにはどうするか」など(議事録が全面的に公開されていないので、詳細は不明であるが)が出ているようである。公費を使用してくだらない議論をする体のもので、「大きなお世話」であると言いたい。安倍首相の『美しい国』における「愛国心の涵養」などと同じで、「ふるさと」がぶち壊された原因も背景も全く解明されていない。結果として「地域格差」の原因への言及もなく、ふるさとから遠く離れて生活せざるを得なくなった「背景」などもすっ飛んでいる。

 さて、この程度の「批判」をもって、「ふるさと納税」についての批判とするならば、敢えてこのブログで取り上げるまでもなく、多くの人が好き勝手なことを書いているので、殆ど意味はないだろう。
 ここでは、「では、なぜ跡田氏のような一応の税財政の専門家も入った研究会で、こういったことを議論するのであろうか。彼らは何を考えているのか」という視点から、もう少し話を追って見たい。

 「ふるさと納税」を「税」として組むためには、当然のこととして税のルールに基づく必要がある。いわゆる「課税承認権」「支出承認権」などが、税制民主主義の基本として存在することは言うまでもない。国家権力による強制の作用を否定するものはいないだろうし、これが「納税の義務」として規定されていることも周知の事実であろう。
 また、税として制度を組む場合、住民税の場合課税権は自治体に存在するわけであるが、その自治体に居住していない「住民」に対する「課税」の根拠はどうなるのであろうか?課税の客体もそこには存在しない。また、選挙権もないわけであるから、その自治体の支出への承認権も機能しない。つまり、税を納めて貰う「自治体」の側が、それを「貰う」だけの根拠すら存在しないことになる。まして、「滞納」(笑い)の場合の徴収などは、どうなるのであろうか。どう考えても「憲法違反」のオンパレードであろう。「受益と負担」の一致がないなどという「地方税の原則」?に基づく、曖昧な批判以前の問題である。
 また、税として組めば、当然にその自治体の基準財政需要額に算入されることから、それに対応する分、地方交付税が減額され、自治体の歳入は「ふるさと納税」の増加分ほどは増えないのが現行制度の仕組であり、ナンセンスさは、増幅される(およそ、考えるだけあほくさい議論である)。だからこそ、地域間の財政調整機能を期待することは「できない」という議論が、最初から幅をきかせているのである。これに対する反論らしきものは、強いてあげれば「ふるさと重視の機運や地域格差への認識」を啓蒙するといったレベルのものである。

 さて、そこで、議論は税から「寄附」へとワープすることになる。
跡田氏は、ご存じの方もいると思うが、「寄附による投票」という制度を提唱し、長野県の泰阜村などで広く村内外の国民に泰阜村への「寄附」を呼びかけ(使用目的を高齢者福祉や環境の保全などいくつかの項目にわけ、寄付者がそれを選択することになっている。この間、障害をもつ高齢者の海外旅行などにその寄付金が活用され、村の広報にもそのことが記載されている)たことなどは、かなり知られた事実である。実は、私も泰阜村が「小さくても輝く自治体フォーラム」などで果たしている役割や、長野県の合併しない自治体への支援策などに共感して、この寄附を行ったのであるが、この「寄附による投票」という考え方にすべて賛同しているわけではない。

 現時点で、その自治体の自然環境保護であるとか、文化遺産の保護や、福祉の充実など「ふるさとへの寄附」も含めて、様々な内容の「寄附」が募られている。租税国家において、寄附が大きな歳入のウエイトを占めることは考えられないが、寄附行為そのものは、寄附する側の思いもあるし、される側のメリットも当然にあり、否定することはできない。
 しかし、「寄附による投票」という行為によって、例えば、自分が居住する自治体への「寄附」が、その自治体に特定の政策選択を促すことにつながる場合などは、「注意」が必要である。
 先に指摘した支出承認権は、狭い意味での納税者だけに限らず、住民全体の権利であり、生活保護を受けていようが、様々な給付を受けていようが、納税をしていなくても、なんの変更ももたらさない。国民=住民としの「権利」なのである。

 もし、寄附という一定の「意思」や「金銭的余裕」によって、自治体或いは国家の政策が影響を受ける場合(政策の順位付けなどに活用されることも含め)、新しい形態の「利害誘導」になりうるし、また、「金持ち」による政策の「私物化」に帰結する恐れすらもたらされる可能性がある。「住民参加」や予算編成における新しい手法という一面だけで評価することはできない問題である。
 自治体等への寄附(これは当然に、自治体から、新しい「公共空間」としてのボランティアセクター、NPO等への寄附とも連動する可能性があるが)を通じて、どのような「控除」がもたらされるのかとも関連してくる。事実上の「節税」と、自治体等への一定の政策上のプレッシャーなどが、同時にもたらされる場合、これは新自由主義的な税制の歪みを生じさせることになろう。

 強者による節税と政策的な利害誘導などが、最悪の想定となる。自治体の方も、地方消費税の引き上げ(現在は5%の消費税の内、1%が自治体の取り分であるが、この比率を上昇させ税源の地方移譲に活用する議論や、消費税そのものの税率を上げることなどを含む)などに期待せず、消費税の逆進性に真っ向から立ち向かいつつ、同時に、企業優遇税制是正や累進課税の強化など、税制民主主義の「本道」に立ち返った議論をすべきであろう。

 こういった「勇気」をもつことが、実は、現在の更なる自治体再編の推進=市町村合併の更なる「強制」「誘導」や、町村とりわけ人口小規模の自治体の「窓口町村」化=自治体潰しに立ち向かうことと連動するのである。第29次地制調では、いよいよ、自治体潰しの手法としての「西尾メモ」の新バージョンの議論に入るだろう。「審議項目」を見る限り、これは杞憂ではなく、現実のものとなりそうである。これについては、また、日を改めて、論ずることにしよう。

注)「西尾メモ」とは、周知のように小規模町村(人口規模は明記されなかったが、自民党は1万人未満を主張した)について①他の自治体の「内部団体」にすること②都道府県などに事務の実施を補完してもらう「事務配分特例方式」という手法でもって、小規模自治体を「非自治体化」すること、つまり、「総合行政体」としての自治体ではない「窓口町村」にしてしまう提言であった。西尾氏自身は、その後の学会におけるシンポジウム等で、「西尾メモ」と個人の見解は異なるという表明をしている。また、上記の①②自体が「不可能」な手法なので、「西尾メモ」は不可能なことを提言したことから、実際には小規模自治体を潰すことを限りなく不可能にする「意味」があるという「善解」なども出ている。
 西尾メモ自体は、確かに当時の総務省の官僚の「作文」であろうが、やはり発表したのは西尾氏であり、「西尾私案」なのである。これに危機感をもった小規模自治体がその後、全国的ネットワークをつくり「小さくても輝く自治体フォーラム」などを開催してきたことは、この「私案」の歴史的意味を物語っている。第29次地方制度調査会(なぜか、未だに「地方制度」を冠にしている不思議な審議会ではあるが)の「審議項目」を見ると、またもや、この「西尾私案」の亡霊が新バージョン化して「徘徊」する可能性が大である。

上海豫園・緑波廊の蟹味噌あんかけ豆腐

 2007年03月30日(金)

日本経団連「道州制の導入に向けた第1次提言」を嗤う

●日本経団連が「道州制の導入にむけた第1次提言-究極の構造改革を目指して-」(07年3月28日)を公表した。財界「大旦那」の出番とあって、大いに期待して読んだが、読後の感想は「???」であった。それは、資料を含めて「わずか」17頁という貧弱・貧相さだけではなく、言い古された内容と迫力のなさ、安易な発想、タダひたすら「財界のための国際競争力ありき」という姿勢が、透けて見えてしまうからなのかも知れない。
 日本の「大番頭」として、もう少し、説得力のある「論陣」をはってもらいたかったと、やや拍子抜けした気持ちでこれを書いている。

 さて、「第1次提言」とあるように、当然「第2次」(最終)があるわけだが、

*****************************************************
・国、道州、基礎自治体それぞれの位置づけ、役割と権限
・中央省庁の再編
・道州間の財政調整のあり方
・道州制導入による経済波及効果の推計
・首都の位置づけ、大都市制度のあり方
・相対的に経済活性化が遅れている地域の取扱い
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 といった「もっとも重要かつ議論が困難」な問題が殆ど全て「先送り」されており、要するに「機運」を盛り上げるために今回の「第1次提言」がだされたのかも知れない。
 しかし、そうはいっても、なかなか「侮れない」部分もある。その辺を中心にして、感想を述べ「備忘録」としておきたい。

●提言は、これまでの「地方分権」(三位一体改革など)の評価や課題の分析の最後に「過疎化や高齢化の進行は、税収の減少と社会保障支出の増大を通じて、地方財政をさらに悪化させるおそれが強い。
他方、地方交付税交付金や補助金などを通じて地方財政に関与してきた国も、財政収支の悪化により、財政調整能力が著しく低下している。三位一体改革を経てもなお残るこうした課題を整理し、国と地方の関係にかかわる課題の解決に向けた手立てを講じることが急がれるが、道州制の導入は、それらを根本から解決に導く大きな可能性を秘めた改革であるといえよう。」と述べている。
 平たく言って、提言の副題にあるように「究極の構造改革」として位置づけられているわけである。

 「道州制導入の意義・目的」としては、「統治機構の見直しを通じた政策立案・遂行能力の向上」などをのべているが、要するに言い古された「地方分権」のタームである。曰く「もはや、全国画一的な政策のもとでは新たな活力は生まれず、これからは、多様性を容認しつつ、地域の自立のもとで新たな付加価値を生み出すことが必要である。一定の規模を有する広域的な地域がそれぞれの特徴、個性を踏まえ、独自性を発揮し、競争を通じて活力を高め、真に自立した地域となる努力を行う。 そのために、内政上の政策にかかわる企画・立案や意思決定、関連事務・事業について、国から地方公共団体へと権限を移すこと、すなわち統治機構を根本から見直すことが、『希望の国、日本』をつくり出す基礎をなすものであると確信する。」
 財界が「地域に独自性」を求めるのは自由であろうが、その前に「規制緩和」や「補助金」などによって、もっとも手厚く国からサポートを受けてきたのが、他ならぬ経団連傘下の大企業である点をホッカムリしてもらっては困るというものである。しかも、地域だけには「独自性」を要求しつつ、オノレは「成果主義賃金」とか「業績主義賃金」「能力主義賃金」などと、どこを見ても「金太郎飴」そのもので、なんの「独自性」も感じられない。そもそも、財界の中で意見が一致して「提言」などを出すこと自体が「気持ちが悪い」(笑い)。
 政府の分権改革推進会議でも「少数意見」くらいは公表していたが、この程度のことは、「日本の将来のために」にして欲しいと思う(爆。

●お義理に「地域における行政サービスの質的向上」などの項目も立てているようだが、「民間でできることは民間に」の理念に基づき、国・地方を通じて官の役割を必要最小限にとどめるとともに、国と道州、基礎自治体、さらには地域コミュニティとの間で、新しい時代にふさわしい適切な役割分担を実現する必要がある。」というように、新しい役割分担によって「自分のことは自分で」ということに帰結する。
 道州制は、提言を見る限り地方自治体のように見えるが、道州制間の競争や国際競争に打ち勝つことも道州の「役割」となっている。こうなると、地方自治体というより「国家分権」というか「連邦国家」をイメージしないと無理があるが、地域の過疎化や少子高齢化などの課題を道州やより拡大された市町村に「おしつけ」、国家のほうは、外交とか国防などに専念するという。

 こういった「囲い込まれた」自治体は道州であろうと、市町村であろうと、国のことに口出しできない構造になる。まちづくりや、住民生活でも例えば「米軍基地」問題などは重要な争点になるが、これは地方の選挙の争点には馴染まないということになろう。あくまで「身近」な、「些末」なことをやって、上手く生き残り「国際競争」にも勝ち残れる地方が出てくれば「それはそれで儲けもの」と言った気楽な発想が見てとれる。敗北すれば「自己責任」ということだろう。

●「道州制の導入によってかたちづくられる新しい国の姿」についても、古くさい。「個性ある地域づくりと分散型国土・経済構造の形成による国際競争力向上」だそうだ。こんなことは、今時分、どんな田舎の政治家でも口にする(田舎を差別しているわけではないので、誤解のないように)。
 これで、国は金も出さずに「長年の懸念となっている東京一極集中も是正の方向に向かおう」というノー天気である。なんで、市場原理に任せて「東京への一極集中」が是正されるのか理解に苦しむところである。そして、これに続けて「道州制の導入は、こうした状況を結果として是正していくことになるが、これは国際都市・東京の競争力を殺ぐことを目的とするものでは決してない。国際都市・東京は今後も、わが国全体の競争力強化の拠点として、整備していくことが必要である」と述べている。
 地方の独自性というのであれば、東京が「国際都市」を選択しようがしまいが、また競争力の拠点として「整備」しようがしまいが、住民の自由ということになるハズであるが、どういうわけか、ここだけには「整備して行くことが必要である」と、なにか国が金も口も出しそうな雰囲気である(笑い。

 こんな「回りくどい」ことを言うなら、東京の石原都知事のように「オリンピックを誘致」など、ハッキリと「国際都市」に結びつけるインフラ整備の必要性を述べたらよいと思うのだが、どうもそういうワザも欠けているようである。東京には「肩入れ」して、地方には「個性」や「独自性」の名の下に自立を求めつつ「地域間の経済格差が是正されることも期待される」と述べるに到っては、噴飯ものだろう。

●住民生活の方には、国や道州の力をできるだけ投入せずに(これが「補完性の原理」として説明されている)、地域コミュニティまで動員して自立自助でやれ!ということになる。言われなくても、日本の国民は自立自助でやるほかないのが実態なのだが・・・
 
 そして、要するに「国・地方を通じた行財政改革の実現」が道州制の大目的になる。究極の構造改革であり、都道府県「つぶし」(と言っても、現在の都道府県知事の大半は道州制賛成であり、私はこれを自虐路線と言っている)による、財政大合理化である。市町村合併などの「比」ではない、財政の合理化に結実することは、確実であろう。
 そこで、道州なり市町村なりに「競わせて」おいて、「企業もまた、各道州の努力や独自性を踏まえて、本社や工場等の立地および事業戦略を選択することができるようになる。」と述べている。

 私は、日本や地域を捨てて、海外に出て行く企業(もちろん、出て行ってもよいが、地域にはそれだけの落とし前をつけてから行けということである)について、「ドンドン、出て行けばよい。二度と帰ってくるな」と言っているのであるが(笑い)、こういう棄民・棄地域路線というのは、賞味期限の切れたお菓子を誤魔化して売っているような企業より、何百倍(笑い)も罪が重いと思っている。
 住民が福祉の充実した自治体を「選択」して、移住するのは当然であるが、企業が税の安い地域や優遇策を用意している自治体に移住するなど「100年早い」。なにか、相当に勘違いしているようである。

●最後は「道州制導入に向けての道筋」ということになるが、なんと「政府によるイニシアティブ」が一番先に来る。エバッていたガキ大将が、突然「お母ちゃんに泣きつく」ような真似は見苦しい限りである(笑い。
 1960年代の学生運動ですら「カルチェラタン闘争」とか「解放区」とかを目指して「奮闘?」した位であるから、日本の番頭だったら、勝手に解放区でも作ったらどうなのか。
 自らは、宣伝やシンポなどで「機運」を高めるというような「レベル」で、政府主導を求める姿は痛々しい(笑い)が、結局、政府と「談合」でやろうというわけであろう。
 その昔、佐藤栄作元総理は、青島幸男に「財界の男めかけ」と言われて色をなしたが、いまの財界には、こういった「矜持」もないのだろうか(爆。
 
 経済同友会は、小泉首相の靖国参拝に対して意見を述べたが(もちろん、自分たちが進出している東アジアで割を食ったら「ソン」という打算が中心で、結局、小泉首相に「政治に商売を持ち込むな」と一喝されて腰砕けになったが)、日本経団連の方は、最初から腰が引けていた。

 そして、道州制への取組は「責任分担型の社会を目指した国民の意識改革」だそうである。
どうも、「ホワイトカラー・エグゼンプション」とか、労働者を労働時間に関係なく「ただ」で働かそうというような組織は、考えることがひと味違うものである(笑い。
 昔、「小さな親切運動」というのがあったが、私は「小さな親切、大きなお世話」と評価していた。今回は、ただの「大きなお世話」である。

●というわけで、道州制の話からかなり「逸れて」しまったが、私が悪いのではなく、日本経団連の提言の方が悪いのである。もう少し、シッカリと研究して、国民に「それらしい」説明をした方がよいと老婆心ながら思ってしまう。
 なんとか国民意識を変えたいがために、最後に「道州制憲章7ヶ条(試案)」というスローガンが載っている。これを、皆さんで味わってほしい。

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一、 国に依存せず、地域の個性を活かし、それを磨きあげる心が、日本全体に
活力をもたらす。
一、地域の自立は、そこに住まう住民の発意と熱意によって実現される。
一、日本に、そして世界に誇れる街づくり・地域づくりを進める。そのため、
住民全員が努力し、各々の責任を果たす。
一、地域を愛し、地域のために尽くす人材は、地域の宝である。
一、一人ひとりが、生涯を通して地域に根ざし、はつらつと生活し、学び、働
ける地域をつくりあげる。
一、多様なチャレンジの機会にあふれ、全ての人々が切磋琢磨する社会をつく
る。また弱者には手が差し伸べられる。
一、家庭を基本的単位とし、住民が相互に支えあう地域をつくりあげる。
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 なにか、現代版「ほしがりません勝つまでは」という感じ(爆)ですが・・・センス古いですね~。
電通とか使った方がよいかと思ってしまいますが・・・
 我々の方も「シッカリ」と、地方自治のありようについて、考える必要があるということだけは、「提言」を読みつつ、「ひしひし」と感じた次第です。

六義園のしだれ桜

 2007年03月25日(日)

秋田県「子育て新税」の怪

●秋田県の寺田知事が固執している「子育て新税」というのをご存じだろうか。地元秋田では「大問題」になっており、今回の地方選挙に立候補している「大半」の候補者が「反対」をし、しかも、県議会で「拙速である」という反対決議すらあがっているのである。しかし、寺田知事は「めげる」こともなく(今回の地方選挙では秋田の県知事選挙はない・・・)、「子育て新税」の導入を主張しているのである。
  
 地元では、世論の反対にも拘わらずこれだけ粘着するのはなぜなのだろうか。どうして、他府県でも導入していない「子育て新税」を「秋田」でということになるのか。また、財政危機や赤字の後始末を県民に負担させるということはどういうことなのか、など批判と疑問が渦巻いている。

 さて、「子育て新税」とは、最初の構想と現在の構想がかなり変化しており、その面での「いい加減さ」も指摘しておかなければならないのだが(それはさておいて)、当初は「目的税」として、少子高齢化が全国屈指の秋田において、子育て支援や教育費に「目的」を限った税を導入するプランが公表された。このプラン作成と並行して、「住民アンケート」なるものが実施され、「子育てや教育に関して、充実させるための増税」についての賛否を問うている。このアンケート自体、かなり「誘導尋問」的なものであり、財政が赤字になって少子高齢化がこれ以上進むと、取り返しがつかないので、「やむを得ない」というような雰囲気に「囲い込もう」という意図が「見え見え」のものであった。
 しかし、そのアンケートですら、総じて「反対」の方が多く、賛成は少数派であった。寺田知事は、マスコミ報道によれば、反対が多くても「やる」という意気込みで、30%位の賛成があれば、議会に提起するという姿勢を示していた。

●この辺りから、「とのご乱心」という雰囲気はあったが、住民団体や労働組合などが機敏に立ち上がった。世論の反対が圧倒的であると見るや、知事は「目的税」から「住民税引き上げ路線」に転換し、最終的には(まだ、最終ではないが)、住民税の一定所得以上の納税者に0.4%程度の税率の上乗せを行うというプランを示した。比例税であるので、一定の所得以上層では1万円を超える増税となるし、住民税課税所得に達していれば、かなりの「低所得層」でも「増税」となる。

 当初案の「目的税」は、かなり「危ない」ものであり、現在「少子高齢化対策費」や「教育」に使用している財源との関係の整理が着かない。細川内閣の時に「福祉目的税」として消費税を引き上げるプランが夜中に公表され、あっという間に世論の反対で「没」になった経緯があるが、この事実を想起させるものであった。自治体の財政危機は事実であるが、別に「福祉」や「少子化」対策費だけが不足しているわけでもなく、全体のバランスを考慮した予算編成が必要であることは常識であろう。
 日大の北野弘久名誉教授は、常に「日本国憲法の下においては、全ての税は福祉のために使用されるべきであり、軍事費などは憲法違反であり、また、『福祉目的税』なども憲法の想定している税の性格を歪める憲法違反のものである」と主張されてきた。憲法論として、突き詰めて考えれば「当然」のことであろう。

●それで、私が「全労連」の機関紙にこの問題での「談話」などを出したこともあり、秋田からお呼びがかかった次第である。「子育て新税学習会」(秋田県革新懇、子育て・教育支援を考えるネット主催)が開かれ、財政を中心とした話を行った。
 私が強調したのは、何点かあるが、

①自民党の改憲案にある「地方自治の章」の「改正」プランは、かなり多くの条項がある。まず「自分のことは自分でやる」という国や都道府県の役割の「後退」を前提にし、できるだけ市町村に「身近な(些末な)」ことを行わせ、負担分任制度(受益者負担の強化)、自治体の財政の健全化を憲法で義務付け(リストラの事実上の強制によって、自治体を夕張市のような「植物自治体」にする)、そして地方特別法に関する住民投票を廃止するというものである。今回の「子育て新税」は、こういった安倍政権の下での「改憲」プランに合致するものである。

②「地方分権」「地方分権」とことあれば強調されているが、現在の「進行方向」は地方の裁量度の拡大の名の下に「自由な増税」と歳出の削減が目指される状況になっており、この点でも「子育て新税」は方向性が合致している。

③秋田県は、子育て支援や高齢化対策を他府県に比べて重視して来たと、寺田知事は述べており、その上で、「なお重視」「足りない」部分は、県民の負担でという主張である。秋田県の民生費や、少子高齢化対策費は人口一人当たりで、確かに多い方ではあるが、実は「人口密度」と「少子高齢化対策費」をクロスさせて47都道府県の分布図を見ると、全体の分布の近似曲線より「下」に秋田はある(つまり、「並」以下)。
 また、高齢化率と一人当たりの「少子高齢化対策費」の分布を見ても、これは秋田県は、近似曲線のかなり「下」にある。

高齢化率と少子高齢化対策費の分布図


 他方で、歳出に占める「土木費」「投資的経費」の水準は、全国的にかなり上の方になっている。また、秋田県の長期的財政支出の傾向を見ると、教育費が一番減少しており、投資的経費も97年をピークに確かに減少しているものの、減少率は全国水準以下になっている。そして、その投資的経費の「後払い」である「公債費」は04年にピークになっているのである。
 しかも、交付税が減らされている中で、投資的経費に占める「単独事業」(県の一般財源持ちだし)の比率は結構高い方なのである。
 以上をまとめると、秋田県は現時点でも「教育大県」でも「少子高齢化対策費大県」でもなく、むしろ「土木大県」的な財政構造を維持していると言うことができる。

④このようにみてくると、これまでも少子高齢化対策を重視し、なおかつ今後もこれらの支出が増嵩するので、「予め」増税を県民にお願いするというような「大前提」がそもそも成り立たない、ということなる。

⑤しかも秋田県の人口一人当たりの住民税は、全国最低レベルであり、この面からも、住民税への上乗せは、もっとも避けるべき手法である。

●というようなわけで、当日は資料を配布して「事実」に基づいて、以上のことを立証しつつ、私の見解を述べた。今回の「子育て新税」の対象には、当初は学校の建設などのハードの部分も潜り込まされており、さすがに、議会の追及などでこれは撤回したが、全く「油断も隙もない」とはこのことである。
 
 そこで、どうしても強調しておきたいことは、「地方分権」「地方の裁量権の拡大」「自由と責任」というような流行のフレーズが一体なにを意味しているのか、と言う問題である。
 私は、小泉構造改革における「地方分権」などの方向は、自治体に福祉の切り捨てを事実上「強制」する「福祉国家破壊型の地方分権」であると主張しているのであるが、「子育て新税」は、この「税」の面における一つの典型方向である。
 同時に、全国的にみて、「行政サービス制限条例」のようなものがかなりだされており、また、国保証の「取り上げ」や「生活保護申請の水際排除(北九州方式)」などが跋扈している。
 これは、負担をしない(実際には「できない」)住民に課罰的な仕打ちを行い、その地域の中で発生する受益をその地域内で(実際の受益とは関係なく)負担させるという路線になる。

●受益と負担の関係は、地方税にあっては、「応益負担」説が優勢にみえるが、実はこの「応益」とは課税の根拠(応益のない事象に対する課税はあり得ない)であり、負担の配分とは異なる論理だというべきであろう。つまり負担の配分は、地方にあっても「応能負担」が憲法の負担原理であり、地方にも適用されるべきなのである。

 秋田県は「自殺大国」であり、もう10何年も一位を続けている―近年「自殺対策基本法」なども制定され、秋田県下の町村の自殺対策での「成果」にも目が向けられているが(本橋豊『自殺が減った町ー秋田県の挑戦』)―全国一の人口減少県でもある。
 秋田市も、この間の合併がなければイオンなどの郊外展開型のSCにおされ、「中心街」の空洞化も拡大し、下手をすれば中核市の用件である30万人割れも現実のものとなる可能性すらあったのである。
 日本の自殺は98年から急速に拡大し、3万人を超える水準を保っているが、「自殺対策基本法」が正しく述べているように「自殺は個人的なものだけではなく、社会的なもの」である。
 中高年の自殺率の高さ、特に98年以降はこれが拡大している。同時に、注目すべきは(多分、常識とは異なって)、自殺は農村部の方が多い。これは高齢者の方が自殺率が高いということから、ある程度の相関関係はあるが、しかし、それだけでもない。最新の自殺率は、秋田、青森、岩手、山形と東北地方が多い。農業の衰退と人口の過疎化、地域産業の地盤沈下などが「総合的」に作用し、「鬱病」などの拡大と共に、自殺の背景になっている。自殺する中高齢者には、一人暮らしよりも家族との同居の方が多いのも、特徴である。これも常識と反するかもしれないが、家族間の生活様式、意識の違いなどが「軋轢」となり、自殺の背景を形成していることも想像に難くない。

●自治体とは、住民の「平和的生存権」を守ることにその「存在意義」があるのであって、地域を活性化させるための、住民の様々な取組、NPOやボランティア組織などの運動の重要性と共に、統治体としての自治体の果たすべき「政治」というものがある。
 これを忘れて、住民に不要な負担を強い、福祉や教育を後退させることは「自治体の自殺行為」である。自殺の多い秋田県で、自治体まで「自殺」をしてどうする!?というのが、私の話の「落ち」であったが、少しブラックジョーク過ぎたと「反省」をしているところである。

秋田県のいたるところに展開するイオングループ

 2007年03月16日(金)

読売「統一地方選・首長アンケート」(3月15日)を読む

●読売新聞(3月15日付け)が「『小泉改革で中央・地方に格差』…読売首長アンケート」という記事を掲載した。ネットに配信されたものはわずかであるが、まず引用をしておく。

************************以下引用***********************
 「4月の統一地方選を前に、全知事、市区町村長の計1882人(2月1日現在)を対象に読売新聞社が行った「全国自治体首長アンケート」で、全体の9割が「小泉改革」によって中央と地方の格差が広がったと感じていることがわかった。
 選挙の争点となる重要政策課題では、財政再建や地域経済の活性化が上位に挙げられるなど、厳しい財政、経済事情の中、やりくりに苦悩する首長の姿が浮かび上がった。
 アンケートは、インターネットの画面で回答する方法で、1月末~2月末に1718人から回答を得た。
 統一地方選で争点になると考える重要政策課題(複数回答)で、一番多かったのは、公的介護保険や医療、少子化対策などの「福祉政策」(64・8%)だったが、「地方財政の再建」(63・7%)、「雇用・景気対策など地域経済の活性化」(57・6%)がわずかな差で続いた。
 三位一体改革や規制緩和などの「小泉改革」で、格差が広がったかとの問いには、「そう思う」が54・8%で、「どちらかと言えばそう思う」と合わせると89・2%に上った。格差を感じる首長の割合は、人口規模が小さいほど高く、5000人未満の自治体では96・2%が格差の広がりを認めたが、50万人以上では75・9%にとどまった。
 また、地域経済の実感に対する質問では、「上向いている」との回答は21・2%。これに対し、「悪化している」が27・5%、「変わっていない」が50・7%を占め、冷え込んだ地方経済のてこ入れに腐心していることをうかがわせた。」
************************引用終わり**********************
 
Ⅰ)格差とはなにか。格差は拡大しているのか。

 さて、実際のアンケートに関する記事は2面ぶち抜きという大変に大きなものであるが、まず引用部分の内容について若干のコメントを行っておきたい。首長アンケートは、あくまで首長の印象といったものであるので、実際の自治体の姿とは「若干異なる」かも知れない。しかし、上記の内容は、恐らく「実態」をかなりの程度「反映」しているように思う。
 特に、三位一体改革や規制緩和などの「小泉改革」によって、地方間格差が広がったという認識を多くの首長が共有している点は、重要であろう。約9割の首長、小規模自治体に限っていえば96.2%であるから、殆どの首長が格差拡大を認識していることになる。

 この「格差」については、この1年~2年の間にすっかり「社会的」用語になってきた。所得格差、社会格差をはじめ、ワーキングプア、ヒルズ族など格差を象徴する流行語もかなり多くなった。
 ところが、この「格差」について、その実態や評価をどうみるのかということになると、意外に難しい問題になる。今回のアンケートは、あくまで「印象」であるから、何を指標にして格差が拡大したとみるのか、各首長によって、その把握内容は異なると思われる(それでも、なおかつ「格差拡大」を認識しているという「共通項」の存在は重視すべきであるが)。

 この「地方格差」については、自治体運営という視点からみれば、かなり真実に近いと思う。また、地域ごとの所得格差などをみれば、全体の格差が拡大していることを反映して、かなり実態に近いと思う。最近では、毎日新聞(3月6日付け)にこの問題が掲載されていた。
 「内閣府が6日公表した04年度の県民経済計算によると、都道府県民1人当たりの県民所得は、全国平均では297万8000円(前年度比0.3%増)で2年連続で前年度を上回ったものの、地域間の格差を示す「変動係数」は3年連続で上昇し、15.57%となった。01年4月に誕生した小泉政権下で、地域格差が拡大していたことを示している。・・・」と。

 また、同紙2月4日付けでは、「99~04年の全国の市区町村の納税者1人あたりの平均所得に関し、格差の度合いを示す『ジニ係数』を年ごとに割り出したところ、02年を境に上昇したことが3日分かった。ジニ係数は毎日新聞が東京大大学院の神野直彦教授(財政学)の協力を得て割り出した。平均所得の最高値と最低値の差は3・40倍から4・49倍に拡大、小泉純一郎前政権の間に地域間格差が開いたことを示した。神野教授は『感覚的に論じられてきたものを初めて定量的に示せた』と指摘しており、地域間格差は4月の統一地方選の主要争点になりそうだ。」と指摘をしていた。読売のアンケートでも、こういった現状が追認されたと言えるかもしれない。

 ただ、上記の「格差」という認識で、誤解しないようにすべきことは、都市部の「住民」の生活が地方の「住民」の生活より、「豊である」「豊かになった」というものとは異なるという点である。「平均所得の上位はほとんどが大都市部。04年には東京23特別区のうち9区が上位20自治体に入った。これに対し、下位は軒並み高齢化の著しい町村部。最高値と最低値はそれぞれ、99年は東京都港区の751万円、秋田県東成瀬村の221万円で、04年が港区の947万円、北海道上砂川町の211万円だった。」という記事からも理解できるように、あくまで「格差」は「平均値」の拡大によって裏づけられた数字である。
 港区のように、六本木ヒルズをはじめ高額所得者が集中し、ガイジンなども多い地域でも、高齢者が豊かな老後を送っているかどうかという事などを調査すれば、それが「妄想」であることが理解できるだろう(この点は、『自治と分権』25号の対談:唐鎌直義×河合克義「いま、国民生活・自治体はどうなっているか」 などを読んで頂ければ幸いである)。

 また、都市部と農村部(地方)の物価をはじめとする「生活費」(生活スタイルの差からくる出費)の「格差」も大きい。いわゆる「東京一人勝ち論」などは、こういった大都市部の住民の生活苦などの視点が「スッポリ」と抜けた議論であり、都市と農村の「対立」を煽る議論に利用される恐れすらあるわけである。
 というわけで、ジニ計数などに基づく「格差論」には注意が必要である。このことを前提にすれば、神野教授等の作業は正しいと思われるし、政策的対応が必要な事も明確だろう。

Ⅱ)国と自治体の財政関係ー自治体財政の逼迫

 多くの首長は、自治体経営が一層困難に陥りつつあることを、正確に認識しているようである。特に、小規模自治体の首長にあっては、深刻である。読売のアンケートで「なるほど」と思ったのは、日本全体で、財政状況「厳しい」と回答した首長の割合が、「90%以上」「80%~90%未満」・・・「60%未満」という分類で、日本地図が色分けされているのであるが、最後の60%未満は東京だけである。そして、その一つ上のランク「60%以上70%未満」は神奈川から愛知までの「太平洋ベルト」地帯のみ。そして、それに新潟や岐阜、北関東などが続くという「色分け」になっている。地域経済の状態について「悪化」という認識は、北海道が一番高く60%を超えている。これに四国や九州が続く。
 常識と見事に「一致」しているのではないだろうか。これは、ある意味で小泉構造改革の「たまもの」である点が重要である。つまり地域経済の状態→自治体の財政状態→自治体経営の困難化という「三位一体」現象が強化されたということであろう。従前は、この「→」(矢印)は地方交付税や補助金の配布によって、地域間の所得再分配によって、ある程度「緩和」されてきた面がある。
 しかし、小泉構造改革は3兆円の税源移譲に伴って、約6兆円の地方の財源の「召し上げ」を行ったのである(多少、景気回復による交付税額の低下という「客観的」な側面が伴うが)。この点については、拙稿地方財政の変容―構造改革の帰結と問題点①を参照して欲しい。

 案外、国は「ちゃっかり」と地方を犠牲にして、自分の歳出を確保しているのである(と言っても、社会保障関係は目の敵であったが)。

 首長アンケートを見ると「地方分権を進める上で不可欠な条件」という質問があり、トップは「税財源の充実」86%、続いて「国と地方の役割分担」「地方への権限の移譲」となっている。なんのことはない、役割分担や権限の移譲などを通じても、地方への財政圧迫は貫徹されるから、分権が進めば進むほど、地方の財政、台所は苦しくなるという「だけ」の話になっている。これが「地方分権」の真の姿ならば、地方分権などは「いらない」ということになるだろう。なおかつ「分権推進」というなら、この大前提を覆す必要があるわけだ。その前提なしに、「分権」だけを主張することは、まさに「自虐的」発想であろう。
 ところがこの「自虐的」発想をし、推進している勢力もある。全国知事会などがそれに該当する(今回は、深く触れないが)。

 読売の今回のアンケートについて、北川正恭氏がコメントを寄せている。「自立促進がポイント」であると。「自立」した瞬間に「死」に到る自治体が多い中で、結構なコメントである。いい加減に「自立」の大安売りはやめた方が良い。地方交付税や国庫支出金を貰っているからと言って「自立」していないわけではない。所得がない障害者から負担金を取り、「支援」と言い、「自立」を迫る国であるから、「自立」というタームは余程、時の支配層にとって都合のよいものなのだろう。

Ⅲ)その他、気づいたこと。

 読売アンケートは大変に面白かった。統一地方選挙の争点では「福祉」「財政再建」(実は「福祉」とバッティングしてしまうのであるが)「地域の活性化」(財政再建とバッティング)の次に「教育」が高く、45%となっている。これは、国が教育への介入を強めようとするなど(ある知事は「文科省の焼け太りだ」と吐き捨てるように述べた-その通りだろう)、地方の警戒心が強まっていること。また、小泉構造改革の犠牲者が子どもであったことが、客観的に(主観的には違うが)示されている点に興味を持つ。

 談合については、悲観的である。公務員制度改革については「実力主義の貫徹」と。マスコミの影響の強さを示すアンケート結果になっている。道州制について、「賛成」19.5%、「どちらかといえば賛成」28.6%と双方で48%になっている状況は、ちょっと「恐ろしい」ものを感じる。それだけ、現在の地方自治の実態が閉塞しているということだろう。具体的な「広域行政」のあり方への提起が求められているように思う。その他にもおもしろい論点が沢山あるが、今回はこの辺で。

土佐清水市の漁港=市場

 2007年02月27日(火)

地方財政の変容―構造改革の帰結と問題点②

★地方財政の変容―構造改革の帰結と問題点①につづく。
 以下は、「建設政策」に掲載した同名の論文の後半部分である。


Ⅱ)2007年度地方財政計画と住民生活
 安倍内閣の2007年度予算と地方財政計画をみると、上記のように国から地方への負担の転嫁と地方財政の縮小が続いている。2007年度地方財政計画の特徴をみると、概ね以下の諸点を指摘できる。

①地方財政計画はほぼ前年並みの83兆を確保したものの、地方一般歳出は△1.1%の減となっている(8年連続の減少)。これは、社会保障関係を中心にして約5000億円の増加要因があるにもかかわらず、教職員の減や、給与関係費の減(合計4300億円)、投資的経費(単独事業)の3%(3000億円)の減がこれらを上回るためである。

②地方税が15.7%増加見込みの中で(5兆4700億円の増収見込みのうち、従前の所得譲与税の皆減分3兆円をさし引いても、2兆5000億円近い増収見込み)、地方財政計画と「決算」との乖離是正を加味すると、一般行政経費△0.9%、投資的経費(単独事業)△3.0%とするなど、デフレ型の歳出構造を維持している。

③さらに、地方交付税については、交付税特別会計からの新規借入を廃止し、6000億円近い過去の借入の償還を行っている(18年度補正予算より)。地方財源不足額は、対前年比で半分程度に減少し、4兆4200億円であるが、財源対策債と臨時財政対策債等でカバーし、国の折半負担は新たに生じない状況になっている。全体として交付税は、△4.4%の15兆2027億円と対前年比で7000億円以上減少している。これは、地方税収の伸びの要因もあるが、地方財政計画全体の縮小路線が貫かれており、一般財源が過小に見積もられている要因が大きいだろう。

④国も地方も税収増への対応は、国債や地方債の圧縮など「借金返済」にあて、市場化への対応を強化している点に特徴がある。「財政再建重視」と「市場化重視」のスタンスである。

⑤自治体では、以上の結果として、住民サービスの切り捨てや職員削減=事務事業のカット、行政の民間化・市場化が飛躍的に推進されることが予想される。

Ⅲ)地方分権と地方財政危機―戦後最大の危機に直面する地方自治・住民生活
 国の歳出面における小泉「構造改革」(三位一体改革に対応)の結果は、歳出抑制が追求され、2004年度には年金制度、医療制度(診療報酬・薬価切り下げなど)、生活保護の見直しが進められ、2005年度には介護保険における利用者負担の見直し等、国保制度への都道府県負担の導入、2006年度には医療制度における利用者負担の増大、後期高齢者医療制度導入や介護報酬改定による医療費抑制などが実施されている。
 先に、国と地方の歳出純計の図によって、国の実質的歳出が地方への負担転嫁によって行われていることをみたが、社会保障費の「自然増」に対する本格的な切り込みが、今後予想される。これが「歳出入一体改革」の本質であり、プライマリーバランス黒字化の本質である。
 公共事業の一層の「抑制」に国民の関心が高いことは、相次ぐ知事の談合汚職などへの怒りが背景にあるが、日本の公共事業の対GDP比はフランスなどと大差ない状況に既に至っている。小泉内閣時代に発行した国債の大半は「赤字国債」であり、経常経費を削減しない限り(増税による対応もあり得るが)、これを減らすことはできない構造になっている。
 自治体の方はと言えば、夕張市にみられるように、財政「破綻」をきたす例が既に発生し、「夕張ショック」などと言われている。夕張市は、確かに様々な特殊事情(旧産炭地で人口が1960年代初期には10万を超えていたものが、国の産業政策の転換などによって、現時点で人口1万3000人であるとか、国のリゾート開発から観光重視まで、多くのミスリードと自治体自身の「粉飾」決算を指弾されるなど)があったが、財政問題としてはごく「例外」ということもできない。
 今後予想される、自治体財政危機の「早期是正」制度などによって、新しい「指標」(実質赤字比率、連結実質赤字比率、実質公債費比率、将来負担比率)が導入され、これの一つの指標でも国の「指定基準」をオーバーした場合、夕張市が再建計画に盛り込もうとしているような、住民生活の切り捨てによる「財政再生計画」や外部監査が強制されることになる。そういう意味で、「第2の夕張にならない」というスローガンは、財政の健全性を守るスローガンにみえつつ、実際のところは、住民生活を「切り捨てる」リストラのスローガンになりつつあるのである。

 こういった「恐怖」による自治体管理は、「財政再生制度」確立の名の下に、総務相による予算変更勧告すら予定されており、実質的に「地方自治」とは名ばかりのものとなる。
 元来、「地方財政危機」というのは、財政収支のバランスが崩れ、赤字が発生するというような「現象」によって、その本質が現れているわけではない。現に、夕張市においても、現実の赤字決算転落には、観光事業などの「過大」な投資のツケが累積したというだけではなく、国の三位一体改革によって、地方交付税が大幅に減少するという「政治的・政策」的な対応を「契機」としている。
 財政危機の本質は、「地方自治」の後退であり、住民生活の危機である。地域産業など地域の経済的基盤が低下・崩壊し、所得が減少し住民生活の低下や負担の増大がみられるなど、その基盤が危殆に瀕することなのである。
 そうであるならば、財政危機のからの早期是正や「再生」の名の下に、更なる負担を住民に転嫁する方式は、財政危機の「深化」以外のなにものでもないということになる。「本末転倒」とは、こういうことをいうのである。

 このような状態が「三位一体改革」や地方分権の「帰結」であり、いま自治体は、市町村合併→道州制などの「自治体再編」と財政危機対応の行政民間化の双方による「自治の空洞化」に直面しているのである。筆者が「戦後最大の地方自治の危機」と述べるのは、以上のような認識をベースにしている。
 夕張市の問題が、実に「タイミングよく」、政府の「財政再生制度」の策定に見合った時期に発生したことは、単なる偶然ではなく、この政策方向に具合よく事態を流し込み、全国の自治体を萎縮させる効果をもつ。いま、自治体は本来の機能を取り戻し、住民生活の「砦」としての役割を一層強くはたす方向をめざすべきなのである。

蛇足
 夕張問題については、筆者は、『自治と分権』第27号(4月発売)に、「夕張市『財政破綻』問題の論点と自治体の危機」という小論を書いたので、参照してほしい。現在、夕張市の住民を励ます視点から、様々なボランティア活動、カンパによる成人式、映画祭の実施などが全国的な関心の下にすすめられている。政府は、こういった事態の下で、あまり「見せしめ的」に夕張を活用できない状況になっているが、同時に、こういった「支援」によって財政危機を克服できるものでもない。それは、やや性質の異なる問題群なのである。政治・政策的に引き起こされた「財政危機」「破綻」は、やはり政治的に解決をしなければならない。小規模自治体を「非自治体化」する方向が示唆され、現実に、市町村合併の一層の強制や、道州制の導入などが喧伝されている現在、「自治」の単位を守り、住民生活を守る姿勢を堅持する必要がある。旧来の農村共同体などの「再生」など、地域コミュニティの再生は地域を再生していくベースになるものであるが、財政危機に対応する手段ではない。もし、これが財政危機に対応した危機「打開策」となれば、それは「小さな政府」「小さな自治体」「非自治体」をめざす政府の掌中に陥ることになる。
 「財政危機」からの脱却は「小さな政府」をめざすなかからは展望はでない。反対に、本格的な福祉国家をめざす路線への転換なかで、その財政政策として、脱却の方向を見定める必要がある。
 ボランティアや様々な支援の活動が活発化するにつれ、それが政治的にどういう方向にむかっていくのか、十分な検討が必要になってくる。
 ある意味で、夕張問題で一番重要なのは、この点かも知れない。

うしろからみた足摺岬のジョン万次郎像

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 写真は、足摺岬にあるジョン万次郎の銅像です。かれが作成した「英会話」の辞書(本邦初)も写真に撮ってきましたので、そのうち公開をします。

 2007年02月26日(月)

地方財政の変容―構造改革の帰結と問題点①

★この拙稿は、『建設政策研究』に掲載した論考に一部手直しを加えたものである。「三位一体改革」について、アバウトな総括を行い、②において、2007年度の「地方財政計画」のポイントについて、批判的に検討し、安倍内閣の下で推進されている「地方分権」の怪しさについて検討を加えた。ごく、短い論考のため、若干「詰めて」かいてあるため、わかりにくい点があるかも知れない。ご海容をいただきたい。

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はじめに
 本稿では、最近の地方財政の変容、とりわけ小泉構造改革によってどのような変化が生じ、また安倍政権がこれをどのような形で継承しようとしているのかについて、「三位一体改革」の評価や地方財政計画等を中心にして、問題点を簡単にサーベイすることにする。
 事実関係を中心にして検討するが、「構造改革」=新自由主義政策のもとで、「地方分権」が様々な勢力によって無批判に追求されていることが、「地方」をして住民生活をカットする「マシーン」と化し、同時に国が医療・年金などの社会保障改悪に本格的に「専念」できる条件を醸成しているという問題意識を背景にしている。すなわち、新自由主義的「地方分権」の本質が、「分権型福祉破壊国家」を促進する重要な要因になっているという認識である。
 全国知事会などが、自己否定とも受け取れる「道州制」を論じ、自己決定、地方の裁量度の拡大、自由度の拡大、自立と責任などを標榜しつつ、自民党の改憲構想に「便乗」して、地方制度を「改革」しようとする姿勢などは、以上の状況に対応した危険な動きである。
 これらの状況から、実践的に導き出される結論は、憲法擁護の運動と地方自治、住民生活の擁護を一体的に推進し、憲法の「平和的生存権保障」を担う自治体への「転換」を、住民運動やオルタナティブの提起によって追求することの重要性である。

Ⅰ)三位一体改革の「結果」をどうみるか
 いわゆる「三位一体改革」は2002年の「骨太方針2002」に登場し、「骨太方針2003」によって、方向を決定づけられたものである。そのポイントについては「『官から民へ』、『国から地方へ』の考え方の下、地方の権限と責任を大幅に拡大し、国と地方の明確な役割分担に基づいた自主・自立の地域社会からなる地方分権型の新しい行政システムを構築していく必要がある。このため、事務事業及び国庫補助負担事業のあり方の抜本的な見直しに取り組むとともに、地方分権の理念に沿って、国の関与を縮小し、税源移譲等により地方税の充実を図ることで、歳入・歳出両面での地方の自由度を高める。これにより、受益と負担の関係を明確化し、地方が自らの支出を自らの権限、責任、財源で賄う割合を増やし、真に住民に必要な行政サービスを地方自らの責任で自主的、効率的に選択する幅を拡大する。同時に、行政の効率化、歳出の縮減・合理化をはじめとする国・地方を通じた行財政改革を強力かつ一体的に進め、行財政システムを持続可能なものへと変革していくなど、『効率的で小さな政府』を実現する。」と述べられている。
 また、その改革の「望ましい姿」として①地方の一般財源の割合の引上げ②地方税の充実、交付税への依存の引下げ③効率的で小さな政府の実現が指摘さている。
 「三位一体改革」は、一般的に税源移譲と国庫補助負担金の削減をセットで実現し、合わせて地方交付税改革を行うことと言われているが(自治体の市場化を促進・決定づける地方債の市場化=自治体の市場原理主義的運営を含むが)、上記引用にもあきらかなように「地方交付税の削減」が明確に述べられている点が注目されるべきである。
 さて、2004年~2006年の3年間(実際には2003年の「改革」を一部含めるが)に「補助金改革」(国庫補助負担金の削減と補助金の交付金化)として4兆6661億円が削減された。これは、「国の関与の最大の根拠」と言われてきた補助金を削減することによって、国の地方への関与を縮小すると説明されている(もちろん、そういう側面があることは当然である)。そして、これに対応して、3兆94億円の税源移譲が行われた。
 国庫補助負担金の削減の内容をみると、2004年度に「公立保育所運営費等」が一般財源化し、2440億円の税源移譲が行われた。また、同年に「義務教育費国庫負担金」の一部(退職手当、児童手当分)が一般財源化=税源移譲の対象化となった。2005年度には「国民健康保険等」「義務教育費国庫負担金」の合計1兆1160億円が税源移譲の対象となった。2006年度は、2005年度と同様の手法で6269億円が税源移譲の対象となり、2005年11月の政府・与党合意において三位一体改革の最終結論として、以上に加えて「児童扶養手当、児童手当、施設整備費」が税源移譲の対象(一般財源化)となり、6106億円の移譲となった。
 これらが、「国庫補助負担金の削減」の内容であるが、義務教育費国庫負担金の削減(補助率二分の一から三分の一へ)や児童扶養手当・児童手当の削減は、多くの議論を呼び、国の「ナショナルミニマム保障」の後退であると批判をされたことは記憶に新しい。
 義務教育費国庫負担金の削減を「補助率の削減」という手法で行ったことへの批判も大きかった。ただ、地方6団体の補助金削減要求のリストに「地方分権促進」の立場から、義務教育費国庫負担金の削減があげられていた点は、内部での議論が割れたことも含め、十分な総括が必要であろう。地方の中には、義務教育が地方の「自治事務」であることを強調し、地方教育委員会の廃止や首長の権限強化などと共に、義務教育費の財源を地方に全面的に移譲することを要求する潮流も大きい。ここでは詳細は省くが、少子高齢化の進行の中で、小中学校の統廃合が進行し、地方によっては義務教育費の逼迫が予想される中で、国が財源も含めてどのような「保障」を行うべきか、真剣に議論する必要があろう(この点については、拙稿「義務教育費国庫負担金の一般財源化と自治体再編─公教育費の動向と『三位一体改革』─」、『自治と分権』第17号、2004年10月を参照)。
 注目すべきことは、以上のような補助金削減→税源移譲に関する国=地方の「協議」の中で、生活保護費国庫負担金の削減(補助率削減)などが繰り返し持ち出されたことである。また、地方が要求もしなかった児童扶養手当の削減などが実際に行われたことや、国民健康保険に都道府県の財政が投入されるようになったことなども、今後の「一層の地方分権」の行く先をみる上で看過できないものがある。
 さて、補助金改革等が4兆6661億円であるのに対し、税源移譲が3兆94億円であるのは、補助金の交付金化を別にすると、自治体のスリム化=税源移譲の伴わない補助金の削減が約1兆円ほどあることによる。つまり、税源移譲と補助金等の削減は「見合う」ものではなかった(当初より義務的なものは10割、任意のものは8割とされていた)のである。
 次に「交付税改革」について述べておきたい。先に指摘しておいたように、地方交付税は「削減」が目標となっていた。交付税の削減は「地方財政計画」の縮小をベースにして、つまり地方の財政支出の縮小によって、これを担保する地方交付税を削減するという手法がとられた。
 小泉政権になって以降、2002年度は小規模自治体への「段階補正」「事業費補正」(公共事業対応の地方債の後年度交付税への措置)の縮小で0.8兆円の減少、2003年度は県の留保財源率の引き上げ(20%→25%へ、一般的には都市部自治体が有利と言われる)等で1.5兆の減少、2004年度は三位一体改革の初年度であるが、これが衝撃的で1.2兆円の削減(臨時財政特例債を含めると2.9兆円の一般財源の縮小ということになる)、2005年度はその反動で総額維持(臨時財政特例債は1兆円の減)となったが、2006年度は地方財政計画における予算と「決算」の乖離の縮小などを含め1兆円の減(臨時財政特例債を含め1.3兆円の減)となった。つまり、三位一体改革中に総額(一般財源)で5兆円以上の減少となっている(臨時財政特例債は一般財源「等」に含まれる)。
 このようにみてくると、三位一体改革中に国から自治体への移転財源は6兆円を超える「減少」となったわけである。

国と地方の歳出純計の推移ー図-1


 そこで、以上の状況と国と地方の歳出純計の推移(図-1)とを純計連動させて考察してみると、小泉内閣が実際に予算編成を行った2002年度から、地方の歳出純計が減少しており、2004年度まで継続している。また、国の歳出純計は小渕、森内閣にかけて公共事業の拡大を伴ってかなり増大し、その反動から2001年には縮小している。小泉内閣は「小さな政府」を目指したハズであるが、実際には国の歳出純計は殆ど減少しておらず、反対に2004年度は増大を示している。実質的に三位一体改革が開始された(芽出し)2003年以降は、地方財源への圧迫によって、国の歳出純計を維持・拡大している様子が見てとれる。
 2005年と2006年は、厳密な数字は公表されていないが、地方財政の縮小傾向は加速している。2003年から2004年以降は地方税収は拡大しているにもかかわらず、こういった状況を示しているわけで、明らかに政策的な地方財政「緊縮」=歳出削減の「強制」であると言って差し支えないだろう。2007年度の国の予算と地方財政計画を比較すると、国の一般歳出の伸びが1.3%であるのに対し(国債依存率が37.6%から30.7%に低下している中で)、地方財政計画の一般歳出は△1.1%となっている。

高知市「司」のカツオのたたき定食+ヒラメとタイの刺身

 2007年02月22日(木)

憲法・観光・漁業の元気な町ー土佐清水市

●『自治と分権』の首長インタビューで、四国の最南端の土佐清水市(西村伸一郎市長)に行ってきました。インタビューの詳細は『自治と分権』27号をご覧になって頂くとして、少し、印象などをのべておきたいと思います。
 
 土佐清水市は、「足摺岬」と言えば知らない人はいないと思いますが、四国の最南端です。インタビューを申し入れた際に、東京からは一番遠い(つまり時間がかかる)所ですよ、と念を押されました。高知の自治労連の書記長に「高知でいま、元気な取組を行っている自治体を紹介して」とお願いしたところ、土佐清水市が良いのでは、ということでお伺いした次第です。
 確かに、時間はかかり(松山空港からレンタカーでかなりとばしました)、足摺岬の国民宿舎足摺テルメ(元は市の直営だったものですが、現在は「指定管理者」で市の100%出資会社が運営ー担当者も全国から公募した)には日が暮れたころ到着をしました。
 この宿で、じつは美味しいと評判の「清水さば」を食べようと思っていたのですが、不運にも当日入荷しなかったということで、地元の「たびえび」(ぞうりえび)をしょくしました。
 

テルメの夕食


 上の食事の左上と右上の方にあるのが「足袋エビ」です。これがなかなか身が締まっていて美味しく、また、温泉も良質でお薦めの国民宿舎です。

●さて、翌日の午前中は、市長の秘書課の係長さんに市内を案内して頂きました。ご両親が漁師ということで、最初に案内されたのが、魚市場です。「清水サバ」を生け簀にいれた漁船が、列をなして荷揚げを待っています。漁船から市場内にある大きな「生け簀」まで、若い職員が網に「清水サバ」をいれて、全力疾走します。私たちがみている間にも、何往復もしておりましたから、かなりの運動量(笑い)です。
 市場内には、私のみたところでは、鯖はもちろんのこと、かなり型のよいタイ、ブリやヒラマサ、ハタ、イカなどが荷揚げされており、大きなヒラメの競りなどを行っておりました。
 土佐清水市だけで、16(?)の漁港があるということで、入り組んだ地形に小さな漁港が沢山あり、自然の良港です。
 
●「海の駅」にも案内をしていただき、ジョン万次郎の活動がわかる記念館もありました。秘書課の方が残念がっていたのは、ジョン万次郎の研究や宣伝が遅れており、沖縄の方が進んでいる。NHKの大河ドラマなどで取り上げてくれるように、働きかけもしているけど、その果たした役割ほど、全国的に名がしられていないということでした。
 ジョン万次郎は貧しい漁師の息子でしたが、船が難破した際にアメリカの船に救助され、その才能を見込まれて一人だけアメリカに「留学」したということですから、余程、あたまが良かったのでしょう。土佐の坂本龍馬や後藤象二郎などとの交友や(英語やアメリカの民主主義、国際情勢などを熱く話し合ったようです)、福沢諭吉の英語の先生でもありました。
 市長にインタビューを行った際も、ジョン万次郎のことが出てきました。土佐の自由民権にアメリカの民主主義を導入した、と。
 英会話の辞書なども自作しており、「海の駅」に展示されておりました。また、アメリカの捕鯨船の船長が倒れた際に、選挙で副船長になったという展示もありましたから、人望や国籍を問わない統率力もあったのでしょう。いまでこそ、なにか四国の最南端で「こんなところから、偉人が輩出しているのか~」と思いがちですが、黒潮が真っ先に接岸する地方だからこそでもあったと思われます。

清水サバの昼食


 今回は大サービスで、「清水サバ」の昼食の写真も提供します。これは、「関サバ」より美味しいと地元の人がいうだけあって、確かに大変美味しいものでした。東京ではちょっと食べられないリッチな雰囲気を味わいました(すみません)。

●さて、肝心のインタビューですが、西村伸一郎市長のお話は、漁業振興や農業振興に真剣に取り組まれていること、三位一体改革による財政困難の下でも、経営努力を職員が一体となって行い、介護の一部負担金への補助を継続していることや、中学校までの医療費の無料化(両方とも、四国では土佐清水市のみ)など、福祉に力をいれ、また、教育に力を入れていることを強調されておりました。
 農業では、他の地域と同じようなものをつくっていては生き残れないので、営農指導員を全国から公募して、パイナップルやキャベツ(あまおとめ)の育成や農家指導などを、行政主体で行っていることを述べておられました。
 お話では、「官から民へ」の流れの中で、行政がやることへの批判もあるけれど、漁業や農業の振興は自治体が責任を持たないと、発展できないとキッパリと仰っておられました。実は、秘書課の方にこのパイナップルやキャベツのハウスに案内をして頂き、美味しいキャベツ(小さなキャベツで、そのまま食べると甘い香りがします。当然、その日の夜に美味しくいただきました<笑い)などを頂戴しました。この場を借りて、御礼を申し上げます。

●西村伸一郎市長のお話の『圧巻』は、憲法や民主主義のお話でした。三橋代表委員(静大教授)が憲法について質問をしたところ、市長室に掲げてある歴代の市長の写真を指さしながら、元市長も「9条の会」の呼びかけ人で、署名も住民の過半数を集めた。憲法擁護、特に9条はこれから国際的にも発展させて、広めていく必要がある。高知県の「勤評闘争」の話まで出て、うれしくなりました。
 ここでも高知の歴史の重みや、ジョン万次郎のアメリカ民主主義の導入などについて力を込めてお話になっておりました。教育も地元でのジョン万次郎について教えるなど、自分たちの地元に誇りをもつ必要を述べておりました。
 今回のブログの題名を「憲法・観光・漁業の元気な町」としましたが、実にバランスが取れており、財政的なやりくりも「巧み」で、行政の手練れという印象を持ちました。
 ぎょろっとした目(失礼)は、一見するとちょっと怖そうな感じがしますが、漁業振興や農業振興、ジョン万次郎などのお話をする際は、目尻がさがり、笑顔が素敵です。
 最後に職員のことについて、若い人を採用して育てることの重要性。住民のために働くことの尊さなどを強調され、給与カットを行っていないのは、四国では自分のところだけだと述べておりました。ここには、行政への自信、職員への信頼が見てとれ、とても頼もしく感じました。

足摺岬のさま

 2007年02月18日(日)

自治シンポジウム―自治体改革は幻想か?―改革再興への道筋

●上記シンポジウムが2月10日に、江東区の清澄公園・大正記念館で開催された。「鼎談」という形式で、松本克夫(前日本経済新聞社論説委員)をモデレーターとして、五十嵐敬喜(法大教授)、片山義博(鳥取県知事)の三名の話であったが、午后1時半から4時までたっぷりと質疑も含めて行われたので、非常に充実した内容であった。
 主催は自治創造コンソーシアム(NPO)であった。シンポジウムの趣旨は「地方分権が進展するとともに、市場主義導入とコスト至上主義が加速する中で、昨年、福島県、和歌山県、宮崎県等の談合問題や岐阜県の裏金問題など「県」を舞台とする不祥事が相次いだ。このような問題は、地方行政への住民の不信感を益々増大させ、分権の逆風となっている。自治体改革は失速してしまうのか。汚職・不祥事の根幹は何処にあるのか。統一地方選挙を間近に控えた今、分権と市民自治の推進に向けて、信頼回復のための改革再興への道筋を考えたい。」ということであった。

●この間の「地方分権」の結果が、「市場主義導入やコスト至上主義」に帰結しているという認識は、全くその通りであり、これを批判しているスタンスは「なかなか」のものと言って差し支えない。同時に、こういった現象が分権改革の障害になっており、分権改革とは「相容れない」ものであること、従って、自治体を舞台に繰り広げられた「汚職や不祥事」などの分権への逆風を「克服」して、更なる分権推進に邁進すべきであるといういう主張を展開している。
 この後者の視点は、かなり「ありきたり」のものであり、何故、分権改革が市場主義やコスト至上主義に帰結しているのか、それは必然的なのか、偶然なのか、或いは、政治的に歪曲されたが故なのか、という視点からの「切り込み」はない。分権は本来、官僚主義や政治的腐敗を根絶する「決め手」になるハズであるという思いこみが前提になっており、分権への反省的分析の視点が欠如している点は、残念である。

●と言っても、自治体におけるこの間の汚職や不祥事それ自体の「原因」を探ることは、実践的には正しいものであり、分権それ自体の「善し悪し」は別にして、この実践的な考察から得るものは大きいと思われれる(一面的な分析に留まらなければ、という前提つきであるが)。
 シンポの内容はこのようなものであり。
①最近の自治体の不正事件の根本を探る。
②自治体の信頼回復の道筋―改革の論点整理
③自治体は真に分権の受け皿たり得るか―改革の提言
 というシンポの組み立てになっていた。
 
 まず、司会の松本氏がは次のように述べた(概略)。
 「去年は自治体に取って厄年だった。3人の知事が相次いで逮捕された。93年のゼネコン汚職や官官接待を通じた裏金問題があり、いわゆる改革派の知事が出てきて、色々な改革が行われたハズだった。ところが、実際には卒業できてなくて留年したのが実態だった。この10年間の改革はなんだったのか。朝日新聞が、知事の汚職問題等で何でそうなるかについてアンケートを取ったが、一番多かった回答が「業者との付き合い方」であり、次に「個人の資質」「入札制度の欠陥」「費用のかかる選挙」などであった。日経新聞もアンケートを行った。ここでは、「個人の規範意識」というのが32人でトップであった。その次に「選挙に金がかかる」「情報公開が遅れている」などとなっていた。まず、お二人のこの辺から感想を伺いたい。」

●これに対し、片山知事は、三人の知事の逮捕、夕張市の財政破綻などの自治体の失敗は、10年前に卒業したハズであると言われたが、起こるべくして起こった事件であると思う。まともな改革は行われていなかった。官制談合など巷間言われていることは、いずれも議会の承認を得ている。一件ごとの承認を得られないと契約は結べない。つまり、議会は、おかしいと思えば「ノー」といえる。議会でマトモに審議してない、できないことが最大の問題であり、自治法ではチェックのバックアップ機能を持っているはず。
 これが機能していない。だから、アンケートの結果などは表面的な話になっている。夕張の問題でも、借金の350億円は、多いけれどもとてつもなく多いというものでもない。問題は「粉飾」を行ったことである。誰がみても予算書をみれば分かるハズ。議会チェックをしてないことが問題。総務省が危険信号をつくるというけれども、議会再生法制でなければならない。自分は、この視点から議会のチェック機能の回復に取り組んだつもり。「根回し」はしないで、イヤなら反対をしてください、説明責任は果たしますということで。

 片山知事の発言では、分権云々の前に、議会の機能という、現行地方自治制度の基本的問題が出てきた。全くその通りであり、国と地方の「分権」などという前に、自治体内の「分権」というか、二元代表制と言われる制度が、議会の麻痺状態のために機能していないという点を、正確に指摘された。
 この背景には、「オール与党体制」などと言われる、地方には保守も革新もないというようなイデオロギーであるとか、また、利益の配分機能さえあれば、知事へのチェック機能など問題にならないという「プラグマティズム」などが地方には蔓延していることが指摘されよう。
 この間の長野県政などに代表されるが、議会と首長の「対決」が始まると、それぞれが「返り血」を浴びることになるが、それなりに(というか、泥試合にもなるが)緊張した関係が構築され、住民から知事も議会も注目されるという「結果」をもたらす。
 こういった議会と首長との緊張関係やチェック機能の発揮が殆ど行われないという「慣行」は、片山氏が述べる通りであろう。分権や地方自治の「根幹」の問題として議会問題を取り上げた「慧眼」は流石であろう。

●さて、五十嵐氏は、公共事業などをめぐって、過去に3回のショックがあった。一回目は、93年の金丸ショック、宮城、茨城など、政権交代もあり、建設業法について問題指摘をしたが、建設省幹部は「できない」と。二回目は、自治労の全国大会で挨拶をしたが、自治体は共犯者に近い。これを直さないと自治労はつぶれる」と述べてブーイングをかった。三回目が今回の問題。和歌山など、どう考えればよいのか。知事レベルでどうにもならないのであれば、これは構造問題であるが、内部告発(ちくり)で問題が発覚する。宮崎県は警察が動いた。

 というように、お二人は、それぞれの立場から「構造的」な問題を指摘された。これを受けて、松本氏は、「お任せ民主主義」の問題として、中央集権で国から金を持ってきて談合へというパターンを指摘した。自分たちの金が地域で使われているのではなく、補助金、借金のもとでは「ソンした」と思えない体質。国から金、事業を「もってくる」という意識。これがグローバリズムの下で、会社の保障が弱体化して、自治のことを考える必要が出てきた。痛い目に遭わないと改革は起きていない。夕張はその典型でないだろうか。私は「甘い」と言われるけれど、切っ掛けさえあれば、改革はできるという甘い考えをもっている、と。

 そこで、議会と知事の関係について、松本氏は数字をだしていたが、知事の出した条例案が全部通ったのが、24府県。否決や修正が一番多かったのが、30件の長野県。2位は10件の鳥取(爆笑)。三位は9件の高知、香川。5位は7件の岩手。というものであった。
 議員提案は、2005年でみると鳥取は5件あるが、50%は3件以下になっている。こういう中で北海道の栗山町の「議会基本条例」などが出てきている。

●その後、色々な話に飛んだが、片山氏の一貫した主張は、地方分権とは究極的には、国がきめたことを自治体で決めるようになることこと、つまり議会で決めることであり、条例を作ることである。金の配分についても、中央から予算で決める。地方議会で決める、これが地方分権であると。
 この主張は、新自由主義的な「地方分権」が、独裁首長のトップマネジメントであったり、思いつきであったりするのと対照的に、議会という組織が首長をチェックしつつ、条例=制度に基づいて、住民の意思を確認しつつ進めることであるという議論につながる。全くの「正論」であろう。
 日本の地方自治は町村における「総会」を認めている。ギリシャの直接民主主義に似ている。「小さい自治体」で合併しなかったところは、それをやったらいいとそそのかしたが、のって来なかった(笑い。
 議会の選び方、選ばれ方もワンパターン。国民の大半は、被雇用者であるにも拘わらず、議会は殆ど自由業、農業、土木建設業になっていて、大半の人は代表されていない。それに、サラリーマンや公務員は、議員はやれない。もっと、色々な職業をもった人が議会に出られるようにしないと。学校の先生も出たらよい(ここで日野郡民会議の話)。

 片山氏の話は、現在の職業的議員(と言っても、町村の議員は他に職業がないと、食っていけないが)よりも、様々な人が気楽に議員になれるようなヨーロッパ的な議員のあり方を念頭に置いているように思えた。これは大変に難しい問題であろう。何よりも、働き方、生き甲斐、そして、政治を「身近」なものと感じることや、政党のあり方についても関連する。氏は、地域政党を作ってもよいとまで述べていた。

●実は昨年、全国知事会が行われた際に「官製談合等公共調達に係る不正の根絶宣言」(12圧18日)が発表されたが、片山知事は、こんなもので根絶できるということは世間の人とたぶらかすことになるので、自分1人だけ署名をしてないと述べていた。また、当初は「決別宣言」であったとも述べていた。

 以上のように、このシンポジウムの目的から「逸れた」のかもしれないが、公共事業や議会と知事の緊張関係などを中心に議論が進んでいって、巷間よくある「一層の税源移譲が地方分権の更なる前進に繋がる」とか、権限の移譲を一層進めるというような、既に国によって地方が絡め取られた古い様式の、「一層」の前進という話にならなかったことは、片山氏(並びに五十嵐氏の)見識の高さだったと思う次第である。

 考えてみれば当たり前のことではあるが、首長が「独裁」的な権限をふるっている自治体に、国の権限や財源を移譲していみても、「ロク」な結果にならないだろう。教育委員会を廃止したり、職員のリストラをやり放題とか、実にくだらない話になることは必定であろう。
 現在の地方分権は、残念ながら、「分権型福祉国家」志向ではなく「分権型福祉破壊国家」志向になっている。「格差」の拡大が拡大再生産され、それが固定化して行けば、成果主義や能力主義の先に、旧態依然たる、かつての学歴主義の再生産すら起こりうるかもしれない。

●「地方分権」などという自由主義的な議論については、よくよくその実態を吟味しつつ、検討を進める必要がある。直接参加や民主主義のあれこれの形態、そして国民主権の実態を拡大しつつ、「自治」という自己統治への道は、まだまだ遠いのであろうか。はたまた、かなり近くに接近しているのであろうか。
 中々含蓄のある問題ではある。

自治シンポジウムー自治体改革は幻想か?